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2021年7月24日土曜日

 4節 蘭印作戦(らんいん・さくせん)

Dutch East Indies campaign

パレンバン空挺作戦 Palembang Airborne operation

西南太平洋 Southwest Pacific Ocean

東南アジア Southeast Asia

蘭印作戦(らんいん・さくせん) Dutch East Indies campaign


蘭印作戦Dutch East Indies campaign

開戦opening of war後、戦況War situationが予想以上に有利advantageousに進展したため、南方軍Southern Expeditionary Armyジャワ作戦Java campaignの開始日程を1ヶ月繰り上げた。

16Sixteenth Army司令部Headquarters

坂口静夫(さかぐち・しずお) Shizuo Sakaguchi

1942年(昭和17年)111日、16Sixteenth Army坂口支隊56th DivisionボルネオBorneo上陸landing、同日、日本海軍Imperial Japanese Navy空挺部隊airborne troopsセレベス島CelebesメナドManadoに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦Dutch East Indies campaignが開始された。

16Sixteenth Army1942年(昭和17年)125日にバリクパパンBalikpapan131日にアンボンAmbon214日にパレンバンPalembangと順次攻略captureしていった。

連合軍Allied forces艦隊Fleetスラバヤ沖海戦Battle of the Java Seaバタビア沖海戦Battle of Sunda Strait潰滅devastationさせられ、16Sixteenth Army1942年(昭和17年)31日に最終目標final goalジャワ島Java上陸landingした。

ジャワ島Java連合軍Allied forces1942年(昭和17年)39日に降伏Surrenderし、予想外の早さで蘭印作戦Dutch East Indies campaignは終了した。

マレーBritish MalayaフィリピンPhilippines攻略captureした日本軍Imperial Japanese Forcesは、蘭印攻略Conquest of the Dutch East Indiesへと駒を進めた。

それはまず本丸centre of a castleであるジャワ島Java islandに攻め入る前に、周辺の島々Surrounding islands占領occupationすることから始まった。

先陣を切ったのは、ボルネオ島Borneo IslandミリMiri上陸landingした川口支隊(かわぐち・したい)Kawaguchi Detachment

川口清健(かわぐち・きよたけ) Kiyotake Kawaguchi

1941年(昭和16年)1225日、クチンKuching占領occupation

1941年(昭和16年)1231日、ブルネイBrunei占領occupation

川口支隊(かわぐち・したい)Kawaguchi DetachmentブルネイBruneiをはじめ、ボルネオ島Borneo Island西岸west coast要地key area positionを次々と攻略captureした。

一方、ボルネオ島Borneo Island東岸eastern coastには、パラオPalauから兵力military force5,000を率いた坂口支隊(さかぐち・したい)Sakaguchi Detachment

坂口静夫(さかぐち・しずお) Shizuo Sakaguchi

ミンダナオ島Mindanao islandダバオDavaoホロ島Jolo islandを経由し、各地を制圧Suppression

ボルネオ島Borneo Island東岸eastern coastを完全に攻略captureした。

蘭印作戦(らんいん・さくせん) Dutch East Indies campaign

蘭印作戦(らんいん・さくせん) Dutch East Indies campaign

さらに1942年(昭和17年)111日、セレベス島Celebes island北部northern part ofメナドMenadoでは、横須賀第一特別陸戦隊(通称横一特)の落下傘部隊parachute troop降下landingし、ここを制圧under control

同時に上陸戦landing warfareを行った佐世保連合特別陸戦隊(通称佐連特)は、ケンダリKendariマカッサルMakassar攻略captureに成功した。

蘭印(らんいん)Dutch East Indies石油施設Oil facilityボルネオ島Borneo Islandスマトラ島Sumatra Islandに集中していたが

ボルネオ島Borneo Island石油施設Oil facility蘭印(らんいん)Dutch East Indies守備軍Defensive armyによって、大部分が破棄されており

日本軍Imperial Japanese Forcesにとってスマトラ島Sumatra Island石油施設Oil facility確保Secureが急がれた。

スマトラ島 Sumatra Island

九七式重爆撃機 The Type 97 Heavy Bomber 陸軍Army

パレンバン空挺作戦 Palembang Airborne operation

1942年(昭和17年)214日、スマトラ島Sumatra Island大油田地帯Large oil fieldであるパレンバンPalembangに、陸軍Armyの第一挺進団parachute troop空挺降下Airborneを敢行。

