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2021年7月18日日曜日

 3 フィリピンの戦い

Battle of the Philippines

1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)

M3軽戦車スチュアート Light Tank M3 Stuart

太平洋戦争

東南アジア Southeast Asia

東南アジア Southeast Asia

東南アジア Southeast Asia

フィリピン Philippines

フィリピン Philippines

フィリピン Philippines

フィリピンの戦い

Battle of the Philippines

1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)

1941年(昭和16年)128日の太平洋戦争Pacific War勃発outbreakとともに日本軍Imperial Japanese ForcesフィリピンPhilippines連合国軍Allied forces戦闘battleを開始、1942年(昭和17年)69日までに孤立した部隊corpsを除き連合国軍Allied forces全部隊whole troop降伏Surrenderして戦闘battleは終了した。

クラーク空軍基地 Clark Air Base

フィリピン作戦 Philippines campaign

フィリピンの戦い Battle of the Philippines

1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)

1941年(昭和16年)128日午後、日本軍Imperial Japanese Forcesアメリカ領フィリピンUS Philippinesクラーク空軍基地Clark Air Base空襲Air raidした。

14Fourteenth Area Army主力は1941年(昭和16年)1222日にルソン島Luzon上陸landingし、1942年(昭和17年)12日には首都capitalマニラManila占領occupationした。

マッカーサー Douglas MacArthur

しかし、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far Eastダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur司令官Commanderバターン半島Bataan Peninsulaに立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗resistanceした。

45日間でフィリピンPhilippines主要部を占領occupationするという日本軍Imperial Japanese Forcesの予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島Corregidor攻略captureまでに150日もかかるという結果になった。

ダバオDavao

フィリピンの戦い Battle of the Philippines

1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)

1941年(昭和16年)128日、太平洋戦争Pacific Warの開戦劈頭、フィリピンPhilippinesに対する航空攻撃Air strikeは理想的成果を収め、翌129日は天候不良のため十分な活動ができなかったが、1210日には11航空艦隊Air fleetマニラManila周辺航空基地Air baseおよび海軍基地Naval baseを攻撃し、米航空戦力US air powerのほとんどを壊滅したため、先遣隊Advance corps上陸landingは大きな航空被害Air damageを免れた。

1941年(昭和16年)1220日、ダバオDavao攻略部隊Strategy unitは大きな抵抗resistanceを受けることなく上陸landingに成功し、ダバオDavao市を占領occupationした。

1942年(昭和17年)12日、マニラManila占領occupation

その後、バターンBataanコレヒドールCorregidor攻略capture

1942年(昭和17年)5月下旬、ビザヤVisayasミンダナオ島Mindanao方面の米軍US Armed Forces武装解除Disarmamentし、日本Imperial Japanへの組織的抵抗Organizational resistanceは終了した。

 

1942年(昭和17年)518日、南方軍Southern Expeditionary Army南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignの完了を宣した。

ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur

私はアメリカ大統領President Rooseveltから、日本Imperial Japanの戦線を突破してコレヒドールCorregidorからオーストラリアAustraliaに行けと命じられた。

その目的は、私の了解するところでは、日本Imperial Japanに対するアメリカUSAの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンPhilippines救援reliefにある。

私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう。

I came through and I shall return.

東南アジアSoutheast Asia

蘭印Dutch East Indiesにおいて石油oilをはじめとする重要資源Important resourcesを確保し、これを海上輸送marine transportationするためには、シンガポールSingaporeフィリピンPhilippinesを制圧する必要があった。

そのため日本Imperial Japan開戦opening of warと同時にこの地域を攻略captureした。

また、陸軍部隊Army Corps上陸landingに先立ち、制空権Air superiorityを確保しておくため、台湾Taiwanにあった、陸軍Armyおよび海軍航空隊Naval Air Corpsは、在比米空軍U.S. Air Force in Philippinesに、先制攻撃First strikeを仕掛けることとなった。

零戦Zero Fighter航続能力Cruising range2,200kmを超える。

台湾Taiwanからのフィリピン攻撃Attack on Philippinesは問題なく行える。

零戦Zero Fighter

当初、フィリピン攻略Capture of Philippinesは、真珠湾の奇襲Attack on Pearl Harborと時刻を合わせて、攻撃を行うはずであったが、

