3節 フィリピンの戦い
Battle
of the Philippines
1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)
M3軽戦車スチュアート Light Tank M3
Stuart
太平洋戦争
東南アジア Southeast Asia
東南アジア Southeast Asia
東南アジア Southeast Asia
フィリピン Philippines
フィリピン Philippines
フィリピン Philippines
フィリピンの戦い
Battle
of the Philippines
1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争Pacific War勃発outbreakとともに日本軍Imperial Japanese ForcesはフィリピンPhilippinesの連合国軍Allied forcesと戦闘battleを開始、1942年(昭和17年)6月9日までに孤立した部隊corpsを除き連合国軍Allied forcesの全部隊whole troopが降伏Surrenderして戦闘battleは終了した。
クラーク空軍基地 Clark Air Base
フィリピン作戦 Philippines campaign
フィリピンの戦い Battle of the Philippines
1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)
1941年(昭和16年)12月8日午後、日本軍Imperial Japanese Forcesはアメリカ領フィリピンUS Philippinesのクラーク空軍基地Clark Air Baseを空襲Air raidした。
第14軍Fourteenth Area Army主力は1941年(昭和16年)12月22日にルソン島Luzonに上陸landingし、1942年(昭和17年)1月2日には首都capitalマニラManilaを占領occupationした。
マッカーサー Douglas MacArthur
しかし、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces
Far Eastのダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur司令官Commanderはバターン半島Bataan Peninsulaに立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗resistanceした。
45日間でフィリピンPhilippines主要部を占領occupationするという日本軍Imperial Japanese Forcesの予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島Corregidorの攻略captureまでに150日もかかるという結果になった。
ダバオDavao
フィリピンの戦い Battle of the Philippines
1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争Pacific Warの開戦劈頭、フィリピンPhilippinesに対する航空攻撃Air strikeは理想的成果を収め、翌12月9日は天候不良のため十分な活動ができなかったが、12月10日には第11航空艦隊Air fleetがマニラManila周辺航空基地Air baseおよび海軍基地Naval baseを攻撃し、米航空戦力US air powerのほとんどを壊滅したため、先遣隊Advance corpsの上陸landingは大きな航空被害Air damageを免れた。
1941年(昭和16年)12月20日、ダバオDavao攻略部隊Strategy unitは大きな抵抗resistanceを受けることなく上陸landingに成功し、ダバオDavao市を占領occupationした。
1942年(昭和17年)1月2日、マニラManilaを占領occupation。
その後、バターンBataan、コレヒドールCorregidorを攻略capture。
1942年(昭和17年)5月下旬、ビザヤVisayas、ミンダナオ島Mindanao方面の米軍US Armed Forcesが武装解除Disarmamentし、日本Imperial Japanへの組織的抵抗Organizational
resistanceは終了した。
1942年(昭和17年)5月18日、南方軍Southern Expeditionary Armyは南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignの完了を宣した。
ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur
私はアメリカ大統領President Rooseveltから、日本Imperial Japanの戦線を突破してコレヒドールCorregidorからオーストラリアAustraliaに行けと命じられた。
その目的は、私の了解するところでは、日本Imperial Japanに対するアメリカUSAの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンPhilippinesの救援reliefにある。
私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう。
I came
through and I shall return.
