I号戦車Type I Tank
I号戦車Type I Tank
I号戦車Type I Tank
ドイツ陸軍German Army
1934年(昭和9年)~1945年(昭和20年)
5.4
metric tons Crew 2 車長commander 操縦手driver
I号戦車Type I Tankは、ドイツ国German Reichが第一次世界大戦World War I後、初めて量産した豆戦車Tankette(5トン級)である。
訓練戦車Training tankおよび生産技術の習得のための軽量・簡易な豆戦車Tanketteとして開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号戦車Type III Tank、IV号戦車Type IV
Tankの数が揃わず、第二次世界大戦World War II開戦直後のポーランド侵攻作戦Invasion of Polandなど、II号戦車Type II
Tankと共に実戦に投入された。
再軍備Rearmament宣言後の軍事パレードや1938年(昭和13年)のオーストリア合邦Anschlussで大々的に使用されたほか、1936年(昭和11年)以降、実戦評価テストを兼ねて100両がスペイン内戦Spanish Civil Warに送られた。
その脆弱さはスペイン内戦Spanish Civil Warですでに露呈しており、緒戦時の戦場であれ本格的な戦闘は無理だった。
中華民国Republic of Chinaに輸出されたA型は日中戦争Second Sino-Japanese Warの南京防衛戦Battle of Nankingに使われた。
この際、4両が大日本帝国陸軍Imperial Japanese
Armyに鹵獲(ろかく)Prize of warされた。
II号戦車 Type II Tank
II号戦車 Type II Tank
II号戦車 Type II Tank
ナチス・ドイツ Nazi Germany
1935年(昭和10年)~1944年(昭和19年)
8.9
metric tons Crew 3
車長兼砲手 commander/gunner 操縦手 driver 装填手 loader
II号戦車 Type II Tankは、ナチス・ドイツ Nazi
Germanyで作られた軽戦車 Light
tank(10トン級)である。
a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。
標準型II号戦車 Type II Tankは、I号戦車 Type I Tankではできない砲を扱うための訓練および戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車 Light tankである。
主力戦車 Main battle tankであるIII号戦車 Type
III Tank、IV号戦車 Type IV Tankの数が揃うまでの繋ぎとして、非力なI号戦車 Type I Tankに代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。
I号戦車 Type I Tankの武装が7.92mm機関銃 MG13であるのに対し、II号戦車Type II
Tankは20mm機関砲 KwK 30に強化されている。
II号戦車 Type II Tankはまずスペイン内戦 Spanish
Civil Warで、I号戦車 Type I Tankとともにテスト運用された。
本格的な主力戦車 Main battle tankであるIII号戦車 Type
III Tank、IV号戦車Type IV Tankの生産が間に合わず、第二次世界大戦 World
War II開始時のポーランド侵攻 Invasion
of Polandから主力として実戦投入された。
初期の電撃戦 Lightning
warではその軽快性と機動力が大いに発揮され、その戦闘能力も当時においては有効だった。
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stuka
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stuka
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stuka
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stuka
ユンカースJu 87シュトゥーカ
Junkers
Ju 87 or Stuka
ナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air force
運用開始Introduction 1936年(昭和11年)
液冷Liquid-cooled複座Two-Seat急降下爆撃機Dive bomber
最高速度Top speed 310km/h
ユンカースJu 87シュトゥーカJunkers Ju 87 or
Stukaは、ドイツNazi Germanyのユンカース社Junkers Aircraft
and Motor Worksが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II中にドイツ空軍Nazi Germany's air forceなどで運用された急降下爆撃機Dive bomberである。
愛称Nicknameの「シュトゥーカStuka」とは、本来は本機種の固有の愛称Nicknameではなく、“急降下爆撃機Dive bomber”を意味するドイツ語Germanの「Sturzkampfflugzeug」(シュトゥルツカンプフルクツォイク)の略であったが、本機がドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesの用いた急降下爆撃機Dive bomberの代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。
日本語では「スツーカ」「ストゥーカ(ステューカ)」とも表記されている。