ムントクMuntok上陸landingした38師団38th Divisionと協力しスマトラ島Sumatra Islandの主要な製油所oil refinery確保Secureに成功した。

こうして日本軍Imperial Japanese Forces蘭印(らんいん)Dutch East Indies重要地点Important pointsならびに石油施設Oil facilityを手に入れたのである。

一式戦闘機 I Type 1 Fighter Hayabusa Model 1

一式戦闘機 I Type 1 Fighter Hayabusa Model 1

加藤隼戦闘隊 Colonel Kato's Falcon Squadron

加藤建夫(かとう・たてお)陸軍中佐 Army Lieutenant colonel Tateo Kato

大空のちかい 九里一平(くり・いっぺい) 1962年(昭和37年)

ホーカー・ハリケーン Hawker Hurricane イギリス空軍Royal Air Force

ロッキード・ハドソン Lockheed Hudson 米陸軍航空軍US Army Air Forces

ブリストル・ブレニム Bristol Blenheim イギリス空軍Royal Air Force

ジャワ島 Java island

1942年(昭和17年)2月下旬

日本軍Imperial Japanese Forces上陸船団Landing fleet蘭印(らんいん)Dutch East Indiesの本丸・ジャワ島Java islandに向けて動き出す。

これに対して連合国艦隊Allied fleetABDA艦隊American-British-Dutch-Australian fleet)もただちにスラバヤSurabayaportを出港。

カレル・ドールマンKarel Doorman

オランダの海軍将校Dutch naval officer

連合国艦隊Allied fleetABDA艦隊American-British-Dutch-Australian fleet司令長官Commander-in-Chief


1942年(昭和17年)227日、スラバヤSurabaya

日本軍Imperial Japanese Forces5艦隊、重巡洋艦那智(なち)Heavy cruiser Nachi


重巡洋艦那智(なち) Heavy cruiser Nachi

妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy cruiser2番艦Second ship

高木武雄(たかぎ・たけお) Takeo Takagi

酸素魚雷(さんそ・ぎょらい)oxygen torpedoとは燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷torpedoである。

蘭印作戦(らんいん・さくせん) Dutch East Indies campaign

重巡洋艦エクセター Heavy cruiser Exeter イギリス海軍Royal Navy

重巡洋艦エクセター Heavy cruiser Exeter イギリス海軍Royal Navy

このスラバヤ沖海戦Battle of Surabaya in open seaでは、イギリス海軍Royal Navy重巡洋艦エクセターHeavy cruiser Exeterをはじめ数隻が撃沈attack and sunk

日本軍Imperial Japanese Forces航空戦Aerial warfareだけでなく水上戦Naval battleにおいても完勝Complete victoryした。

ジャワ島 Java island

このスラバヤ沖海戦Battle of Surabaya in open sea勝利victoryにより、陸軍部隊Army troopsジャワ島上陸作戦Landing operation of Javaを実施。

1942年(昭和17年)31日、最西端のメラクに第2師団Division

首都capitalバタビアBatavia(現在のジャカルタJakarta)を挟んだ東側のエレタン東海林支隊(しょうじ・したい)Shoji Detachment

そして第48師団Division坂口支隊(さかぐち・したい)Sakaguchi Detachmentが東部クラガン上陸Landingした。

坂口静夫(さかぐち・しずお) Shizuo Sakaguchi

2師団2nd Division上陸landing5日で首都capitalバタビアBatavia(現在のジャカルタJakarta)を占領occupation

次なる攻撃目標Attack target

蘭印(らんいん)Dutch East Indies Army主力main force英米軍British and US Armed Forcesなど連合軍Allied forces戦力war potential半数Halfが集結するバンドン要塞Bandung Fortress

その数50,000

そこに支援部隊Support unit東海林支隊(しょうじ・したい)Shoji Detachment 4,000名が先着。

しかし本隊Main corpsである2師団2nd Divisionと連絡がとれない。

 

バンドン要塞Bandung Fortressには50,000連合軍Allied forcesがあると予想されていたが、若松満則(わかまつ・みつのり)少佐Majorは、進んでバンドン要塞Bandung Fortressの一角を奪取し、そこで防御することを考えた。