東南アジアSoutheast Asia
蘭印Dutch East Indiesにおいて石油oilをはじめとする重要資源Important resourcesを確保し、これを海上輸送marine
transportationするためには、シンガポールSingaporeとフィリピンPhilippinesを制圧する必要があった。
そのため日本Imperial Japanは開戦opening of warと同時にこの地域を攻略captureした。
また、陸軍部隊Army Corpsの上陸landingに先立ち、制空権Air superiorityを確保しておくため、台湾Taiwanにあった、陸軍Armyおよび海軍航空隊Naval Air Corpsは、在比米空軍U.S. Air Force in Philippinesに、先制攻撃First strikeを仕掛けることとなった。
零戦Zero Fighterの航続能力Cruising rangeは2,200kmを超える。
台湾Taiwanからのフィリピン攻撃Attack on Philippinesは問題なく行える。
零戦Zero Fighter
当初、フィリピン攻略Capture of Philippinesは、真珠湾の奇襲Attack on Pearl Harborと時刻を合わせて、攻撃を行うはずであったが、
台湾Taiwanの飛行基地Air baseは朝から濃霧Thick fogで出撃できず、予定から6時間遅れで、航空隊Air Corpsは発進した。
アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East司令官Commander・マッカーサーDouglas MacArthurは、日本軍Imperial Japanese Forcesの襲来を予測、航空機Aircraftを上空へ退避させた。
しかし、日本軍Imperial Japanese Forcesの発進が遅れたことにより、
上空で待機していた米軍US Armed Forcesの戦闘機Fighter aircraftや爆撃機Bomberは燃料切れとなり、飛行場Airfieldへ戻ることを余儀なくされた。
マッカーサー Douglas MacArthur
日本Imperial Japanの航空隊Air Corpsは、ルソン島Luzonの米軍US Armed Forces飛行場Airfieldに、一方的に爆撃bombingを行い、この日だけで100機以上を撃破。
その後、1週間の間に、米軍US Armed Forcesの航空戦力Air powerは壊滅状態となり、フィリピンPhilippines上空の制空権Air superiorityは、日本Imperial Japanのものとなった。
フィリピン攻略Capture of Philippinesにおける日本Imperial Japanの戦略目標は、首都capitalマニラManilaの早期占領occupationであった。
1941年(昭和16年)12月12日、第16師団はレガスピーLegazpiに上陸landing。
主隊である第48師団は、12月22日、リンガエン湾Lingayen Gulfに上陸landingし、マニラManilaに向かって挟撃を開始した。
このフィリピン上陸作戦Landing operation
of Philippinesでは、戦線右翼に位置する、セント・トーマスSanto Tomas付近(マニラManila)で、日本軍Imperial Japanese Forcesの戦車第4連隊4th
Tank Regimentが、米軍US Armed Forces戦車部隊tank corpsと遭遇し、日米初の戦車戦tank warfareが行われた。
フィリピン Philippines
日本軍Imperial Japanese Forcesの戦車tankは歩兵直協用で、戦車戦tank warfareには不向きな旧式の八九式中戦車 Type 89 medium tankと、
37mmの主砲Main gunを搭載する九五式軽戦車 Type 95
light tankである。
かたや米軍US Armed Forcesは九五式軽戦車 Type 95
light tankと同じ37mmの主砲Main gunを備えたM3軽戦車スチュアート Light
Tank M3 Stuart。
しかし、砲の威力も装甲の厚さも九五式軽戦車 Type 95
light tankを上回り、日本Imperial Japanの戦車部隊tank corpsは、いきなりの苦戦に陥った。
結局、正攻法では撃破できず、体当たりで凌いで、ここを突破した。
八九式中戦車 Type 89 medium tank (11.9t)
九五式軽戦車 Type 95 light tank
M3軽戦車スチュアート Light Tank M3
Stuart
M3軽戦車スチュアート Light Tank M3
Stuart
マニラManilaへ向けて進撃する日本軍Imperial Japanese Forces戦車隊tank corps
アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East司令官Commander・マッカーサーDouglas MacArthurは、早い段階からマニラManilaの放棄を決定し、増援を待つため、戦力をバターン半島Bataan Peninsulaへ移していた。
日本軍Imperial Japanese Forcesの進撃が順調だったのも、米軍US Armed Forcesが極力前線での戦闘Battleを避けていたためである。
その動向に気づいていた、第48師団長の土橋勇逸(つちはし・ゆういつ)中将は、第14軍司令部に報告した。
土橋勇逸(つちはし・ゆういつ) Yuitsu Tsuchihashi
バターン半島 Bataan Peninsula
マッカーサー Douglas MacArthur
第14軍司令部・本間雅晴(ほんま・まさはる)中将は、マニラManilaの占領occupationにこだわり、事実上これを放置。
本間雅晴(ほんま・まさはる) Masaharu Homma
1941年(昭和16年)12月26日に無防備都市open cityを宣言declarationしたマニラManila
1941年(昭和16年)12月27日、マッカーサーDouglas MacArthurが、マニラManilaの無防備都市宣言declaration of an "open city"を行うと、