逆ガル翼Inverted gull wingの複座機Two-Seat aircraftで固定脚Fixed gearが外見上の大きな特徴で、急降下爆撃機Dive bomberらしいガッシリとした武骨なフォルムをもつ。
急降下爆撃Dive bombingの機動に耐えるため機体構造が頑丈で、整備も容易で反復攻撃をこなせる実用性に富む機体であった。
逆ガル翼Inverted gull wingが生み出す下方視界の良さと、安定した急降下Dive性能により精密な爆撃Airstrikeを実施でき、急降下Dive時にサイレンsirenのような音を立てることから連合国United Nations側からは「悪魔のサイレンDevil siren」の異名で恐れられた。
この通称にヒントを得て、後に機体には実際に小型プロペラpropellersにより駆動されるサイレンsiren(ジェリコのラッパJericho trumpets)が取り付けられるようになり、標的となった陣地などの敵兵を恐慌へと追いやり、地上部隊の進撃を爆撃と心理面で援護することになる。
頑丈、すなわち重い機体構造という急降下爆撃機Dive bomberの特性ゆえの弱点があり、低速、鈍重で防弾Bulletproofing設備が貧弱だったため空戦Aerial warfare能力は低く、制空権air superiorityを確保した状態での攻撃Attackにしか適さなかった。
また、機体の重さのしわ寄せは燃料搭載量にも及び、航続距離Cruising rangeが短く行動半径が狭かった。
ユンカースJu 87シュトゥーカは1939年(昭和14年)にはじまるポーランド侵攻Invasion of Polandや開戦当初の電撃戦Lightning warにおいて非常に大きな戦果を挙げたが、1940年(昭和15年)の英国空中戦Battle of Britainでは、防弾Bulletproofing性能の低さと制空権air superiorityを確保していない地点への投入によりスピットファイアSupermarine Spitfireやホーカー・ハリケーンHawker Hurricaneなどのイギリス戦闘機British Fighter aircraftに多数が撃墜shot downされ、大きな損害を出した。
また、航続距離Cruising rangeの不足から、英本土British mainland内陸Inlandの目標を攻撃出来なかった。
本機は第二次世界大戦World War II以前の1935年(昭和10年)秋に初飛行Maiden flightを行っているにもかかわらず、後継機Successorに恵まれなかったこともあって大幅なバージョンアップも無く終戦まで使用され続けた機体である。
開戦当初こそ大きな戦果を挙げたが、ドイツ空軍Nazi Germany's air
force上層部は能力を過信し、「急降下爆撃Dive bombingこそが至上の爆撃である」と誤った認識をもった者も多かった。
その認識の甘さは英国空中戦Battle of Britainでの大損害を生む原因ともなった。
1942年(昭和17年)頃から陸上では単発爆撃機Single-engine Bomberは活躍の場を失いつつあり、ドイツ空軍Nazi Germany's air
forceでもフォッケウルフFw 190 Focke-Wulf Fw 190などの地上攻撃機Ground-attack aircraft・戦闘爆撃機Fighter-bomber型が登場しているが、旧式化したユンカースJu 87もダイブブレーキDive brakesを外し、襲撃機Assault Planeとして生産され続けた。
フランス戦Battle of Franceではドイツ陸軍Nazi Germany's Army支援のためフランス軍戦車French Tankに対して急降下爆撃Dive bombingを行ったが効果は薄く、機銃Machine gunでエンジン部分を狙った方が確実に損害を与えられた。
この戦訓をもとに、爆弾ではなく機関砲Autocannonを搭載した
対戦車攻撃機Tank-attack aircraft型(ユンカースJu 87 G)も開発Developmentされている。
ポーランド侵攻Invasion of Poland
ポーランド侵攻Invasion of Poland
第二次世界大戦World War II
第二次世界大戦World War IIは、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの6年余りにわたって、日本Imperial Japan、ドイツNazi Germany、イタリアFascist Italyの日独伊三国同盟Tripartite Pactを中心とする枢軸国Axis powers陣営campと、イギリスBritish Empire、ソビエト連邦Soviet Union、フランスFrench Third Republic、ポーランドSecond Polish
Republic、中華民国Republic of China、アメリカUSA、オランダNetherlands、ベルギーKingdom of Belgiumやそれらの植民地Colonyなどの連合国Allies陣営campとの間で戦われた戦争Warで、第一次世界大戦World War I以来の全世界的規模の戦争World warとなった。
1939年(昭和14年)9月のドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesによるポーランド侵攻Invasion of Polandと続くソビエト連邦Soviet Unionによるポーランド侵攻Soviet invasion of
Poland、そして英British Empire・仏French Third
RepublicからドイツNazi Germanyへの宣戦布告Declaration of warによりヨーロッパEuropeは戦場battlefieldと化Turn intoした。
