8節 英・独の航空機
British and German aircraft
スピットファイア Supermarine Spitfire
アブロ・ランカスター Avro Lancaster
スピットファイア Supermarine Spitfire
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1938年(昭和13年)
液冷戦闘機Liquid-cooled
Fighter aircraft
最高速度Top speed 586km/h
スピットファイアSupermarine
Spitfireは、イギリスBritish Empireのスーパーマリン社Supermarine Aviation Worksで開発Developmentされた単発レシプロSingle
Reciprocating engine単座戦闘機Single-Seat Fighterである。
第二次世界大戦World War IIにおいてイギリス空軍Royal
Air Forceを始めとする連合軍Allied forcesで使用された1940年(昭和15年)のイギリス防空戦Battle of Britainの際に活躍したため、イギリスBritish Empireをドイツ空軍Nazi Germany's air forceから救った「救国戦闘機Fighter aircraft of national salvation」とも呼ばれる。
格闘戦Dogfightを重視し旋回性能Turning performanceを向上させるため楕円形ellipticalで薄いthinnest主翼wingを採用しているのが特徴である。
主任設計技師Chief designerであるR.J.ミッチェルReginald Joseph Mitchell(1937年死去)とジョセフ・スミスJoseph
Smithを始めとするミッチェルMitchellの後継者Successorたちによって設計されたスピットファイアSpitfireは、操縦士Pilotたちからの支持は厚く、第二次世界大戦World War IIのさまざまな状況で活躍した。
基本設計basic designが優秀であったことと、戦況に応じたエンジンEngineの出力向上(しかも排気量Engine displacementはグリフォン・エンジンRolls-Royce
Griffonまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、ライセンス生産Licensed productionなど含め23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。
スピットファイアSpitfireはイギリス空軍Royal
Air Forceの主力戦闘機Main Fighter aircraftとして採用された。
美しい楕円形の主翼elliptical shaped wingと引き締まった胴体は同時代の戦闘機Fighter aircraftに較べて構造、空力ともはるかに洗練され、これに傑作エンジンMasterpiece
engineとして名高いロールスロイス・マーリンRolls-Royce “Merlin”液冷エンジンliquid cooled 12 cylinder enginを搭載。
1940年(昭和15年)の夏、イギリスBritish Empireは国家はじまって以来とも言える危機に立たされていた。
第二次世界大戦World War IIの開戦The beginning of
the warからわずか1年。
破竹の勢いでWith tremendous
momentumヨーロッパEuropeを支配してきたナチス・ドイツNazi
GermanyがいよいよイギリスBritish Empireに乗り出したのである。
戦闘機Fighter aircraftや爆撃機Bomber 2000機以上を展開して連日激しい爆撃Airstrikeを加えるドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forcesに対し、迎え撃つイギリス空軍Royal Air Forceの戦闘機Fighter aircraftはわずか600機足らず。
イギリスBritish Empireの運命fateは一握りの戦闘機Fighter aircraftとパイロットPilot達に託されたのである。
イギリス防空戦Battle of Britainとして有名なこの戦いThis
famous battleで中心となって戦ったのがスピットファイアSpitfireだった。
ナチス・ドイツNazi Germanyの主力戦闘機Main Fighter
aircraftメッサーシュミットBf109E Messerschmitt Bf
109Eに対して互角以上に渡り合える高性能は大きなアドバンテージとなり、苦戦を強いられながらもイギリス戦闘機隊British Fighter
aircraft unitは粘り強く戦った。
ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceは多くの損害を出し、ナチス・ドイツNazi Germanyはついにイギリス本土British mainland上陸作戦Landing operation(アシカ作戦Operation Sea Lion)を無期延期Indefinite postponement。
ホーカー・ハリケーン Hawker Hurricane
ホーカー・ハリケーンHawker
Hurricaneは、イギリスBritish Empireのホーカー・エアクラフト社Hawker Aircraft Limitedによって1930年代に設計されたレシプロ単発Single
Reciprocating engine・単座戦闘機Single-Seat Fighterである。
第二次世界大戦World War IIにおいてイギリス空軍Royal
Air Forceを始めとする連合軍Allied forcesで使用され、イギリス防空戦Battle of Britainなどで広く活躍した。
スピットファイアSpitfireとの競争作Competitive workとして知られ、1936年(昭和11年)から1944年(昭和19年)まで生産Productionされた。
ホーカー・フューリー Hawker Fury
ホーカー・フューリーHawker
Furyは、イギリスBritish Empireのホーカー・エアクラフト社Hawker Aircraft Limitedが開発Developmentし戦間期Interwar periodから第二次世界大戦期World War II periodにイギリス空軍Royal Air Forceなどで運用Operationされた戦闘機Fighter aircraft。
グロスター・グラディエーター Gloster Gladiator
グロスター・グラディエーターGloster
Gladiatorは、イギリスBritish Empireのグロスター・エアクラフトGloster Aircraft Company Ltdが製作Productionした複葉戦闘機Biplane fighter。
第二次世界大戦の初期Early
World War IIにも戦闘battleに使われた。
艦上機Carrier-based
aircraftへの改造modifyもなされ、そちらはシー・グラディエーターSea Gladiatorと呼ばれた。
グラディエーターGladiatorとは剣闘士の意味meaning。
スーパーマリン・ウォーラス Supermarine Walrus
スーパーマリン・ウォーラスSupermarine
Walrusは、イギリスBritish Empireのスーパーマリン社Supermarineで開発Developmentされた水陸両用偵察機Amphibious reconnaissance aircraft。
第二次世界大戦前後を通じてBefore
and after World War II使用された。