1942年(昭和17年)1月2日、日本軍Imperial Japanese Forcesはここを無血占領Bloodless occupation。
当初の目的を難なく達成したのである。
開戦opening of war時、占領目標Occupation goalの広大さに比べて、日本軍Imperial Japanese Forcesの戦力war potentialは過少insufficientであった。
そのため、作戦operationsを終了した部隊military unitは、他方面に転用されていった。
フィリピン攻略Capture of Philippinesの主力部隊main‐force unitsである第48師団も、蘭印攻略Capture of Dutch East Indiesへ回されることとなり、
バターン半島攻略Capture of Bataan Peninsulaは、治安維持maintenance of
public orderの目的で派遣されていた、第65旅団に割り当てられた。
第14軍司令部は、バターン半島Bataan Peninsulaの敵部隊Enemy troopsを、
戦わずに逃げ込んだ残兵remnants of a
defeated armyの掃討sweep程度にしか、考えていなかったのである。
1942年(昭和17年)1月9日、いざ攻撃が開始されると…
奈良晃(なら・あきら) Akira Nara 歩兵第65旅団長
米軍US Armed Forcesの抵抗は想像以上に厳しく、第65旅団は、まったく前進できない。
バターン半島Bataan Peninsulaの陣地Positionは、開戦opening of warの1年前から準備された、3段構えの強固な防衛線Defense lineであったのだ。
攻撃attackはことごとく失敗。
2,000名もの死傷者casualtiesを出し、やがて作戦operationsは、一時中止suspendとなった。
その後、バターン半島Bataan Peninsulaに対する再攻略Recapture準備は、着々と進められた。
今度こそ、失敗は許されない。
日本軍Imperial Japanese Forcesは威信をかけて、異例なほどの、大砲兵団Artilleryを送り込み、さらに航空部隊air corpsも全面協力する。
一方、バターン半島Bataan Peninsulaのアメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far Eastは、長引く籠城に食糧や医薬品が、底を尽きかけていた。
立てこもった人員が、想定以上だったことに加えて、民間人Civilianも多数いたためである。
マッカーサーDouglas MacArthurは、この戦いBattleに見切りをつけ、1942年(昭和17年)3月12日に、魚雷艇torpedo boatに乗り込んで、脱出してしまった。
マッカーサー Douglas MacArthur
こうして1942年(昭和17年)4月3日、満を持して、第二次バターン攻略Second Capture of Bataan Peninsulaが開始された。
24cm榴弾砲(りゅうだんぽう) Howitzerを始め、190門におよぶ、各種大砲Artilleryによる大規模な支援砲撃。
100機を越える爆撃機Bomberによる爆撃bombing。
バターン半島Bataan Peninsula中部に横一線に並んだ、日本軍Imperial Japanese Forcesの総兵力total
military forceは約5万。
失敗に終わった第一次バターン半島攻略戦First Capture of Bataan Peninsulaの際の、じつに10倍近い兵力military
forceであった。
この第二次バターン半島攻略戦Second Capture of Bataan
Peninsulaは、先の戦いが、嘘だったかのように、戦線のあちこちで、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces
Far Eastの投降surrenderが相次いだ。
そして、1942年(昭和17年)4月9日、日本軍Imperial Japanese Forcesはバターン半島Bataan Peninsula最南端のマリベレスMarivelesへ到達。
同日、バターンBataan地区の指揮官CommanderであるキングKing少将Major
generalが投降surrenderし、戦闘Battleを終了した。
エドワード・P・キング Edward
P. King
バターン死の行進 Bataan Death March
この時、日本軍Imperial Japanese Forcesは大量の捕虜Prisoner of warを輸送transportする手段meansがなく、徒歩On footで移動させたのだが、その途上で多くの捕虜Prisoner of warの命を落とさせてしまう。
これは、「バターン死の行進Bataan Death March」と呼ばれ、日本軍Imperial Japanese Forcesの残虐行為Atrocitiesとして喧伝widely broadcastされた。
フィリピン攻略Capture of Philippinesの完遂まで、残すは難攻不落impregnableの、コレヒドール要塞Corregidor Fortressの攻略Captureのみとなった。
マニラ湾Manila Bayにはコレヒドール島Corregidor Islandなど要塞化fortificationされた4つの島islandsがあり、それらを合わせて、コレヒドール要塞Corregidor Fortressと呼ぶ。
ここには口径30cm以上の砲Artilleryが38門、各種海岸砲Coastal artilleryの合計は95門に達していた。
加えてコレヒドール島Corregidor Islandには、15,000名ほどの兵員Soldierが立てこもっていた。
1942年(昭和17年)4月14日、日本軍Imperial Japanese Forcesは、コレヒドール島Corregidor Islandへ攻撃attackを開始。
大規模な砲爆撃Bombardmentを行う。
1942年(昭和17年)5月2日には5時間に3,600発という砲弾Cannonballを撃ち込み、
ついに要塞Fortressの壁を打ち抜く…
そして1942年(昭和17年)5月6日、アメリカ極東陸軍U.S. Army Forces Far East指揮官のウェインライトJonathan M.