その後1941年(昭和16年)12月のマレー作戦Malayan campaignによる日本Imperial JapanとイギリスBritish EmpireやオランダNetherlandsとの開戦opening of warと、続くアメリカUSAへの真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborと宣戦布告Declaration of warによる、いわゆる太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)開戦opening of warによって、戦火the fires of warは全世界the whole worldに拡大expandし、人類史上In human history最大規模of the largest
scaleの戦争Warとなった。
経過Course
of the war
(全世界Whole worldにおける大局Whole situation)
1939年(昭和14年)9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesがポーランドへ侵攻Invasion of Poland。
9月3日、イギリスBritish Empire・フランスFrench Third
RepublicがドイツNazi Germanyに宣戦布告Declaration of warした。
9月17日にはソ連軍Soviet Armyも東から侵攻Invasionし(ポーランド侵攻Soviet invasion of Poland)、ポーランドPolandはドイツNazi Germany・ソ連Soviet Union両国Both
countriesに分割Partitions・占領occupationされた。
その後、西部戦線Western Frontでは散発的戦闘Sporadic Battleのみで膠着状態deadlockとなる(まやかし戦争Phoney War)。
一方、ソ連Soviet UnionもドイツNazi Germanyの伸長に対する防御やバルト三国Baltic statesおよびフィンランドFinlandへの領土的野心Territorial ambitionから、11月30日よりフィンランドへ侵攻Invasion of Finlandした(冬戦争Winter War)。
この侵略行為act of aggressionを非難Blameされ、ソ連Soviet Unionは国際連盟League of Nationsから除名Excludedされた。
1940年(昭和15年)3月にはソ連Soviet UnionはフィンランドFinlandから領土territoryを割譲cession。
さらに1940年(昭和15年)8月にはバルト三国を併合Occupation of the Baltic statesした。
1940年(昭和15年)春、ドイツNazi GermanyはノルウェーNorway、ベネルクス三国Benelux、フランスFrench Third Republicなどを次々と攻略captureし、ダンケルクの戦いBattle of Dunkirkで連合国軍Allied forcesをヨーロッパ大陸European continentから駆逐し、さらにイギリス本土British mainland上陸Landingを狙った空襲Airstrike(英国空中戦Battle of Britain)も行われたが、大損害を被り同年9月にはイギリス本土British mainland上陸作戦Landing operation(アシカ作戦Operation Sea Lion)は断念する。
その結果ヒトラーAdolf Hitlerはイギリス上陸作戦(アシカ作戦Operation Sea Lion)を無期延期とし、ソ連Soviet Union攻略captureを考え始める。
その9月下旬、ドイツNazi GermanyはイタリアFascist Italy、日本Imperial Japanと日独伊三国軍事同盟Tripartite Pactを締結Conclusionした。
1941年(昭和16年)にドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesはユーゴスラビア王国Kingdom of
Yugoslavia(ユーゴスラビア侵攻Invasion of
Yugoslavia)やギリシア王国Kingdom of Greeceなどバルカン半島Balkan Peninsula(バルカン戦線Balkans Campaign)、エーゲ海島嶼Aegean Islands部に相次いで侵攻Invasion。
6月にドイツNazi Germanyはソ連Soviet Unionへ侵攻Invasionした(独ソ戦German-Soviet War)。
これによりドイツNazi Germanyによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。
日中戦争Second Sino-Japanese Warで4年間戦い続けていた日本Imperial Japanは、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスBritish Empireのマレー半島Malay Peninsulaを攻撃attackし(マレー作戦Malayan campaign)、ここに太平洋アジア戦線Pacific Asia Frontが始まる。
日本軍Imperial Japanese Forcesは続いてアメリカUSAのハワイHawaiiも攻撃attackし(真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor)大勝利を勝ち取る。
ここに日本Imperial JapanがイギリスBritish EmpireとアメリカUSA、オランダNetherlandsなどの連合国Alliesに開戦opening of warし、ドイツNazi GermanyやイタリアFascist ItalyもアメリカUSAに宣戦布告Declaration of warし戦争Warは世界に広がり、第二次世界大戦World War IIとなる。
日本軍Imperial Japanese Forcesは12月中に早くもイギリスBritish Empireの植民地Colonyの香港Hong KongやアメリカUSAのグアムGuamを瞬く間に占領occupationし、アメリカ西海岸West Coast of the