台湾Taiwan飛行基地Air baseは朝から濃霧Thick fogで出撃できず、予定から6時間遅れで、航空隊Air Corpsは発進した。

アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East司令官CommanderマッカーサーDouglas MacArthurは、日本軍Imperial Japanese Forcesの襲来を予測、航空機Aircraftを上空へ退避させた。

しかし、日本軍Imperial Japanese Forcesの発進が遅れたことにより、

上空で待機していた米軍US Armed Forces戦闘機Fighter aircraft爆撃機Bomberは燃料切れとなり、飛行場Airfieldへ戻ることを余儀なくされた。

マッカーサー Douglas MacArthur

日本Imperial Japan航空隊Air Corpsは、ルソン島Luzon米軍US Armed Forces飛行場Airfieldに、一方的に爆撃bombingを行い、この日だけで100機以上を撃破。

その後、1週間の間に、米軍US Armed Forces航空戦力Air powerは壊滅状態となり、フィリピンPhilippines上空の制空権Air superiorityは、日本Imperial Japanのものとなった。

フィリピン攻略Capture of Philippinesにおける日本Imperial Japanの戦略目標は、首都capitalマニラManilaの早期占領occupationであった。

1941年(昭和16年)1212日、第16師団はレガスピーLegazpi上陸landing

主隊である第48師団は、1222日、リンガエン湾Lingayen Gulf上陸landingし、マニラManilaに向かって挟撃を開始した。

 

このフィリピン上陸作戦Landing operation of Philippinesでは、戦線右翼に位置する、セント・トーマスSanto Tomas付近(マニラManila)で、日本軍Imperial Japanese Forces戦車第4連隊4th Tank Regimentが、米軍US Armed Forces戦車部隊tank corpsと遭遇し、日米初の戦車戦tank warfareが行われた。

フィリピン Philippines

日本軍Imperial Japanese Forces戦車tankは歩兵直協用で、戦車戦tank warfareには不向きな旧式の八九式中戦車 Type 89 medium tankと、

37mm主砲Main gunを搭載する九五式軽戦車 Type 95 light tankである。

かたや米軍US Armed Forces九五式軽戦車 Type 95 light tankと同じ37mm主砲Main gunを備えたM3軽戦車スチュアート Light Tank M3 Stuart

しかし、砲の威力も装甲の厚さも九五式軽戦車 Type 95 light tankを上回り、日本Imperial Japan戦車部隊tank corpsは、いきなりの苦戦に陥った。

結局、正攻法では撃破できず、体当たりで凌いで、ここを突破した。

八九式中戦車 Type 89 medium tank 11.9t

九五式軽戦車 Type 95 light tank

M3軽戦車スチュアート Light Tank M3 Stuart

M3軽戦車スチュアート Light Tank M3 Stuart

マニラManilaへ向けて進撃する日本軍Imperial Japanese Forces戦車隊tank corps

アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East司令官CommanderマッカーサーDouglas MacArthurは、早い段階からマニラManilaの放棄を決定し、増援を待つため、戦力をバターン半島Bataan Peninsulaへ移していた。

 

日本軍Imperial Japanese Forcesの進撃が順調だったのも、米軍US Armed Forcesが極力前線での戦闘Battleを避けていたためである。


その動向に気づいていた、第48師団長の土橋勇逸(つちはし・ゆういつ)中将は、第14軍司令部に報告した。

土橋勇逸(つちはし・ゆういつ) Yuitsu Tsuchihashi

バターン半島 Bataan Peninsula

マッカーサー Douglas MacArthur

14軍司令部・本間雅晴(ほんま・まさはる)中将は、マニラManila占領occupationにこだわり、事実上これを放置。

14軍司令部・本間雅晴(ほんま・まさはる)中将は、マニラManila占領occupationにこだわり、事実上これを放置。

本間雅晴(ほんま・まさはる) Masaharu Homma

1941年(昭和16年)1226日に無防備都市open city宣言declarationしたマニラManila


1941年(昭和16年)1227日、マッカーサーDouglas MacArthurが、マニラManila無防備都市宣言declaration of an "open city"を行うと、

1942年(昭和17年)12日、日本軍Imperial Japanese Forcesはここを無血占領Bloodless occupation

当初の目的を難なく達成したのである。

開戦opening of war時、占領目標Occupation goalの広大さに比べて、日本軍Imperial Japanese Forces戦力war potential過少insufficientであった。