1942年(昭和17年)372時、若松挺身隊Wakamatsu Volunteer Corps 700名はバンドン要塞Bandung Fortress外郭のレンバンの町に電撃突入し、山頂線の重要陣地Important position占領occupationした。

若松満則(わかまつ・みつのり)少佐Major

日本軍Imperial Japanese Forces突入Rush inの知らせにバンドンBandung蘭印(らんいん)Dutch East Indies Army司令部Headquartersは驚愕した。

要塞Fortressはいまだ守備を固めている最中である。

日本軍Imperial Japanese Forcesがわずか数百名several hundredsのみで突入Rush inしてくるはずはなく、背後には大部隊armadaが控えているに違いない。

1942年(昭和17年)3722時、あっけないことに、バンドンBandung地区District防衛兵団Defense Corps司令官commanderペスマンJacob J. Pesman少将Major-General若松挺身隊Wakamatsu Volunteer Corps降伏surrenderを申し入れた。

こうしてジャワ島上陸Landing operation of Javaからほぼ1週間の1942年(昭和17年)39日、蘭印(らんいん)Dutch East Indies Army全面降伏Full surrenderして蘭印(らんいん)Battle of the Dutch East Indiesは終結した。

思惑通り蘭印(らんいん)Dutch East Indiesを手中に収めた日本軍Imperial Japanese Forcesだったが、南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignには資源確保Securing resourcesとは別の目的Purposeがもう2つあった。

1つはマレー半島Malay Peninsulaへの攻撃を防ぐためのイギリス領ビルマBritish Burma(現ミャンマーMyanmar)の攻略capture

2つは援蒋ルートSupply routes to Chiang Kai-shek's China遮断interceptionである。

日中戦争Japanese-Chinese War終結の目処(めど)が立たないのは英米Britain and the United Statesによる蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shekへの援助ルートSupply routesがあるせいだと考えた日本軍Imperial Japanese Forces

蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shek

インドIndiaから海路Sea routeラングーンRangoonラングーンRangoonからマンダレーMandalayを経てラシオLashioまでの鉄路Railroad

さらにその先の陸路land routeでの重慶(じゅうけい)(チョンチン)Chongqingまでと続く輸送ルートtransit route遮断interceptionすれば蒋介石(しょう・かいせき)Chiang Kai-shekは必ず落ちると判断したのであった。

杉山元(すぎやま・はじめ) Hajime Sugiyama

日本軍Imperial Japanese Forces作戦目標Operational goalラングーンRangoon占領occupationであり、その後にビルマBurma全土whole land制圧Conquestを目論んでいた。

ビルマ攻略作戦Burma campaign1515th Army33師団33rd Divisionおよび55師団55th Divisionという2個師団2 divisionsで開始された。

55師団55th Division1942年(昭和17年)120日、ビルマBurma国境Borderを越えると131日にはモールメンMoulmeinを早々と占領occupationした。

日本軍Imperial Japanese Forcesの予想を上回る進軍Marchの早さにイギリス軍British Armed Forcesは浮き足立ち

1942年(昭和17年)3月に入ると日本軍Imperial Japanese ForcesラングーンRangoon包囲Siege

イギリス軍British Armed Forcesはそこを放棄して退却retreatした。

日本軍Imperial Japanese Forcesは労せずラングーンRangoon無血占領Bloodless occupationしたのであった。

そして日本軍Imperial Japanese ForcesビルマBurma全土whole land制圧Conquestに出る。

4つの師団Divisionsはそれぞれ3つのルートroutesに分かれ北上go up north

援蒋ルートSupply routes to Chiang Kai-shek's China遮断interceptionを目指す

これに対してイギリス軍British Armed Forcesおよび中国軍Chinese Armed forces国民党軍Republic of China Armed Forces)はひたすら退却retreatを続け

1942年(昭和17年)4月末から5月頭にかけて日本軍Imperial Japanese Forces中部ビルマCentral Burma主要拠点Major basesをほぼ制圧Conquestした。

勢いに乗る日本軍Imperial Japanese Forces急進rapid progressを続け、1942年(昭和17年)5月の終わりまでには、ビルマBurmaのほぼ全土whole land制圧Conquest

イギリス軍British Armed Forcesはもはや抵抗resistanceする力もなくインドIndiaインパールImphalへと敗走Routした。

折しもビルマBurmaでは雨期rainy seasonに入り作戦行動campaignが困難になることから、もっとも良いタイミングtiming日本軍Imperial Japanese ForcesビルマBurma攻略captureを終えたといえる。