USAで通商破壊Commerce raiding戦を開始した。
1942年(昭和17年)に入っても戦勝を続ける日本軍Imperial Japanese Forcesは、イギリスBritish Empireの植民地Colonyのマレー半島Malay Peninsula一帯やビルマBurma、オランダNetherlandsの植民地ColonyのインドネシアIndonesia、アメリカUSAの植民地ColonyのフィリピンPhilippinesを占領occupationした。
さらに日本軍Imperial Japanese Forcesによるアメリカ本土Mainland americaへの攻撃attackを数度に渡り受けたアメリカUSAやオーストラリアAustraliaは、自国Home country本土mainlandへの日本陸軍Imperial Japanese Army上陸Landing対策Countermeasuresを検討するほどになった。
しかし同時期にドイツNazi Germanyはロストフの戦いBattle of Rostovとモスクワの戦いBattle of Moscowで敗北し、これにより独ソ戦German-Soviet Warでの勢いが止まってしまう。
しかし日本軍Imperial Japanese Forcesは勢いを増しインド洋Indian Oceanからイギリス海軍Royal Navyを駆逐するとともにアフリカ大陸African continent沿岸のマダガスカルMadagascarまで進出し、シドニー湾Port Jacksonまで攻撃attackの範囲を拡大した。
日本軍Imperial Japanese Forcesは6月にミッドウェー海戦Battle of Midwayで敗北するものの、同月にアリューシャン列島Aleutian IslandsのダッチハーバーDutch Harborを空襲Airstrikeし、その後アッツ島Attu Islandとキスカ島Kiskaを占領、9月にアメリカ本土Mainland americaへの空襲Airstrikeを数回にわたり行うなど勢いを増したほか、アメリカ海軍US Navyも各地で日本軍Imperial Japanese Forcesとの戦いで敗北を続け、年末には稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。
1943年(昭和18年)に入っても日本軍Imperial Japanese Forcesはオーストラリア本土Australian Mainlandへの激しい空襲Airstrikeを続け、また各地でイギリス軍British Armed Forcesやアメリカ軍US Armed Forcesに対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカUSAやイギリスBritish Empireも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いSolomon Islands
campaignなどでは日本軍Imperial Japanese Forcesと一進一退を続けるようになる。
また日本海軍Imperial Japanese Navyとドイツ海軍Nazi Germany's Navy、イタリア海軍Italian Navyのインド洋Indian Oceanにおける共同作戦が活発になるが、イタリアFascist Italyが降伏surrenderし潜水艦Submarineなどはドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesに鹵獲(ろかく)Prize of warされる。
ヨーロッパ戦線European Frontにおいては同年には枢軸国Axis powersが完全に劣勢となり、2月にはドイツNazi Germanyがスターリングラード攻防戦Battle of
Stalingrad、5月に北アフリカ戦線North African campaignで敗北し、北アフリカNorth Africaを放棄。
1943年(昭和18年)7月に敗色が濃い中イタリアFascist ItalyのムッソリーニBenito Mussoliniは失脚し、連合国Allies側に鞍替え参戦Participation in the warする。
同時に、救出されたムッソリーニBenito Mussoliniを首班としたドイツNazi Germanyの傀儡政権puppet governmentであるイタリア社会共和国Italian Social Republic(サロ政権Republic of Salò)が北イタリアNorthern Italyを支配する状況になる。
また日本軍Imperial Japanese Forcesはガダルカナル戦Battle of Guadalcanalで敗北するなど、戦線Frontが拡大expandし補給線Supply lineが国力National powerを超えて伸び切ったため、同1943年(昭和18年)後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍Imperial Japanese Forcesはついに11月にオーストラリア本土Australian Mainlandへの空襲Airstrikeを中止する。
1944年(昭和19年)にはイギリス軍British Armed Forcesが日本軍Imperial Japanese ForcesにビルマBurmaでインパール作戦Battle of Imphalに勝利し、アメリカ軍US Armed Forcesが6月に行われたマリアナ沖海戦Battle of the Philippine Seaに勝利するなど連合軍Allied forcesの勢いがさらに増し、これに対し7月には日本陸軍Imperial Japanese Armyが中華民国軍Republic of China
Armed Forcesとアメリカ軍US Armed Forcesに対して中華民国Republic of China内で行った大陸打通作戦Operation Ichi-Goでかつてない大勝利を収めたが、大勢には変わりなかった。