名称についてはウォーラスWalrusとはセイウチの意であり、発音記号に基づいて発音すると「ウォゥルラス」となるが、便宜上この項では「ウォーラス」としている。
ホーカー・ハート Hawker Hart
ホーカー・ハートHawker
Hartは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にBetween World War I and World War IIイギリス空軍Royal Air Forceで採用された複葉Biplaneの複座Two-Seat軽爆撃機light bomberである。
製造Manufacturingはホーカー・エアクラフト社Hawker
Aircraft Limitedで、1928年(昭和3年)に初飛行First flightした。
当時の戦闘機Fighter at that
timeよりも高速で整備の容易な機体High-speed and easy-to-maintain aircraftだった。
ヴィッカース・ヴィルデビースト Vickers Vildebeest
イギリス空軍Royal Air Forceで採用された複葉Biplaneの複座Two-Seat軽爆撃機light bomberである。
ヴィッカース社Vickers。
ブラックバーン・リンコック Blackburn Lincock
ブラックバーン・リンコックBlackburn
Lincockは1920年代後期のイギリスBritish Empireの戦闘機Fighter aircraftである。
イギリス空軍Royal Air Forceには採用されなかったが少数が製造され中国空軍Chinese Air Force、日本陸軍Imperial Japanese
Armyに少数機が納入された。
フェアリー・ソードフィッシュ Fairey Swordfish
フェアリー・ソードフィッシュFairey
Swordfishは、イギリスBritish Empireの航空機メーカーaircraft makerであるフェアリー社Fairey Aviation Companyが開発Developmentし、イギリス海軍航空隊Royal Naval Air Serviceによって使用された三座Three-Seat複葉Biplaneの雷撃機Torpedo bomberである。
複葉機Biplane時代の最後を飾ったcrowning glory the
end of the era非全金属製軍用機Non-all-metal
military aircraftの傑作masterpiece。
ソードフィッシュSwordfishの意味meaningは、魚類fishesのメカジキから。
フェアリー・バトル Fairey Battle
フェアリー・バトルFairey
Battleは、第二次世界大戦初期Early World War IIにイギリスBritish Empireのフェアリー社Fairey Aviation Companyが開発Developmentし、イギリス空軍Royal Air Forceで運用Operationされた爆撃機Bomber。
ブリストル・ブレニム Bristol Blenheim
ブリストル・ブレニムBristol
Blenheimは、ブリストル社Bristol Aeroplane Companyが開発Developmentし、第二次世界大戦初期Early
World War IIにイギリス空軍Royal Air Forceで運用された双発Twin-engine軽爆撃機light bomber。
名称の「ブレニムBlenheim」は、ドイツの地名ブリントハイムの英語圏における呼称である。
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。
ブリストル・ボーファイター Bristol Beaufighter
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1940年(昭和15年)
多用途戦闘機Multirole combat
aircraft
最高速度Top speed 516km/h
液冷Liquid-cooled空冷Air-cooled双発Twin-engine複座機Two-Seat aircraft
ブリストル・ボーファイターBristol
Beaufighterは、イギリスBritish Empireのブリストル社Bristol Aeroplane Companyが開発Developmentし、第二次世界大戦World
War IIにおいて主にイギリス空軍Royal Air Forceに運用された戦闘機Fighter aircraft。
名称の「ボーファイターBeaufighter」は、原型となったブリストル・ボーフォートBristol Beaufort雷撃機Torpedo bomberから派生した戦闘機Fighter aircraftという意味の造語である。
また、愛称Nicknameとして「ボーBeau」とも呼ばれた。
本来は長距離を飛行できる昼間戦闘機Daytime Fighterとすべく双発Twin-engineの重戦闘機Heavy fighterとして開発Developmentされた機体。
戦闘機Fighter aircraftとするには性能不足であったが、搭載量に余裕があったことcarry heavy armamentから、航空機搭載用レーダーAirborne Interception radarを装備した夜間戦闘機Night fighterや雷撃機Torpedo bomberなどとして多種多様な任務に使用された。
また、発動機Engineも他機種の生産状況との兼ね合いによって、空冷Air-cooledのハーキュリーズ・エンジンBristol
Herculesを搭載した型と液冷Liquid-cooledのマーリン・エンジンRolls-Royce Merlinを搭載した型があるという珍しい機体である。
最初の生産型ブリストル・ボーファイターMk Iは、1940年(昭和15年)9月から実戦に加わり、イギリス防空戦Battle
of Britainに続くドイツ機Nazi Germany's aircraftの夜間空襲Night bombingの迎撃Interceptionに大きな戦果を上げたのである。
このMk IそしてMk IIに続く量産型がボーファイターMk VIで、戦闘機隊配備がF型、沿岸航空隊配備がC型とされた。
エンジンEngineをより強力なハーキュリーズVIとし、C型では胴体後部の偵察員席Observer’s Seatにも7.7mm機銃7.7mm machine gunsを備え、1942年(昭和17年)に入ると続々と実戦に投入されたのである。
F型はヨーロッパEuropeからアフリカAfrica、中東Middle Eastへも進出して夜間戦闘機Night fighterとして活躍、過酷な砂漠の戦いでも高い信頼性でモスキートMosquitoをしのぐ評価を受けたのである。
またC型も北海North
Seaから地中海Mediterranean Seaにいたる広い戦域で対艦、対地攻撃に投入され、魚雷装備の機体を加えた戦闘機Fighter aircraft、爆撃機Bomber、雷撃機Torpedo bomberとしての混成部隊も編制されてドイツNazi Germanyの護衛船団に大きな打撃を与えたのである。
ボーファイターBeaufighterは第二次世界大戦World
War IIの後半には太平洋戦域Pacific Ocean theaterにも派遣され、日本軍Imperial Japanese Forcesとも戦うことになる。
その生産数は各型総計5,900機あまりになる。
デ・ハビランド・モスキート de Havilland Mosquito
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
多用途戦闘機Multirole combat
aircraft
最高速度Top speed 667.9 km/h