Wainwright中将Lieutenant Generalが、降伏surrenderを申し入れ、翌日には、すべての島islandsが陥落fallした。
こうして日本軍Imperial Japanese Forcesは、フィリピン攻略Capture of Philippinesにも成功したのである。
ジョナサン・ウェインライト Jonathan M.
Wainwright
重巡洋艦摩耶(まや) Heavy cruiser Maya
高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisersの3番艦Third ship
重巡洋艦妙高(みょうこう) Heavy cruiser Myoko
妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy
cruiserの1番艦lead ship
重巡洋艦那智(なち) Heavy cruiser Nachi
妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy
cruiserの2番艦Second ship
重巡洋艦足柄(あしがら) Heavy cruiser Ashigara
妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy
cruiserの3番艦Third ship
重巡洋艦羽黒(はぐろ) Heavy cruiser Haguro
妙高型重巡洋艦Myoko-class Heavy
cruiserの4番艦Fourth ship
軽巡洋艦長良(ながら) Light cruiser Nagara
長良型軽巡洋艦Nagara-class Light
cruiserの1番艦First ship
軽巡洋艦球磨(くま) Light cruiser Kuma
球磨型軽巡洋艦Kuma-class Light
cruiserの1番艦First ship
軽巡洋艦神通(じんつう) Light cruiser Jintsu
川内型軽巡洋艦Sendai-class Light
cruiserの2番艦Second ship
軽巡洋艦那珂(なか) Light cruiser Naka
川内型軽巡洋艦Sendai-class Light
cruiserの3番艦Third ship
軽巡洋艦名取(なとり) Light cruiser Natori
長良型軽巡洋艦Nagara-class Light
cruiserの3番艦Third ship
空母龍驤(りゅうじょう) Aircraft carrier Ryujo
九六式四号艦上戦闘機 Type 96 Carrier-based Fighter Model 4 海軍Navy
零戦二一型 Zero fighter Model 21 日本海軍Imperial Japanese
Navy
九八式陸上偵察機 Type 98
Reconnaissance Aircraft 海軍Navy
九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based
Attack Aircraft 海軍Navy
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft 海軍Navy
二式飛行艇 Type 2 Flying Boat 日本海軍Imperial Japanese
Navy
B-17フライング・フォートレス Boeing B-17 Flying
Fortress
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
P-40ウォーホーク Curtiss P-40 Warhawk 米陸軍航空軍US Army Air Forces
セバスキーP-35 Seversky P-35 アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps
P-26ピーシューター Boeing P-26 Peashooter
アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps
B-18ボロ Douglas B-18 Bolo アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps
A-20ハボック Douglas A-20 Havoc アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps
マーティンB-10 Martin B-10 アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
香港Hong Kong
香港の戦い Battle of Hong Kong
1941年(昭和16年)12月9日、第23軍Twenty-Third Armyによるイギリス領香港British Hong Kongへの攻撃Attackが開始された。
準備不足のイギリス軍British Armed
Forcesは城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、12月11日には九龍半島Kowloon Peninsulaから撤退Withdrawalした。
第23軍Twenty-Third Armyの香港島Hong Kong Islandへの上陸作戦Landing operationは12月18日夜から12月19日未明にかけて行われた。
香港島Hong Kong Island内では激戦Fierce battleとなったが、イギリス軍British Armed Forcesは給水を断たれ12月25日に降伏Surrenderした。
九八式軽爆撃機 Type 98 Light Bomber 日本陸軍Imperial
Japanese Army
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
九七式戦闘機 Type 97 Fighter 日本陸軍Imperial
Japanese Army
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
九七式司令部偵察機 Type 97 Command
Reconnaissance aircraft 陸軍Army
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
軽巡洋艦五十鈴(いすず) Light cruiser Isuzu