ヨーロッパEuropeの連合国軍Allied forcesはついにフランスFranceに上陸Landing(ノルマンディー上陸作戦Invasion of
Normandy)。
マーケット・ガーデン作戦Operation Market Gardenなど勝利を重ねオランダNetherlands、ベルギーKingdom of Belgiumなどを解放liberation。
ソ連軍Soviet ArmyもドイツNazi Germanyの東部国境Eastern borderに迫った。
アジアAsia・太平洋Pacific Oceanでは8月のサイパン島陥落Fall of Saipan(サイパンの戦いBattle of Saipan)後、日本本土Japanese mainlandがアメリカ軍US Armed ForcesのB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortress爆撃機Bomberの戦略爆撃Strategic bombingの行動範囲内となり、10月に行われたレイテ沖海戦Battle of Leyte
Gulfで日本海軍Imperial Japanese Navyは大敗北を喫するなど勢いは完全に連合国軍Allied forcesに傾き、冬にはアメリカ軍US Armed ForcesによるフィリピンPhilippinesへの再上陸と小規模ながら日本本土Japanese mainlandへの空襲Airstrikeが始まった。
1945年(昭和20年)に日本軍Imperial Japanese Forcesはフランス領インドシナFrench Indochinaに侵攻し(明号作戦(めいごう・さくせん)Operation Bright
Moon)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。
連合国軍Allied forcesはドイツ本土German mainlandへ侵攻Invasion、東をソ連Soviet Unionに、西をイギリスBritish EmpireとアメリカUSAに追い込まれた総統Führerアドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerは4月30日に自殺suicide、ナチスNazi Party政権Regimeは崩壊しイタリア社会共和国Italian Social
Republicも崩壊、ベニート・ムッソリーニBenito MussoliniもパルチザンPartisanに惨殺された。
5月9日にドイツ国防軍Nazi Germany's Defense Forceは降伏surrenderしヨーロッパ戦争European Warは終結した。
日本Imperial Japanも5月以降連日アメリカ軍US Armed Forcesやイギリス軍British Armed Forcesなどの連合国Allies軍機Military
aircraftの空襲Airstrikeを受けたほか、日本本土Japanese mainland周辺の制海権mastery of the sea、制空権Air superiorityをほぼ失い、さらに友邦ドイツNazi Germany降伏surrender後は一国でソ連Soviet Unionを除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部Military主流派Mainstreamは降伏surrenderすることをよしとせず戦いを続けた。
しかし6月の沖縄戦Battle of Okinawaで初めて日本本土Japanese mainlandを失い、8月に入ると6日に広島市Hiroshima、同9日長崎市Nagasakiに原子爆弾投下Atomic bombingsが行われた。
さらに同8日の中立国Neutral countryのソ連軍Soviet Armyの参戦Participation in the war(ソ連対日参戦Soviet–Japanese War)という事態にようやく同10日からの御前会議Imperial Conferenceで降伏surrenderを決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾Acceptance of Potsdam Declaration。
9月2日に降伏文書に調印Signing of the Japanese Instrument of Surrenderし、約6年間続いた第二次世界大戦World War IIは終結Terminationした。
経過Course
of the war
(欧州Europe・北アフリカNorth Africa・中東Middle East)
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesおよびスロバキア軍Slovak Armyが、続いて9月17日にはソビエト連邦軍Soviet Armyが相次いでポーランドPoland領内within
the territoryに侵攻Invasion(ポーランド侵攻Soviet invasion of Poland)した。
一方、イギリスBritish EmpireとフランスFrench Third
Republicは9月3日、ドイツNazi Germanyに宣戦布告Declaration of warした。
ポーランドPolandはドイツNazi Germany・ソ連Soviet Union両国Both
countriesにより分割Partitions・占領occupationされた。
さらにフィンランドFinlandおよびバルト三国Baltic statesに領土的野心Territorial
ambitionを示したソ連Soviet Unionは、11月30日からフィンランドへ侵攻Invasion of Finlandした(冬戦争Winter War)。
そのため国際連盟League of Nationsから非難Blame・除名Expulsionされたが、1940年(昭和15年)3月にはフィンランドFinlandから領土territoryを割譲cessionさせた。
さらにバルト三国Baltic statesには1940年(昭和15年)6月、40万以上の大軍で侵攻Invasionし、8月にはバルト三国を併合Occupation of the Baltic statesした。