セイロン沖海戦 Battle of Ceylon

セイロン島 Ceylon Island

1942年(昭和17年)3月下旬に日本軍Imperial Japanese Forces3隊に分かれてビルマBurma北上go up northを開始した頃

海軍Imperial Japanese NavyビルマBurma攻略captureに対する側面支援を兼ねて、インド洋Indian Oceanまで遠征expeditionしてきていた。

目的はセイロン島Ceylon Islandに集結していたイギリス東洋艦隊British Eastern Fleetを叩くためであった。

一方、東洋艦隊Eastern Fleet司令長官Commander-in-Chiefジェームズ・サマヴィルJames Somerville大将Admiralには、米軍US Armed Forcesより日本Imperial Japanese機動部隊mobile troops接近Approaching情報informationがすでに入っていた。

ジェームズ・サマヴィルJames Somerville大将Admiral

1942年(昭和17年)45

日本軍Imperial Japanese Forces126機からなる戦爆連合によってセイロン島Ceylon IslandコロンボColomboport空襲Air-raidした。

九七式艦上攻撃機 Type 97 Carrier Attack Aircraft

九九式艦上爆撃機 Type 99 Carrier Bomber

零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた) Zero fighter Model 21

同時刻Same time

セイロン島Ceylon Islandoffing西南Southwest

セイロン沖海戦 Battle of Ceylon

江草隆繁(えぐさ・たかしげ)少佐Major 空母蒼龍(そうりゅう)艦爆隊長

空母蒼龍(そうりゅう) Aircraft carrier Soryu

この攻撃での命中率は88%という驚異的なもので

南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Forceはまさに世界最強the world's most powerful機動部隊Mobile Unit/Forceとしてその名を轟(とどろ)かせることとなった。

さらに1942年(昭和17年)49日にはセイロン島Ceylon Island北部NorthernトリンコマリーTrincomaleeport空襲Air-raid

British空母ハーミーズAircraft carrier Hermesをわずか15分で撃沈attack and sink

こうしてインド洋Indian Oceanでも日本軍Imperial Japanese Forces無敵invincibleぶりを見せつけたのであった。

空母ハーミーズ Aircraft carrier Hermes イギリス海軍Royal Navy

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk

バリクパパン沖海戦Naval Battle of Balikpapan

1942年(昭和17年)124日未明にボルネオ島Borneo南部バリクパパンBalikpapanで発生。

重巡洋艦足柄(あしがら) Heavy cruiser Ashigara

妙高型重巡洋艦 Myoko-class Heavy cruiser

駆逐艦山風(やまかぜ) Destroyer Yamakaze

白露型駆逐艦 Shiratsuyu-class destroyer

パレンバン空挺作戦Palembang Airborne operation

1942年(昭和17年)214

パレンバン空挺作戦 Palembang Airborne operation

百式輸送機 Type 100 Transport aircraft 日本陸軍Imperial Japanese Army

ロ式輸送機 ロッキードL14スーパーエレクトラLockheed L14 Super Electra

日本陸軍Imperial Japanese Army

九七式重爆撃機 The Type 97 Heavy Bomber 陸軍Army

バリ島沖海戦 Naval Battle of Bali

1942年(昭和17年)219日~20

駆逐艦朝潮(あさしお) Destroyer Asashio

朝潮型駆逐艦(あさしおかた) Asashio-class destroyers1番艦Lead ship

駆逐艦大潮(おおしお) Destroyer Oshio

朝潮型駆逐艦(あさしおかた) Asashio-class destroyers2番艦Second ship

駆逐艦満潮(みちしお) Destroyer Michishio

朝潮型駆逐艦(あさしおかた) Asashio-class destroyers 3番艦Third ship

駆逐艦荒潮(あらしお) Destroyer Arashio

朝潮型駆逐艦(あさしおかた) Asashio-class destroyers 4番艦Fourth ship

バタビア沖海戦 Naval Battle of Batavia

1942年(昭和17年)228日~31

軽巡洋艦名取(なとり) Light cruiser Natori

長良型軽巡洋艦 Nagara-class light cruisers3番艦Third ship

軽巡洋艦由良(ゆら) Light cruiser Yura

長良型軽巡洋艦 Nagara-class light cruisers4番艦Fourth ship

重巡洋艦最上(もがみ) Heavy cruiser Mogami

重巡洋艦最上(もがみ) Heavy cruiser Mogami

最上型重巡洋艦Mogami-class heavy cruisers 1番艦lead ship

誤射Friendly fireにより揚陸艦神州丸(しんしゅうまる)以下複数の友軍船Friendly warship撃沈attack and sinkしてしまった。