そのため、作戦operationsを終了した部隊military unitは、他方面に転用されていった。

フィリピン攻略Capture of Philippines主力部隊mainforce unitsである第48師団も、蘭印攻略Capture of Dutch East Indiesへ回されることとなり、

バターン半島攻略Capture of Bataan Peninsulaは、治安維持maintenance of public orderの目的で派遣されていた、第65旅団に割り当てられた。

14軍司令部は、バターン半島Bataan Peninsula敵部隊Enemy troopsを、

戦わずに逃げ込んだ残兵remnants of a defeated army掃討sweep程度にしか、考えていなかったのである。

1942年(昭和17年)19日、いざ攻撃が開始されると…

奈良晃(なら・あきら) Akira Nara 歩兵第65旅団長

米軍US Armed Forcesの抵抗は想像以上に厳しく、第65旅団は、まったく前進できない。

バターン半島Bataan Peninsula陣地Positionは、開戦opening of war1年前から準備された、3段構えの強固な防衛線Defense lineであったのだ。

 

攻撃attackはことごとく失敗。

2,000名もの死傷者casualtiesを出し、やがて作戦operationsは、一時中止suspendとなった。

その後、バターン半島Bataan Peninsulaに対する再攻略Recapture準備は、着々と進められた。

今度こそ、失敗は許されない。

 

日本軍Imperial Japanese Forcesは威信をかけて、異例なほどの、大砲兵団Artilleryを送り込み、さらに航空部隊air corpsも全面協力する。

一方、バターン半島Bataan Peninsulaアメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far Eastは、長引く籠城に食糧や医薬品が、底を尽きかけていた。

立てこもった人員が、想定以上だったことに加えて、民間人Civilianも多数いたためである。

マッカーサーDouglas MacArthurは、この戦いBattleに見切りをつけ、1942年(昭和17年)312日に、魚雷艇torpedo boatに乗り込んで、脱出してしまった。

マッカーサー Douglas MacArthur

こうして1942年(昭和17年)43日、満を持して、第二次バターン攻略Second Capture of Bataan Peninsulaが開始された。

 

24cm榴弾砲(りゅうだんぽう) Howitzerを始め、190門におよぶ、各種大砲Artilleryによる大規模な支援砲撃。

 

100機を越える爆撃機Bomberによる爆撃bombing

バターン半島Bataan Peninsula中部に横一線に並んだ、日本軍Imperial Japanese Forces総兵力total military forceは約5万。

失敗に終わった第一次バターン半島攻略戦First Capture of Bataan Peninsulaの際の、じつに10倍近い兵力military forceであった。

この第二次バターン半島攻略戦Second Capture of Bataan Peninsulaは、先の戦いが、嘘だったかのように、戦線のあちこちで、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East投降surrenderが相次いだ。

 

そして、1942年(昭和17年)49日、日本軍Imperial Japanese Forcesバターン半島Bataan Peninsula最南端のマリベレスMarivelesへ到達。

同日、バターンBataan地区指揮官CommanderであるキングKing少将Major general投降surrenderし、戦闘Battleを終了した。

エドワード・P・キング Edward P. King

バターン死の行進 Bataan Death March

この時、日本軍Imperial Japanese Forcesは大量の捕虜Prisoner of war輸送transportする手段meansがなく、徒歩On footで移動させたのだが、その途上で多くの捕虜Prisoner of warの命を落とさせてしまう。

これは、「バターン死の行進Bataan Death March」と呼ばれ、日本軍Imperial Japanese Forces残虐行為Atrocitiesとして喧伝widely broadcastされた。

フィリピン攻略Capture of Philippinesの完遂まで、残すは難攻不落impregnableの、コレヒドール要塞Corregidor Fortress攻略Captureのみとなった。

マニラ湾Manila Bayにはコレヒドール島Corregidor Islandなど要塞化fortificationされた4つのislandsがあり、それらを合わせて、コレヒドール要塞Corregidor Fortressと呼ぶ。

ここには口径30cm以上のArtillery38門、各種海岸砲Coastal artilleryの合計は95門に達していた。

加えてコレヒドール島Corregidor Islandには、15,000名ほどの兵員Soldierが立てこもっていた。

 

1942年(昭和17年)414日、日本軍Imperial Japanese Forcesは、コレヒドール島Corregidor Island攻撃attackを開始。