液冷Liquid-cooled双発Twin-engine複座機Two-Seat aircraft
デ・ハビランド・モスキートde
Havilland Mosquitoは第二次世界大戦World War II中、主にイギリス空軍Royal Air Forceで運用された爆撃機Bomber。
開発Development・製造Manufacturingはデ・ハビランド社de
Havilland Aircraft Company。
戦闘機Fighter aircraftとしても申し分ないほどの高性能を示し、機体が木製woodenであったことから「木の驚異Wooden Wonder」と呼ばれた。
爆撃機Bomber型・戦闘機Fighter aircraft型以外に、夜間戦闘機Night fighter型や偵察機Reconnaissance aircraft型なども作られた。
モスキートMosquitoはマーリン・エンジンRolls-Royce
Merlinを両翼に1基ずつ搭載した双発機Twin-engine
aircraftであり、操縦室Cockpitには操縦士Pilotと航法士Navigatorが並んで座る並列複座戦闘機Two-Seat aircraftであった。
エンジンengineやプロペラpropellerなどを除けば、燃料タンクFuel tankを含めてほとんどの部位に木材Woodを使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもあったが、生産Manufacturingにあたって家具Furnitureなど木工Woodworking分野の工場も動員できる上、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れる、といった副次的なメリットもあった。
木製woodenゆえレーダーに察知されにくいため、最初期のステルス機Stealth aircraftともいえる存在である。
3つの異なる種類の試作機Prototypeが製作され、爆撃機Bomberの試作であるW4050は1940年(昭和15年)11月25日に初飛行maiden flightを行い、それに続いて、1941年(昭和16年)5月15日に夜間戦闘機Night fighter型、同年6月10日に写真偵察機photo-reconnaissance aircraft型が初飛行maiden flightを行った。
その他にも戦術爆撃機Strategic Bomber、先導機Pathfinder、昼間daytime及び夜間戦闘機Night fighter、攻撃機fighter-bomber、写真偵察機photo-reconnaissance aircraftなど、幅広い任務に投入された。
モスキートMosquitoが投入された最も大胆な作戦はジェリコー作戦Operation
Jerichoであり、フランスFranceのアミアン刑務所Amiens Prisonの壁と警備員の宿舎を爆撃し、レジスタンスResistanceのメンバーの脱出を助けた。
インドIndiaおよびビルマビルマBurma方面に投入されたモスキートMosquitoは、日本陸軍機Imperial Japanese
Army aircraftのみならず高温多湿の気候が最大の敵となった。
一部の機体を組み上げるのに使用したカゼインCasein系接着剤Adhesiveが劣化、ひび割れて機体外板が剥離して墜落事故をおこす、というものである。
アブロ・ランカスター Avro Lancaster
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1942年(昭和17年)
液冷Liquid-cooled四発Four-engine戦略爆撃機Strategic Bomber
最高速度Top speed 450 km/h
乗員Crew 7名 操縦士Pilot・航法士navigator・機関士flight engineer・爆撃手bomb aimer・無線士wireless operator兼機首銃手nose gunner・背部銃手mid-upper gunner・尾部銃手rear gunner
アブロ・ランカスターAvro
Lancasterは、アブロ社Avroが開発Developmentし、イギリス空軍Royal
Air Forceなどで運用された四発Four-engine戦略爆撃機Strategic Bomber。
名称の「ランカスターLancaster」はランカシャー州Lancashireのランカスター市Lancasterに由来する。
愛称Nicknameは「ランクLanc」。
イギリス空軍Royal Air Forceが1942年(昭和17年)に運用を開始し、スターリングShort
Stirling、ハリファックスHalifaxと共にイギリス空軍Royal Air Forceの爆撃機軍団Bomber Commandに配備され、カナダCanadaなど他の連合国United Nationsでも使用された主力爆撃機Main Bomber。
特にドイツNazi Germanyに対する夜間Nightの戦略爆撃Strategic bombingで活躍した。
アブロ・ランカスターAvro
Lancaster最大の特徴は長さ10.05mの爆弾倉bomb bayである。
この大型爆弾倉large bomb bayによって最初に運搬された大型爆弾large bombは1,800
kg爆弾bomb「クッキーCookie」であった。
重要かつ堅牢な目標を攻撃対象としたB.1スペシャル号は爆弾倉bomb bayの扉を改造し、長さ6.4m、5,448kgのトールボーイTallboyか長さ7.77m、9,979kgのグランドスラムGrand Slamなど地震爆弾earthquake bombを運搬できた。
1941年(昭和16年)、昼間daytimeは米軍US Armed ForcesのB-17フライング・フォートレスBoeing
B-17 Flying Fortressが中心となり、夜間Nightは英軍British
Armed Forcesのこのアブロ・ランカスターAvro Lancasterが中心となってドイツ本土German mainlandを焼け野原にしていく。
1943年(昭和18年)5月17日に実行された、イギリス空軍Royal Air Force第617飛行中隊No. 617 Squadronのアブロ・ランカスターAvro Lancasterによる、ドイツ工業地帯German Industrial areaのダムDamの破壊を目的としたチャスタイズ作戦Operation Chastise。
この作戦には「反跳爆弾Bouncing bomb」が使用された。
作戦後、同中隊は「ダム攻撃隊Dam Busters」として知られるようになる。
ショート・スターリング Short Stirling
ショート・スターリングShort
Stirlingは、第二次世界大戦初期Early World War IIのイギリス空軍Royal Air Forceで使用されたショート社Short Brothers製の重爆撃機Heavy bomber。
イギリス空軍Royal Air Force初の4発重爆撃機four-engined heavy bomberで、ハンドレ・ページ・ハリファックスHandley
Page Halifax、アブロ・ランカスターAvro Lancasterと共に戦略爆撃機Strategic Bomber三本柱Three pillarsとなったが、高高度性能が悪かったことと爆弾搭載に制限があったことが原因で3機種の内で一番早く退役した。
名称の「スターリングStirling」は、スコットランドScotlandにあるスターリング市Stirling cityのこと。
ハンドレ・ページ・ハリファックス
Handley Page Halifax
ハンドレ・ページ・ハリファックスHandley
Page Halifaxは、イギリス空軍Royal Air Forceの4発重爆撃機four-engined heavy