揚陸艦神州丸(しんしゅうまる) Landing ship Shinshu Maru

重巡洋艦最上(もがみ)Heavy cruiser Mogami誤射Friendly fireにより沈没sunk

重巡洋艦ヒューストンHeavy cruiser Houston アメリカ海軍US Navy

1942年(昭和17年)228日~31日、バタビア沖海戦Battle of Sunda Strait沈没sunk

軽巡洋艦パースLight cruiser Perth オーストラリア海軍Royal Australian Navy

1942年(昭和17年)228日~31日、バタビア沖海戦Battle of Sunda Strait沈没sunk

駆逐艦エヴェルトセンDestroyer Evertsen

オランダ海軍Royal Netherlands Navy

1942年(昭和17年)228日~31日、バタビア沖海戦Battle of Sunda Strait日本海軍Imperial Japanese Navy駆逐艦Destroyerの攻撃を受け、セグク島に座礁した。

ビルマ Burma

ビルマの戦いBurma campaign

15Fifteenth Army1941年(昭和16年)128日以降タイThailand国内に順次進駐advanceし、タイThailandビルマBurma国境Borderに集結した。

1942年(昭和17年)118日、15Fifteenth Army33師団33rd Division55師団55th Divisionをもって国境Borderを越えイギリス領ビルマBritish Burma進攻advanceし、38日にラングーンRangoonへ入城した。

さらに18師団18th Division56師団56th Divisionの増援を加えて1942年(昭和17年)4月上旬から北部ビルマNorthern Burmaへの進撃attackを開始、イギリス軍British Armed forces中国軍Chinese Armed forces退却retreatさせて1942年(昭和17年)5月下旬までにビルマBurma全土whole country制圧overwhelmした。

九九式双発軽爆撃機 Type 99 Twin-engined Light Bomber 陸軍Army

二式戦闘機鍾馗 Type 2 Fighter Shoki (Demon) 陸軍Army

九九式軍偵察機Type 99 Army Reconnaissance Plane 陸軍Army

セイロン島 Ceylon Island

セイロン沖海戦Battle of Ceylon

1942年(昭和17年)3月には、当時イギリスBritish Empire植民地ColonyであったビルマBurma(現在のミャンマーMyanmar)方面に展開する日本陸軍Imperial Japanese Armyを後方協力する形で、航空母艦aircraft carrierを中心とした海軍Navy機動艦隊Mobile Fleetが、進出したインド洋Indian Ocean空母搭載機carrier-borne aircraftによるイギリス領セイロンBritish Ceylon(現在のスリランカSri Lanka)のコロンボColomboトリンコマリーTrincomalee空襲Air-raid、さらにイギリス海軍Royal Navy機動部隊Mobile Unit/Forceへも攻撃を加え多数の艦艇naval vesselを撃沈した(セイロン沖海戦Indian Ocean raid)。

重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers 2番艦Second ship

 

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers

1番艦Lead ship重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao

2番艦Second ship重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

3番艦Third ship重巡洋艦摩耶(まや) Heavy cruiser Maya

4番艦Fourth ship重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai

空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi

空母蒼龍(そうりゅう) Aircraft carrier Soryu

空母飛龍(ひりゅう) Aircraft carrier Hiryu

空母翔鶴(しょうかく) Aircraft carrier Shokaku

空母瑞鶴(ずいかく) Aircraft carrier Zuikaku

戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

金剛型戦艦Kongo-class battleship 1番艦lead ship

イギリスUKイングランドEnglandバロー=イン=ファーネスBarrow-in-Furness造船所Shipyardの、ヴィッカース社Vickers Shipbuilding Company建造Construction

イギリスBritish Empireに発注された最後last主力艦Capital shipである。

2度の改装two major reconstructions後は高速戦艦Fast battleshipとして、太平洋戦争Pacific Warでも活躍flourishした。