大規模な砲爆撃Bombardmentを行う。

1942年(昭和17年)52日には5時間に3,600発という砲弾Cannonballを撃ち込み、

ついに要塞Fortressの壁を打ち抜く…

そして1942年(昭和17年)56日、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East指揮官のウェインライトJonathan M. Wainwright中将Lieutenant Generalが、降伏surrenderを申し入れ、翌日には、すべてのislands陥落fallした。

こうして日本軍Imperial Japanese Forcesは、フィリピン攻略Capture of Philippinesにも成功したのである。

ジョナサン・ウェインライト Jonathan M. Wainwright

重巡洋艦摩耶(まや) Heavy cruiser Maya

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers3番艦Third ship

重巡洋艦妙高(みょうこう) Heavy cruiser Myoko

妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy cruiser1番艦lead ship

重巡洋艦那智(なち) Heavy cruiser Nachi

妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy cruiser2番艦Second ship

重巡洋艦足柄(あしがら) Heavy cruiser Ashigara

妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy cruiser3番艦Third ship

重巡洋艦羽黒(はぐろ) Heavy cruiser Haguro

妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy cruiser4番艦Fourth ship

軽巡洋艦長良(ながら) Light cruiser Nagara

長良型軽巡洋艦Nagara-class Light cruiser1番艦First ship

軽巡洋艦球磨(くま) Light cruiser Kuma

球磨型軽巡洋艦Kuma-class Light cruiser1番艦First ship

軽巡洋艦神通(じんつう) Light cruiser Jintsu

川内型軽巡洋艦Sendai-class Light cruiser2番艦Second ship

軽巡洋艦那珂(なか) Light cruiser Naka

川内型軽巡洋艦Sendai-class Light cruiser3番艦Third ship

軽巡洋艦名取(なとり) Light cruiser Natori

長良型軽巡洋艦Nagara-class Light cruiser3番艦Third ship

空母龍驤(りゅうじょう) Aircraft carrier Ryujo

九六式四号艦上戦闘機 Type 96 Carrier-based Fighter Model 4 海軍Navy

零戦二一型 Zero fighter Model 21 日本海軍Imperial Japanese Navy

九八式陸上偵察機 Type 98 Reconnaissance Aircraft 海軍Navy

九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack Aircraft 海軍Navy

一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft 海軍Navy

二式飛行艇 Type 2 Flying Boat 日本海軍Imperial Japanese Navy

B-17フライング・フォートレス Boeing B-17 Flying Fortress

アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces

P-40ウォーホーク Curtiss P-40 Warhawk 米陸軍航空軍US Army Air Forces

セバスキーP-35 Seversky P-35 アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps

P-26ピーシューター Boeing P-26 Peashooter

アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps

B-18ボロ Douglas B-18 Bolo アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps

A-20ハボック Douglas A-20 Havoc アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps

マーティンB-10 Martin B-10 アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces

香港Hong Kong

香港の戦い Battle of Hong Kong

1941年(昭和16年)129日、23Twenty-Third Armyによるイギリス領香港British Hong Kongへの攻撃Attackが開始された。

準備不足のイギリス軍British Armed Forcesは城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、1211日には九龍半島Kowloon Peninsulaから撤退Withdrawalした。

23Twenty-Third Army香港島Hong Kong Islandへの上陸作戦Landing operation1218日夜から1219日未明にかけて行われた。

香港島Hong Kong Island内では激戦Fierce battleとなったが、イギリス軍British Armed Forcesは給水を断たれ1225日に降伏Surrenderした。

九八式軽爆撃機 Type 98 Light Bomber 日本陸軍Imperial Japanese Army

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

九七式戦闘機 Type 97 Fighter 日本陸軍Imperial Japanese Army

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

九七式司令部偵察機 Type 97 Command Reconnaissance aircraft 陸軍Army

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

軽巡洋艦五十鈴(いすず) Light cruiser Isuzu

長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisers

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

ヴィッカース・ヴィルデビースト Vickers Vildebeest イギリス海軍Royal Navy

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

スーパーマリン・ウォーラス Supermarine Walrus イギリス海軍Royal Navy

1941年(昭和16年)129日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。

太平洋戦争

グアムの戦い Battle of Guam

アメリカ領グアム島US Guamへは1941年(昭和16年)1210日未明に南海支隊55師団55th Division)と海軍陸戦隊Navy Land Forcesとが上陸landingした。