bomber。
開発Developmentはハンドレ・ページ社Handley
Page Limited。
アブロ社Avroが開発Developmentしたアブロ・ランカスターAvro
Lancasterと同世代の重爆撃機Heavy bomberで、第二次世界大戦が終結するまでUntil the end of World War II運用された。
エアスピード・ホルサ Airspeed Horsa
エアスピード・ホルサAirspeed
Horsaは、イギリスBritish Empireの航空機メーカーaircraft makerであるエアスピード社Airspeed Limitedにより第二次世界大戦中during the Second World Warに製造Manufacturingされた兵員輸送用グライダーtroop-carrying
gliderである。
ホルサHorsaという名前は、5世紀5th-centuryのイギリス南部southern Britainの征服者conquerorホルサHorsaに因んで付けられた。
メッサーシュミットBf 109
Messerschmitt Bf 109
ナチス・ドイツ空軍Nazi
Germany's air force
運用開始Introduction 1937年(昭和12年)
液冷戦闘機Liquid-cooled
Fighter aircraft
最高速度Top speed 630km/h
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf
109は、第二次世界大戦World War IIにおけるナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air forceの主力戦闘機Main Fighter aircraft。
世界で初めて一撃離脱戦法Hit-and-run tacticsを前提に開発Developmentされたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼Main wingを持ち、エンジン砲Propeller cannonや主脚Main landing gearの発動機架Engine mountなど、特徴のある設計となっている。
本機の生産数Production numberは30,000機を超え、歴史上もっとも生産されたMost produced in
history戦闘機Fighter aircraftであると同時にエーリヒ・ハルトマンErich Hartmannやゲルハルト・バルクホルンGerhard Barkhornといった撃墜王Flying Aceを輩出させた。
1934年(昭和9年)、バイエルン航空機製造Bayerische Flugzeugwerkeで開発Developmentが開始され、翌1935年(昭和10年)、生産開始。
設計主任Design chiefは、かつてメッサーシュミットBf 108を設計したロベルト・ルッサーRobert Lusser技師。
後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社Messerschmitt
AGとなった。
Bf109Fシリーズは、中空のプロペラ軸hollow
propeller hubを通して、そこから発射する機関砲cannon armamentがようやく実用化されたのも特徴で、これにより機首上面の機銃Machine gunと合わせて機軸近くに武装armamentの重量が集中し、空力的洗練と相まって極めてバランスのとれた戦闘機Fighter aircraftに成長し、1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)当時の世界最強の戦闘機the
world’s most potent fighterと言われるに至った。
単葉Monoplane、全金属・応力外皮式all-metal monocoque construction、密閉式の風防closed
canopy、引込脚retractable landing gearなど、第二次世界大戦World War IIの単座戦闘機Single-Seat Fighterで主流となる形態を世界に先駆けて備えていた。
ハインケルHe 112 Heinkel He 112との激しい競争試作の末に採用され、スペイン内戦Spanish Civil Warのコンドル部隊Condor
Legionに3機が試験的に投入されて以降、改良を重ねて第二次世界大戦World
War II終了までドイツ空軍Nazi Germany's air forceの実質的な主力戦闘機Main Fighter aircraftとして使われた。
加速力Acceleration powerに優れ、スピードspeed、機動力Mobile power、上昇力Ascending powerも悪くはなかった。
開発Development時は陸戦Land warfareの直援機Direct cover
aircraftとしての性格が強かったため航続力Cruising rangeは劣る。
イギリス防空戦Battle of Britainでは、スピード重視Focus on speedだったこともあり機動力Mobile powerに優れるスピットファイアSupermarine Spitfireに追い散らされ、爆撃機Bomberを狙うハリケーンHawker Hurricaneには機動力Mobile powerで劣っていたために護衛戦闘機escort fighterの任務は果たせなかった。
回数は少なかったが、アメリカ海軍US Navyやイギリス海軍Royal NavyのF4FワイルドキャットGrumman
F4F WildcatやF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcat、さらに地中海Mediterranean
TheatreでP-39エアラコブラBell P-39 Airacobraと戦った。
ドイツNazi Germanyを空爆Airstrikeする爆撃機Bomberの護衛escortとして飛来したP-51マスタングNorth American P-51 MustangのB/C型は、遠目にはメッサーシュミットBf 109と類似しており友軍機Friendly aircraftから誤射shoot the wrong targetされる事件が度々起きていたため、D型でキャノピーcanopyと塗装を変更し解決した。
フォッケウルフFw 190ヴュルガー
Focke-Wulf Fw 190 Würger
ナチス・ドイツ空軍Nazi
Germany's air force
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
空冷戦闘機Air-cooled Fighter
aircraft
最高速度Top speed 670 km/h
フォッケウルフFw 190ヴュルガー Focke-Wulf Fw 190 Würgerは、ドイツNazi Germanyのフォッケ・ヴルフ社Focke-Wulfが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II時にドイツ空軍Nazi Germany's air forceなどで運用された戦闘機Fighter aircraft。
愛称Nicknameの「ヴュルガーWürger」は百舌(もず)Bull-headed
shrikeの意。
設計責任者はクルト・タンクKurt Tankで、メッサーシュミット社Messerschmitt AGが開発DevelopmentしたメッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf
109戦闘機Fighter aircraftとともに第二次世界大戦World
War IIにおけるドイツ航空戦力Air powerの主力main forceを担った。