ポーランド分割Partitions of Poland直後から翌年春まで、戦争Warは西ヨーロッパWestern Europeで膠着deadlock状態になったが、1940年(昭和15年)5月10日からドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesは西ヨーロッパWestern Europeへ侵攻Invasionを開始。
同年6月からイタリアFascist Italyが参戦Participation in
the warし、6月14日ドイツ軍Nazi Germany's Armed ForcesはパリParisを占領、フランスFrench Third Republicを降伏surrenderさせた。
さらに同年8月からドイツ空軍Nazi Germany's air
force機aircraftがイギリス本土British mainland空爆Airstrike(英国空中戦Battle of Britain)を開始したが、空中戦Aerial warfareで大損害を被り、9月半ばにドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forcesのイギリス本土British mainland上陸作戦Landing operation(アシカ作戦Operation Sea Lion)は中止された。
その後1941年(昭和16年)6月22日、不可侵条約Molotov–Ribbentrop Pactを破棄abrogationしてドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesはソ連Soviet Unionへ侵攻Invasionし、独ソ戦German-Soviet Warが始まった。
フィンランドFinlandもソ連Soviet Unionに割譲cessionされた領土奪回recapture territoryのため宣戦布告Declaration of warした(継続戦争Continuation War)。
一方、連合国Alliesはソ連Soviet Union側につき、ヨーロッパEuropeはソ連Soviet Unionを加えた連合国Alliesと枢軸国Axis powersに二分する大戦争Great warとなり、死者が増大し凄惨な様相となった。
ドイツ軍Nazi Germany's Armed ForcesはウクライナUkraineを経て同年12月、モスクワMoscowに接近するが、ソ連軍Soviet Armyの反撃で後退する。
(ロストフの戦いBattle of Rostovとモスクワの戦いBattle of Moscow)
1942年(昭和17年)中盤までにドイツ軍Nazi Germany's Armed ForcesはヨーロッパEuropeの大半および北アフリカNorth Africaの一部を占領occupationし、大西洋Atlantic Oceanではドイツ海軍Nazi Germany's Navyの潜水艦Submarine・UボートU-boatが連合国軍Allied forcesの輸送船団convoy of transport
shipsを攻撃し優勢を保っていた。
1943年(昭和18年)2月、スターリングラードStalingradでドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forcesは大敗(スターリングラード攻防戦Battle of
Stalingrad)。
これ以降は連合国Allies側が優勢に転じ、アメリカUSA・イギリスBritish Empireの大型戦略爆撃機Heavy Strategic
Bomberによるドイツ本土German mainland空襲Air-raidも激しくなる。
同年5月には、北アフリカNorth Africaのドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forces・イタリア軍Italian Armed forces両軍が敗北(北アフリカ戦線North African
campaign)。
9月にはイタリアFascist Italyが連合国Alliesに降伏surrenderし、ドイツNazi Germanyの傀儡政権puppet governmentイタリア社会共和国Italian Social
Republic(サロ政権Republic of Salò)が設立され、イタリア半島Italian peninsulaに上陸landingしてきた連合国軍Allied forcesと対峙することになる。
1944年(昭和19年)6月にはフランスFranceのノルマンディーNormandyに連合国軍Allied forcesが上陸landingし(ノルマンディー上陸作戦Invasion of Normandy)、東からはソ連軍Soviet Armyが攻勢を開始、戦線battlefrontは次第に後退し始めた。
1945年(昭和20年)になると連合国軍Allied forcesが東西からドイツ本土German mainlandへ侵攻Invasionし、ドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesは総崩れとなる。
2月のヤルタ会談Yalta ConferenceでアメリカUSA・イギリスBritish Empire・ソ連Soviet Unionの三国は、戦争犯罪人War criminalの処罰、ポーランド東部Eastern Polandのソ連領化Soviet Territorialization、オーデル・ナイセ線Oder–Neisse line以東のドイツ領German territory分割Partitionsなどを決定する。
同年4月30日、ヒトラーAdolf HitlerはベルリンBerlinの地下壕underground vaultで自殺suicide、5月2日にソ連軍Soviet ArmyはベルリンBerlinを占領occupation。
5月8日、ドイツNazi Germanyは連合国Alliesに降伏surrenderした。