アメリカUSA日本Imperial Japan勢力圏Sphere of influenceに取り囲まれたグアム島Guam防衛defenseを当初から半ばあきらめていた。

守備隊Garrisonは同日中に降伏Surrenderした。

敷設艦津軽(つがる) Minelayer Tsugaru

駆逐艦夕月(ゆうづき) Destroyer Yuzuki

睦月型駆逐艦Mutsuki-class destroyers

ウェーク島の戦い Battle of Wake Island

アメリカ領ウェーク島US Wake Island中部太平洋Central Pacificにおけるアメリカ軍US Armed Forces重要拠点Important baseのひとつであった。

1941年(昭和16年)1211日、日本軍Imperial Japanese Forces攻略部隊invasion forcesウェーク島Wake Island砲撃Bombardmentを開始したが、反撃Counterattackにより逆に駆逐艦疾風(はやて)Destroyer Hayate駆逐艦如月(きさらぎ)Destroyer Kisaragi撃沈attack and sinkされ、上陸作戦Landing operationは中止となった。

1941年(昭和16年)1221日、ハワイHawaiiから帰投中の機動部隊Mobile Unit/Forceの一部を加えて攻撃attackが再開され、アメリカ海兵隊United States Marine Corpsは激しく抵抗したものの1223日に降伏Surrenderした。

F4Fワイルドキャット Grumman F4F Wildcat アメリカ海軍US Navy

駆逐艦疾風(はやて) Destroyer Hayate

神風型駆逐艦Kamikaze-class destroyers

駆逐艦如月(きさらぎ) Destroyer Kisaragi

睦月型駆逐艦Mutsuki-class destroyers

空母蒼龍(そうりゅう) Aircraft carrier Soryu

空母飛龍(ひりゅう) Aircraft carrier Hiryu

ラバウル Rabaul

ラバウルの戦い1942

Battle of Rabaul 1942

南海支隊55師団55th Division)は次いで1942年(昭和17年)123日にオーストラリア委任統治領Australian mandatory territoryニューブリテン島New BritainラバウルRabaul上陸landingした。

ラバウルRabaulは、トラック島Truk Island日本海軍Imperial Japanese Navy基地base防衛defenseし、アメリカUSAオーストラリアAustraliaとの連絡contact妨害Interfereする上での重要拠点Important baseであった。

守備隊Garrisonオーストラリア軍Australian Armed forces26日までに降伏Surrenderした。

九七式艦上攻撃機 Type 97 Carrier Attack Aircraft 海軍Navy

太平洋戦争Pacific War大東亜戦争Greater East Asia War)中、1942年(昭和17年)の1月から2月にかけてオーストラリア委任統治領ニューギニアAustralian Territory of New Guinea(現パプアニューギニアPapua New Guineaビスマルク諸島Bismarck Archipelagoニューブリテン島island of New Britainで行われた戦いBattle

日本Imperial Japanでは「R作戦Operation R」の一環として知られており、隣のニューアイルランド島New Ireland islandでの戦いBattleもこの戦闘の一部とされる。

ラバウルの港the port of Rabaul占領occupationした後、日本軍Imperial Japanese Forcesはこのportを大規模な基地baseとし、また航空基地Air baseを整備した。

日本軍Imperial Japanese ForcesラバウルRabaul拠点Baseニューギニア本島New Guinea進出Advanceし、更にはポートモレスビーPort Moresbyオーストラリア大陸The continent of Australiaを目指した。

九九式艦上爆撃機 Type 99 Carrier Bomber 海軍Navy

ラバウル空襲 Air attacks on Rabaul

1942年(昭和17年)14日、トラック島Truk Island基地baseとする第四艦隊所属の第二十四航空戦隊の九六式陸上攻撃機16機が、夜間には九七式飛行艇9機が初めてラバウルRabaul飛行場Airfield爆撃Bombingした。

1942年(昭和17年)16日、7日、16日にも爆撃Bombingを行った。

ラバウルRabaul攻略captureは主として、日本陸軍Imperial Japanese Army南海支隊southern sea Detachmentによって実施されたが、日本海軍Imperial Japanese Navy南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Forceは臨時に南洋部隊South Sea troopsの指揮下に入り、この作戦operationに協力するように命じられていた。