本機は「液冷航空エンジンLiquid-cooled Aircraft engine王国Kingdom」であった当時のドイツ空軍Nazi Germany's air forceにあって、初期型が唯一強力な空冷航空エンジンAir-cooled Aircraft engineを搭載した主力戦闘機Main Fighter
aircraftとして優れた飛行性能を見せたほか、機体が頑丈で発展性に余裕があり、戦闘爆撃機Fighter-bomber型や対爆撃機Anti-bomber型、高速偵察機High speed reconnaissance aircraft型など様々な派生型が生産され、また機体の整備・運用の手間に要するコストも比較的少なく、第一次世界大戦World War Iへの従軍経験のあるクルト・タンクKurt Tankの設計コンセプトが具現化し、よく過酷な戦場に耐えて第二次世界大戦World
War IIを戦い抜いた。
シリーズの総生産数は20,000機以上。
うち、戦闘爆撃機Fighter-bomber型は6,600機強。
ドイツ空軍Nazi Germany's air
force「ルフトヴァッフェ」は緒戦時、メッサーシュミットBf 109を主力main
forceに据えて戦った。
しかしメッサーシュミットBf 109は主脚Main landing gearの構造上、着陸時に事故を起こしやすい欠点を持つことや戦力的優位を保つには常にメッサーシュミットBf 109に匹敵するだけの戦闘機Fighter aircraftの開発Developmentを怠ってはならないと考えを持つ者がドイツ航空省内部にいた。
前線投入されたフォッケウルフFw 190はその高い稼働率と1500馬力超のパワーでもってメッサーシュミットBf 109に勝るとも劣らない活躍をした。
百舌(もず) Bull-headed shrike
初飛行maiden flight当初、技術局は「こんな角ばったずんぐりした飛行機aircraftでイギリス機British aircraftに太刀打ちできるか」とバカにしていたが実戦配備されるやいなや、フォッケウルフFw 190はスピットファイアSupermarine Spitfireやホーカー・タイフーンHawker Typhoonを圧倒しドイツ空軍Nazi Germany's air forceの主力main forceとして戦争終結までヨーロッパEuropeの空を暴れまわった。
ユンカースJu 87シュトゥーカ
Junkers Ju 87 or Stuka
ナチス・ドイツ空軍Nazi
Germany's air force
運用開始Introduction 1936年(昭和11年)
液冷Liquid-cooled複座Two-Seat急降下爆撃機Dive bomber
最高速度Top speed 310km/h
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stukaは、ドイツNazi Germanyのユンカース社Junkers Aircraft and Motor Worksが開発Developmentし、第二次世界大戦World
War II中にドイツ空軍Nazi Germany's air forceなどで運用された急降下爆撃機Dive bomberである。
愛称Nicknameの「シュトゥーカStuka」とは、本来は本機種の固有の愛称Nicknameではなく、“急降下爆撃機Dive bomber”を意味するドイツ語Germanの「Sturzkampfflugzeug」(シュトゥルツカンプフルクツォイク)の略であったが、本機がドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forcesの用いた急降下爆撃機Dive bomberの代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。
日本語では「スツーカ」「ストゥーカ(ステューカ)」とも表記されている。
逆ガル翼Inverted gull wingの複座機Two-Seat aircraftで固定脚Fixed gearが外見上の大きな特徴で、急降下爆撃機Dive
bomberらしいガッシリとした武骨な形状Massive and rugged formをもつ。
急降下爆撃Dive bombingの機動に耐えるため機体構造が頑丈で、整備も容易で反復攻撃をこなせる実用性に富む機体であった。
逆ガル翼Inverted gull wingが生み出す下方視界の良さと、安定した急降下Dive性能により精密な爆撃Airstrikeを実施でき、急降下Dive時にサイレンsirenのような音を立てることから連合国United Nations側からは「悪魔のサイレンDevil
siren」の異名Synonymで恐れられた。
この通称にヒントを得て、後に機体には実際に小型プロペラpropellersにより駆動されるサイレンsiren (ジェリコのラッパJericho trumpets)が取り付けられるようになり、標的となった陣地などの敵兵を恐慌へと追いやり、地上部隊の進撃を爆撃と心理面で援護することになる。
頑丈、すなわち重い機体構造という急降下爆撃機Dive bomberの特性ゆえの弱点があり、低速、鈍重で防弾Bulletproofing設備が貧弱だったため空戦Aerial warfare能力は低く、制空権air superiorityを確保した状態での攻撃Attackにしか適さなかった。
また、機体の重さのしわ寄せは燃料搭載量にも及び、航続距離Cruising rangeが短く行動半径が狭かった。
ユンカースJu 87シュトゥーカは1939年(昭和14年)にはじまるポーランド侵攻Invasion of Polandや開戦当初の電撃戦Lightning warにおいて非常に大きな戦果を挙げたが、1940年(昭和15年)の英国空中戦Battle of Britainでは、防弾Bulletproofing性能の低さと制空権air superiorityを確保していない地点への投入によりスピットファイアSupermarine
Spitfireやホーカー・ハリケーンHawker Hurricaneなどのイギリス戦闘機British Fighter aircraftに多数が撃墜shot downされ、大きな損害を出した。
また、航続距離Cruising rangeの不足から、英本土British mainland内陸Inlandの目標を攻撃出来なかった。
本機は第二次世界大戦World War II以前の1935年(昭和10年)秋に初飛行Maiden flightを行っているにもかかわらず、後継機Successorに恵まれなかったこともあって大幅なバージョンアップupgradeも無く終戦まで使用され続けた機体である。
開戦当初こそAt the beginning of
the war大きな戦果を挙げたがgot a
big battle result、ドイツ空軍Nazi Germany's air force上層部the top‐ranking
government officialsは能力を過信しoverconfident in ability、「急降下爆撃Dive bombingこそが至上の爆撃Supreme bombingである」と誤った認識False recognitionをもった者も多かった。
その認識の甘さnaiveは英国空中戦Battle of Britainでの大損害を生む原因Causes of great damageともなった。
1942年(昭和17年)頃から陸上では単発爆撃機Single-engine Bomberは活躍の場を失いつつあり、ドイツ空軍Nazi Germany's air forceでもフォッケウルフFw 190 Focke-Wulf Fw 190などの地上攻撃機Ground-attack
aircraft・戦闘爆撃機Fighter-bomber型が登場しているが、旧式化したユンカースJu 87もダイブブレーキDive brakesを外し、襲撃機Assault Planeとして生産され続けた。