長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisers
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
ヴィッカース・ヴィルデビースト Vickers Vildebeest イギリス海軍Royal Navy
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
スーパーマリン・ウォーラス Supermarine Walrus イギリス海軍Royal Navy
1941年(昭和16年)12月9日からの、香港の戦いBattle of Hong Kongに参加。
太平洋戦争
グアムの戦い Battle of Guam
アメリカ領グアム島US Guamへは1941年(昭和16年)12月10日未明に南海支隊(第55師団55th
Division)と海軍陸戦隊Navy Land Forcesとが上陸landingした。
アメリカUSAは日本Imperial Japanの勢力圏Sphere of influenceに取り囲まれたグアム島Guamの防衛defenseを当初から半ばあきらめていた。
守備隊Garrisonは同日中に降伏Surrenderした。
敷設艦津軽(つがる) Minelayer Tsugaru
駆逐艦夕月(ゆうづき) Destroyer Yuzuki
睦月型駆逐艦Mutsuki-class destroyers
ウェーク島の戦い Battle of Wake Island
アメリカ領ウェーク島US Wake Islandは中部太平洋Central Pacificにおけるアメリカ軍US Armed Forcesの重要拠点Important baseのひとつであった。
1941年(昭和16年)12月11日、日本軍Imperial Japanese Forcesの攻略部隊invasion forcesはウェーク島Wake Islandへ砲撃Bombardmentを開始したが、反撃Counterattackにより逆に駆逐艦疾風(はやて)Destroyer Hayateと駆逐艦如月(きさらぎ)Destroyer Kisaragiが撃沈attack and sinkされ、上陸作戦Landing operationは中止となった。
1941年(昭和16年)12月21日、ハワイHawaiiから帰投中の機動部隊Mobile Unit/Forceの一部を加えて攻撃attackが再開され、アメリカ海兵隊United States
Marine Corpsは激しく抵抗したものの12月23日に降伏Surrenderした。
F4Fワイルドキャット Grumman F4F Wildcat アメリカ海軍US Navy
駆逐艦疾風(はやて) Destroyer Hayate
神風型駆逐艦Kamikaze-class destroyers
駆逐艦如月(きさらぎ) Destroyer Kisaragi
睦月型駆逐艦Mutsuki-class destroyers
空母蒼龍(そうりゅう) Aircraft carrier Soryu
空母飛龍(ひりゅう) Aircraft carrier Hiryu
ラバウル Rabaul
ラバウルの戦い1942年
Battle
of Rabaul 1942
南海支隊(第55師団55th
Division)は次いで1942年(昭和17年)1月23日にオーストラリア委任統治領Australian mandatory territoryのニューブリテン島New BritainラバウルRabaulに上陸landingした。
ラバウルRabaulは、トラック島Truk Islandの日本海軍Imperial Japanese Navy基地baseを防衛defenseし、アメリカUSAとオーストラリアAustraliaとの連絡contactを妨害Interfereする上での重要拠点Important baseであった。
守備隊Garrisonのオーストラリア軍Australian Armed
forcesは2月6日までに降伏Surrenderした。
九七式艦上攻撃機 Type 97 Carrier
Attack Aircraft 海軍Navy
太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)中、1942年(昭和17年)の1月から2月にかけてオーストラリア委任統治領ニューギニアAustralian Territory of New Guinea(現パプアニューギニアPapua New Guinea、ビスマルク諸島Bismarck
Archipelago)ニューブリテン島island of New
Britainで行われた戦いBattle。
日本Imperial Japanでは「R作戦Operation R」の一環として知られており、隣のニューアイルランド島New Ireland islandでの戦いBattleもこの戦闘の一部とされる。
ラバウルの港the port of Rabaulを占領occupationした後、日本軍Imperial Japanese Forcesはこの港portを大規模な基地baseとし、また航空基地Air baseを整備した。
日本軍Imperial Japanese ForcesはラバウルRabaulを拠点Baseにニューギニア本島New Guineaに進出Advanceし、更にはポートモレスビーPort Moresbyやオーストラリア大陸The continent of Australiaを目指した。
九九式艦上爆撃機 Type 99 Carrier
Bomber 海軍Navy
ラバウル空襲 Air attacks on Rabaul
1942年(昭和17年)1月4日、トラック島Truk Islandを基地baseとする第四艦隊所属の第二十四航空戦隊の九六式陸上攻撃機16機が、夜間には九七式飛行艇9機が初めてラバウルRabaulの飛行場Airfieldを爆撃Bombingした。
1942年(昭和17年)1月6日、7日、16日にも爆撃Bombingを行った。
ラバウルRabaulの攻略captureは主として、日本陸軍Imperial Japanese
Armyの南海支隊southern sea Detachmentによって実施されたが、日本海軍Imperial Japanese
Navyの南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Forceは臨時に南洋部隊South Sea troopsの指揮下に入り、この作戦operationに協力するように命じられていた。