九七式大型飛行艇 Type 97 Large Flying Boat 海軍Navy

1942年(昭和17年)120ニューアイルランド島New Ireland island北東海面に進出した空母Aircraft carrier 4隻(第一航空戦隊〈赤城(あかぎ)、加賀(かが)〉、第五航空戦隊〈瑞鶴(ずいかく)、翔鶴(しょうかく)〉)から、赤城(あかぎ)飛行隊長淵田美津雄(ふちだ・みつお)海軍中佐Navy Commander総指揮官supreme commanderとする108機がラバウルRabaulを攻撃し、飛行場Airfield海岸砲台Coastal battery爆撃Bombingしたほか、敵戦闘機Fighter aircraft 5機の撃墜破Shoot downを報告し、九七式艦上攻撃機1機が被撃墜Shoot downされた。

121日、一航艦の第一航空戦隊52機はカビエンKavieng空襲Air attackし、第五航空戦隊の46機はラエLaeサラモアSalamauaマダンMadangなどを攻撃Attack

空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midway沈没Sunk


122日、第一航空戦隊の46機が再びラバウル空襲Air attacks on Rabaulを実施した。

123日には零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomberの計48機で日本陸軍Imperial Japanese Army上陸部隊Landing unitを支援し、日本Imperial JapanラバウルRabaul攻略captureに成功したが、その直後から頻繁に敵機Enemy aircraftが同地に対する空襲Air attack輸送船Transport ship地上部隊Ground troopsに行い、陸海軍Army and Navyを悩ませた。

空母加賀(かが) Aircraft carrier Kaga

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midway沈没Sunk


アメリカ軍US Armed Forces空母Aircraft carrier機動部隊Mobile Unit/Forceによるマーシャル諸島Marshall Islandsなどへの散発的な空襲Airstrikeを行っていたが、日本軍Imperial Japanese ForcesラバウルRabaul進攻Advanceを察知し、空母レキシントンAircraft carrier Lexington基幹Coreとする機動部隊Mobile Unit/Forceを派遣し、一撃離脱Hit-and-runに限定した空襲Air attackを計画した。

しかし1942年(昭和17年)220日に日本軍Imperial Japanese Forcesに発見され、ラバウルRabaul基地baseより発進した一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraft攻撃Attackを受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦Action off Bougainville)。

ダーウィン空襲 Bombing of Darwin

ダーウィンDarwin

PBYカタリナ Consolidated PBY Catalina アメリカ海軍US Navy

1942年(昭和17年)219日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで撃墜される。


ダーウィン空襲 Bombing of Darwin

1942年(昭和17年)219日、オーストラリアAustralia史上で最大規模の他国勢力foreign powersによる攻撃Attackが行われた。

後にダーウィン空襲Bombing of Darwin、別名ダーウィンの戦いThe Battle of Darwinとして知られる。

219日、計242機の日本軍機Imperial Japanese Aircraft2回に分けてダーウィン湾Darwin Bay市街地Urban area艦船shipそして市街地付近に建設された2つの飛行場Airfield攻撃Attackした。

攻撃Attack第二次世界大戦World War II中に日本軍Imperial Japanese ForcesティモールTimorジャワ島Java侵攻invasion阻止obstructしようとする連合国軍Allied forcesダーウィンDarwin飛行場Airfield基地baseとするのを妨害Interferenceする目的で行われた。

C-47スカイトレイン Douglas C-47 Skytrain 米陸軍航空隊US Army Air Corps

1942年(昭和17年)219日、ダーウィン空襲Bombing of Darwin機銃掃射Strafingを受ける。


ダーウィンDarwin攻撃offenseの規模に比べると防備Defenseが軽く、日本軍Imperial Japanese Forcesはほとんど損害lossを被らずに連合国United Nationsに重大な被害damageを与えた。

ダーウィンDarwin都市部Urban area空襲Airstrikeにより被害damageを受け、非戦闘員Non-combatantの死者も多数出た。

攻撃Attackの直後に、ダーウィンDarwin非軍属市民Non-civilian employeeの半分以上が完全に街を離れた。

この時に日本軍Imperial Japanese Forcesが行った2回の空襲Airstrikeは、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて100回以上日本がオーストラリア軍Australian Armed forcesに対して行った空襲Airstrikeのうち、一番早く、かつ大規模に行われたものであった。

駆逐艦ピアリー Destroyer Peary アメリカ海軍US Navy

1942年(昭和17年)219日、ダーウィン空襲Bombing of Darwin沈没Sunk

オーストラリア Australia 2008年(平成20年)






































































































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