フランス戦Battle of Franceではドイツ陸軍Nazi Germany's Army支援のためフランス軍戦車French
Tankに対して急降下爆撃Dive bombingを行ったが効果は薄く、機銃Machine gunでエンジン部分を狙った方が確実に損害を与えられた。
この戦訓combat lessonをもとに、爆弾bombではなく機関砲Autocannonを搭載した対戦車攻撃機Tank-attack aircraft型(ユンカースJu 87 G)も開発Developmentされている。
フィーゼラーFi 156シュトルヒ
Fieseler Fi 156 Storch
ドイツ国防軍Nazi Germany's
Defense Force
運用開始Introduction 1937年(昭和12年)
空冷Air-cooled複座Two-Seat連絡機Liaison aircraft
最高速度Top speed 175km/h
フィーゼラーFi 156シュトルヒFieseler Fi 156
Storchは、ドイツ国防軍Nazi Germany's Defense Forceにおいて、第二次世界大戦World
War II中にあらゆる戦線On every frontで空中偵察Reconnaissance、弾着観測Artillery observer、負傷兵輸送Injured soldier transportなど多様な目的Diverse purposesに使用された航空機Aircraftである。
シュトルヒStorchとはドイツ語GermanでコウノトリStorkを意味する。
フィーゼラー社Fieselerによって製造Manufacturingされ、戦後Postwarも1950年(昭和25年)代まで自家用機Private airplaneとしてドイツGermany以外の国で生産された。
1935年(昭和10年)、ドイツ航空省Nazi Germany's Ministry of Aviationは数社に対してドイツ空軍Nazi Germany's air
force向けの新型New model連絡機Liaison aircraftの入札を行った。
フィーゼラー社Fieselerが提示した機体は短距離離着陸Short
Take-Off and Landing(STOL)性能Performanceが抜きん出ており、離陸Takeoffには向かい風で50m、着陸Landingには20mで十分であった。
降着装置Landing gearの長い脚landing gearはオイルとスプリングSpringのショックアブソーバーShock
absorberを内蔵しており、着陸Landing時には46cmほど縮む。
この機構のおかげで、ほとんどあらゆる場所へ降りることが可能となった。
飛行中、2本の脚landing gearは下方へ垂れ下がっており、このため、非常に長い脚と大きな翼をもった鳥Birdのように見えた。
このことからシュトルヒStorch(ドイツ語GermanでコウノトリStork)という愛称Nicknameが付けられた。
鵠の鳥(コウノトリ) Stork
1943年(昭和18年)9月12日、フィーゼラーFi 156シュトルヒはグラン・サッソGran
Sassoに幽閉Confinementされていたベニート・ムッソリーニBenito
Mussoliniを、ドイツ軍Nazi Germany's Armed Forces支配地域に送り届けるために用いられた。
ムッソリーニBenito Mussoliniが幽閉confinementされたカンポ・インペラトーレ・ホテルCampo
Imperatore Hotel
ヴァルター・ゲールラッハHeinrich
Gerlachが操縦するフィーゼラーFi 156は狭いグラン・サッソGran Sassoの山頂mountain-topに30m程度で着陸Landingし、コマンド部隊Commando指揮官Commanding officerのオットー・スコルツェニーOtto
SkorzenyとムッソリーニMussoliniを乗せた上で、重量オーバーoverloadedであったにもかかわらず75mたらずで離陸Takeoffし、ムッソリーニMussoliniをドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesの支配する安全地帯safety zoneまで運んだ。
(グラン・サッソ襲撃Gran Sasso raid)
ハインケルHe 60 Heinkel He 60
ハインケルHe 60 Heinkel He 60は、1930年代にドイツ海軍Nazi Germany's Navyの軍艦warshipsからカタパルトで射出するように設計されたdesigned
to be catapultedドイツGermanyのハインケル社Heinkelで製造Manufacturingされた単発複葉single-engined
biplaneの水上機型偵察機reconnaissance seaplaneである。
アラドAr 196 Arado Ar 196
アラドAr 196 Arado Ar 196は第二次世界大戦中throughout World War IIのドイツ海軍Nazi Germany's Navyの標準的standardな艦載水上機shipboard seaplaneである。
双フロートTwin floatの低翼単発機low-wing monoplane
aircraftで、複葉biplaneのハインケルHe 60 Heinkel He 60の代替機Alternative aircraftとして1937年(昭和12年)に初飛行First flightした。
フォッカーDr. I Fokker Dreidecker I
フォッカーDr. I Fokker Dreidecker Iは、第一次世界大戦中throughout World War Iの1917年(大正6年)に、ドイツ帝国German Empireのフォッカー社Fokkerが製作manufactureした三枚翼three wingの戦闘機Fighter aircraft(三葉機Triplane)である。
かの撃墜王Flying ace「レッドバロンRed Baron」(赤い男爵)ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンManfred von Richthofenも愛用していたことで知られる。
ハインケルHe 111 Heinkel He 111
ハインケルHe 111 Heinkel He 111は、第二次世界大戦前から大戦終了までFrom before World War II to the end of World War II、ドイツGermanyの航空機メーカーaircraft
makerのハインケルHeinkelが製造Manufacturingし、ドイツ空軍Nazi Germany's air forceが使用していたレシプロ双発Reciprocating twin-engine爆撃機bomber aircraft。
ハインケルHe 219ウーフー
Heinkel He 219 Uhu
ナチス・ドイツ空軍Nazi
Germany's air force
運用開始Introduction 1943年(昭和18年)
液冷Liquid-cooled双発Twin-engine複座Two-Seat夜間戦闘機Night fighter
最高速度Top speed 585 km/h
ハインケルHe 219ウーフー Heinkel He 219 Uhuは、ハインケル社Heinkelが開発Developmentし第二次世界大戦World War II中期からドイツNazi Germanyで運用された夜間戦闘機Night fighterである。
愛称Nicknameの「ウーフーUhu」とは、ワシミミズクEagle-Owlのことである。
ワシミミズク Eagle-Owl
ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceにおいて最初に射出座席Ejection seatを装備した。
洗練された設計sophisticated
designで、当時のドイツ空軍Nazi Germany's air force機Military aircraftの中ではかなりの優速機であったとされる。
同時期に運用されたイギリス空軍Royal Air Forceのデ・ハビランド モスキートde Havilland
Mosquito夜間戦闘爆撃機Night
Fighter-bomberの後期型には低高度では速度で劣ったが、高度12,000
mにおいては勝っていた。
第二次世界大戦World War II下、英空軍Royal Air Forceによるドイツ本土German mainlandへの夜間爆撃night bombingが本格化するなかで、ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceが爆撃機Bomberを改造した応急的な夜間戦闘機Night fighterしか保持していない事を憂慮したヨーゼフ・カムフーバーJosef Kammhuber大佐は、ハインケル社Heinkelに開発Developmentを停止していた機種の再設計を要請した。
結果、誕生したのが双発Twin-engineの本機this planeである。
1943年(昭和18年)6月1日の夜、ハインケルHe 219ウーフーが、デュッセルドルフDusseldorfに飛来したイギリス空軍Royal
Air Force爆撃隊Bomber unitを迎撃Interception、5機のアブロ・ランカスターAvro Lancasterを撃墜shot downして初陣を飾った。
その後も夜間戦闘機部隊Night fighter unitの天敵Natural enemyであったデ・ハビランド モスキートde Havilland
Mosquitoを撃墜shot
downするなど、その高性能ぶりを示した。
また、ハインケル社HeinkelはハインケルHe 219ウーフーにジェットエンジンJet
engineを搭載することも考慮していたといわれ、そのため、地上で機体の姿勢が水平になる前輪式降着装置tricycle landing gearや、当時としては世界的に珍しい射出座席Ejection seatを搭載したともいわれている。
メッサーシュミットBf 110
Messerschmitt Bf 110
メッサーシュミットBf 110 Messerschmitt Bf
110は、ドイツGermanyのメッサーシュミット社Messerschmitt AGで開発Developmentされ、第二次世界大戦World War IIにおいて運用された双発レシプロReciprocating twin-engine重戦闘機heavy fighterまたは多用途機Utility aircraft。
ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceでは当初「駆逐機Destroyer」と称されており、「駆逐航空隊Destroyer Air Corps」に配備deploymentされていた。
ドルニエDo 17 Dornier Do 17
ドルニエDo 17 Dornier Do 17は、ドイツGermanyのドルニエ社Dornier Flugzeugwerkeが開発Developmentし、第二次世界大戦中during World War IIにドイツNazi Germany等で運用された双発軽爆撃機twin-engined light bomber。
元々は高速郵便輸送機high speed Mail planeとの名目でin the name of開発Developmentされた経緯backgroundがあり、滑らかに成形された機首と細い胴体から「空飛ぶ鉛筆The Flying Pencil」の異名Synonymをとった。
ドルニエDo 215 Dornier Do 215
ドルニエDo 215 Dornier Do 215は、ドイツGermanyのドルニエ社Dornier Flugzeugwerkeで元来は輸出用for exportに生産productionされた軽爆撃機light bomber/偵察機reconnaissance aircraft後に夜間戦闘機night fighterになった航空機aircraftである。
しかし2機を除いた全機がドイツ空軍Nazi Germany's air
forceに就役served
inした。
前任機predecessorのドルニエDo 17 Dornier Do 17と同様にその細長い胴体から「空飛ぶ鉛筆The Flying Pencil」という名を受け継ぎ、ドルニエDo 215 Dornier Do 215の後継機successorはドルニエDo 217 Dornier Do 217になった。
ドルニエDo 217 Dornier Do 217
ドルニエDo 217 Dornier Do 217は、ドイツGermanyのドルニエ社Dornier Flugzeugwerkeが開発Developmentし、第二次世界大戦中during World War IIにドイツ空軍Nazi Germany's air forceで運用された双発twin-engineの爆撃機Bomber aircraftないし雷撃機Torpedo bomber。
ドルニエDo 17 Dornier Do 17の後継機successorとして開発DevelopmentされたためドルニエDo 17 Dornier Do 17と似た外観の機体だが、より近代化された機体であった。
当初爆撃機Bomber aircraftとして運用されたが、その後夜間戦闘機night fighterや偵察機reconnaissance aircraftとしても使用され終戦まで活躍した。
ドルニエDo 215 Dornier Do 215の拡大版expanded versionであり同じエンジンSame engineを搭載していたが、詳細な部分は異なっていた。
アラドAr234ブリッツ Arado Ar 234 Blitz
アラドAr234ブリッツ Arado Ar 234 Blitz(Blitz:電撃lightningの意meaning)は、第二次世界大戦末期にAt the
end of World War IIドイツGermanyのアラド社Arado Flugzeugwerkeによって開発Developmentされた世界初the world's firstのジェット推進で飛行するFly with jet
propulsion高速爆撃機high speed bomber
aircraft。
当初は高速偵察機high speed reconnaissance aircraftとして開発Developmentされていた。
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ナチス・ドイツ空軍Nazi
Germany's air force
運用開始Introduction 1932年(昭和7年)
空冷Air-cooled三発Three-engine航空機Aircraft
最高速度Top speed 271km/h
輸送機Transport aircraft 中型爆撃機Medium bomber 旅客機Airliner
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3mは、ドイツNazi Germanyのユンカース社Junkers Aircraft and Motor Worksが開発Developmentした航空機Aircraftである。
原型機Prototype(Ju 52/1m)は1930年(昭和5年)に単発Single-engineで初飛行Maiden flightしたが、1932年(昭和7年)にBMWのエンジンBMW 132を3発Three-engineにすることによって性能が向上した。