九七式大型飛行艇 Type 97 Large
Flying Boat 海軍Navy
1942年(昭和17年)1月20日ニューアイルランド島New Ireland island北東海面に進出した空母Aircraft carrier 4隻(第一航空戦隊〈赤城(あかぎ)、加賀(かが)〉、第五航空戦隊〈瑞鶴(ずいかく)、翔鶴(しょうかく)〉)から、赤城(あかぎ)飛行隊長淵田美津雄(ふちだ・みつお)海軍中佐Navy Commanderを総指揮官supreme commanderとする108機がラバウルRabaulを攻撃し、飛行場Airfield、海岸砲台Coastal batteryを爆撃Bombingしたほか、敵戦闘機Fighter aircraft 5機の撃墜破Shoot downを報告し、九七式艦上攻撃機1機が被撃墜Shoot downされた。
1月21日、一航艦の第一航空戦隊52機はカビエンKaviengを空襲Air attackし、第五航空戦隊の46機はラエLae、サラモアSalamaua、マダンMadangなどを攻撃Attack。
空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunk。
1月22日、第一航空戦隊の46機が再びラバウル空襲Air attacks on Rabaulを実施した。
1月23日には零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter、九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier
Bomberの計48機で日本陸軍Imperial Japanese Armyの上陸部隊Landing unitを支援し、日本Imperial JapanはラバウルRabaulの攻略captureに成功したが、その直後から頻繁に敵機Enemy aircraftが同地に対する空襲Air attackを輸送船Transport shipや地上部隊Ground troopsに行い、陸海軍Army and Navyを悩ませた。
空母加賀(かが) Aircraft carrier Kaga
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunk。
アメリカ軍US Armed Forcesは空母Aircraft carrier機動部隊Mobile
Unit/Forceによるマーシャル諸島Marshall Islandsなどへの散発的な空襲Airstrikeを行っていたが、日本軍Imperial Japanese ForcesのラバウルRabaul進攻Advanceを察知し、空母レキシントンAircraft carrier
Lexingtonを基幹Coreとする機動部隊Mobile Unit/Forceを派遣し、一撃離脱Hit-and-runに限定した空襲Air attackを計画した。
しかし1942年(昭和17年)2月20日に日本軍Imperial Japanese Forcesに発見され、ラバウルRabaul基地baseより発進した一式陸上攻撃機Type 1 Land-based
Attack Aircraftに攻撃Attackを受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦Action off
Bougainville)。
ダーウィン空襲 Bombing of Darwin
ダーウィンDarwin
PBYカタリナ Consolidated PBY Catalina アメリカ海軍US Navy
1942年(昭和17年)2月19日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで撃墜される。
ダーウィン空襲 Bombing of Darwin
1942年(昭和17年)2月19日、オーストラリアAustralia史上で最大規模の他国勢力foreign powersによる攻撃Attackが行われた。
後にダーウィン空襲Bombing of Darwin、別名ダーウィンの戦いThe Battle of Darwinとして知られる。
同2月19日、計242機の日本軍機Imperial Japanese Aircraftが2回に分けてダーウィン湾Darwin Bayの市街地Urban area、艦船shipそして市街地付近に建設された2つの飛行場Airfieldを攻撃Attackした。
攻撃Attackは第二次世界大戦World War II中に日本軍Imperial Japanese ForcesのティモールTimor、ジャワ島Java侵攻invasionを阻止obstructしようとする連合国軍Allied forcesがダーウィンDarwinの飛行場Airfieldを基地baseとするのを妨害Interferenceする目的で行われた。
C-47スカイトレイン Douglas C-47 Skytrain 米陸軍航空隊US Army Air Corps
1942年(昭和17年)2月19日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで機銃掃射Strafingを受ける。
ダーウィンDarwinは攻撃offenseの規模に比べると防備Defenseが軽く、日本軍Imperial Japanese Forcesはほとんど損害lossを被らずに連合国United Nationsに重大な被害damageを与えた。
ダーウィンDarwinの都市部Urban areaも空襲Airstrikeにより被害damageを受け、非戦闘員Non-combatantの死者も多数出た。
攻撃Attackの直後に、ダーウィンDarwinの非軍属市民Non-civilian employeeの半分以上が完全に街を離れた。
この時に日本軍Imperial Japanese Forcesが行った2回の空襲Airstrikeは、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて100回以上日本がオーストラリア軍Australian Armed
forcesに対して行った空襲Airstrikeのうち、一番早く、かつ大規模に行われたものであった。
駆逐艦ピアリー Destroyer Peary アメリカ海軍US Navy
1942年(昭和17年)2月19日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで沈没Sunk。
オーストラリア Australia 2008年(平成20年)