なお金剛(こんごう)は、日本海軍Imperial Japanese Navy太平洋戦争Pacific Warで使用した唯一の外国製constructed outside Japan日本戦艦Japanese battleshipでもあった。

金剛型戦艦Kongo-class battleship

1番艦First ship戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

2番艦Second ship戦艦比叡(ひえい) Battleship Hiei

3番艦Third ship戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

4番艦Fourth ship戦艦霧島(きりしま) Battleship Kirishima

米海軍US Navy潜水艦シーライオンSubmarine Sealion

戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

艦歴Ship history

1941年(昭和16年)1210日 マレー沖海戦Naval Battle of Malaya

1942年(昭和17年)111日 蘭印作戦Dutch East Indies campaign

1942年(昭和17年)45日~9日 セイロン沖海戦Indian Ocean raid

1942年(昭和17年)65日~7日 ミッドウェー海戦Battle of Midway

1942年(昭和17年)87日 ガダルカナル島の戦いBattle of Guadalcanal

1943年(昭和18年)21日~7

ガダルカナル島撤収作戦Withdrawal Operation from Guadalcanal

1944年(昭和19年)619日~20

マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea

1944年(昭和19年)1023日~25日 レイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf

1944年(昭和19年)1025日のサマール沖海戦Battle off Samar後に、金剛(こんごう)Battleship Kongoは、日本本土Japanese mainlandへの帰還Returnが決定した。

1944年(昭和19年)1121日午前3時ごろ、金剛(こんごう)は米海軍US Navy潜水艦シーライオンSubmarine Sealion魚雷攻撃torpedoedを受け沈没sunkした。

戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

金剛型戦艦Kongo-class battleship 3番艦Third ship

1941年(昭和16年)124日、馬公(まこう)(台湾)を拠点に出撃し、陸軍Imperial Japanese Army馬来(マライ)上陸作戦支援を皮切りに、比島(フィリピン)上陸作戦蘭印攻略作戦Dutch East Indies campaignなどを支援した。

戦艦比叡(ひえい) Battleship Hiei

戦艦霧島(きりしま) Battleship Kirishima

重巡洋艦利根(とね) Heavy cruiser Tone

重巡洋艦筑摩(ちくま) Heavy cruiser Chikuma

重巡洋艦筑摩(ちくま) Heavy cruiser Chikuma

重巡洋艦筑摩(ちくま) Heavy cruiser Chikuma

空母ハーミーズ Aircraft carrier Hermes イギリス海軍Royal Navy

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk


こうして航空戦力air powerに大打撃を受けたイギリスBritish Empire東方艦隊Eastern Fleetは、日本海軍Imperial Japanese Navy機動艦隊Mobile Fleetに対する反撃ができず、当時植民地Colony下に置いていたアフリカ東岸East coast of AfricaケニアKenyaキリンディニ港Kilindini Harbourまで撤退することになる。


重巡洋艦コーンウォール Heavy cruiser Cornwall イギリス海軍Royal Navy

カウンティ級重巡洋艦County class heavy cruiser

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk

重巡洋艦ドーセットシャー Heavy cruiser Dorsetshire イギリス海軍Royal Navy

重巡洋艦ドーセットシャー Heavy cruiser Dorsetshire イギリス海軍Royal Navy

カウンティ級重巡洋艦County class heavy cruiser

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk

駆逐艦ヴァンパイア Destroyer Vampire

イギリス海軍Royal Navy オーストラリア海軍Royal Australian Navy

アドミラルティV級駆逐艦Admiralty V-class destroyer

駆逐艦エクスプレスDestroyer Express戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electra駆逐艦ヴァンパイア巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse生存者Survivorsを救い出すために動いた。

1942年(昭和17年)49日、駆逐艦ヴァンパイアDestroyer Vampireセイロン島CeylonバッティカロアBatticaloa沖をイギリスBritish Empire小型空母ハーミーズLight aircraft carrier Hermesと航行中に日本軍Imperial Japanese Forces機動部隊Mobile Unit/Force艦載機Carrier-based aircraftによる爆撃Air strikeを受けて撃沈attack and sunkされた。

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk

駆逐艦テネドス Destroyer Tenedos イギリス海軍Royal Navy

1942年(昭和17年)49日、セイロン沖海戦Battle of Ceylon沈没Sunk
























































































































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