一般にユンカースJu 52といえばこの3発型 Three-engined
prototypeユンカースJu 52/3mのほうが知られている。
枝番号3mのmは、ドイツ語Germanのエンジンengineを意味する"モトールMotor"の頭文字である。
ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceの兵士たちからは、タンテ・ユーTante Ju(=「ユーおばさんAunt Ju」の意)と呼ばれ親しまれた。
ユンカースJu 52は、第二次世界大戦World
War II開戦までの1930年(昭和5年)代にかけて、ルフトハンザ社Lufthansaの主力旅客機Main Airlinerとして多用され、ベルリンBerlin - ローマRome間を8時間で結ぶなど各路線Airlineで活躍した。
軍用military useでは、1936年(昭和11年)に勃発したスペイン内戦Spanish Civil WarでスペインSpain側やコンドル軍団Condor
Legionが運用した。
一部は、銃座Gun mountや爆弾槽Bomb bayを有する爆撃機Bomberとして使われ、ゲルニカ爆撃Bombing of Guernicaに用いられたのも当機this planeである。
第二次世界大戦World War IIではドイツ空軍Nazi Germany's air
forceの主力輸送機Main Transport aircraftとして、電撃戦Lightning warでの空挺降下Paratroopersや戦術輸送Tactical transportに多用されたが、低速で武装が貧弱であるため、多くが撃墜shot downされた。
終戦までに軍民Military and civilian合わせて4,800機あまりが生産された。
アドルフ・ヒトラーAdolf
Hitlerは本機this
planeを遊説canvassing
tourで好んで使った。
ブローム・ウント・フォスBV 222ヴィーキング
Blohm & Voss BV 222 Wiking
ブローム・ウント・フォスBV 222ヴィーキングBlohm & Voss BV
222 Wikingは第二次世界大戦時にDuring World War IIドイツ空軍Nazi Germany's air forceで採用された六発six-engined大型large飛行艇flying boatである。
本機は第二次世界大戦World War IIにおいて実際に使用された中では最大の飛行艇the largest flying boatであった。
ブローム・ウント・フォスBV 222ヴィーキングBlohm & Voss BV
222 Wiking
ボーイングP-12 /
F4B Boeing P-12/F4B
ボーイングF4B Boeing F4Bは、 アメリカ合衆国USAのボーイング社Boeing
Companyが開発Developmentし、アメリカ海軍US Navyで運用された複葉Biplane艦上戦闘機Carrier-borne
Fighter。
1929年(昭和4年)より運用され、グラマン社製Grumman AircraftのグラマンF3Fフライング・バレルGrumman F3F Flying Barrelが配備される1936年(昭和11年)までアメリカ海軍US Navyの主力戦闘機Main Fighter
aircraftであった。
ボーイングP-12 Boeing P-12は、ボーイングF4B Boeing F4Bの派生型Derived typeで主にアメリカ陸軍US Armyで運用された陸上戦闘機Land-based fighter
aircraft。
ボーイング社Boeing Companyの単葉戦闘機Monoplane fighter
aircraftであるP-26ピーシューターBoeing P-26
Peashooterが配備されるまで戦闘機fighter aircraftとして運用された。
グラマンF3Fフライング・バレル
Grumman F3F Flying Barrel
グラマンF3Fフライング・バレルGrumman F3F Flying
Barrelは、アメリカ合衆国USAのグラマン社Grumman Aircraftが開発Developmentしアメリカ海軍US Navyや海兵隊US Marine Corpsで運用された艦上戦闘機Carrier-borne
Fighter。
アメリカ海軍US Navyで運用された最後の複葉戦闘機biplane fighter
aircraftであった。
愛称Nicknameの「フライング・バレルFlying
Barrel」は、空飛ぶ樽の意meaning。
P-26ピーシューター
Boeing P-26 Peashooter
P-26ピーシューターBoeing P-26
Peashooterはボーイング社Boeing Companyが開発Developmentし、1934年(昭和9年)1月にアメリカ陸軍航空隊US Army
Air Corpsが運用Operationした戦闘機fighter aircraftである。
アメリカ陸軍US Armyの制式戦闘機Formal fighter
aircraftとしては初めてfirstの全金属製all-metal、単葉monoplaneの機体airframeであるとともに、最後lastの固定式主脚Fixed main landing
gear、開放式操縦席Open cockpit、張線式主翼Tension type main wingの構造constructionをとる機体airframeでもある。
愛称NicknameのピーシューターPeashooterは"豆鉄砲"の意meaningであるが、操縦士Pilotsたちによってつけられたとされている。
ポリカールポフI-15 Polikarpov I-15
ポリカールポフI-15 Polikarpov I-15は、ソ連Soviet Unionのポリカールポフ設計局Polikarpov Design Bureauが開発Developmentし、ソ連Soviet赤色空軍Red Air Forcesなどで運用された単発Single-engine複葉戦闘機biplane fighter aircraft。
戦間期Interwar periodから第二次世界大戦の初期Early
World War IIにかけて労農赤軍Workers' and Peasants' Red Armyの主力戦闘機Main Fighter
aircraftを務めた。
ポリカールポフI-16 Polikarpov I-16
ポリカールポフI-16 Polikarpov I-16は、ソビエト連邦Soviet Unionのポリカールポフ設計局Polikarpov Design Bureauが開発Developmentした単葉戦闘機monoplane fighter aircraft。
戦間期Interwar periodから第二次世界大戦の初期Early
World War IIにかけて赤色空軍Red Air Forcesの主力戦闘機Main Fighter aircraftを務めた、世界最初the world's firstの実用的な引込式主脚retractable landing gearを備えた戦闘機fighter aircraftである。
イリユーシン・イル2 Ilyushin Il-2
イリユーシン・イル2 Ilyushin Il-2は、ソ連Soviet Unionのイリユーシン設計局Ilyushin
Aviation Complexが開発Developmentし、ソ連空軍Soviet Air Forcesなどで運用された攻撃機Attack aircraft(襲撃機Attack aircraft)。
第二次世界大戦World War IIにおいて、ソ連軍Soviet Armed forcesの主力対地攻撃機Main ground attack aircraftとして使用された。