ブログ紹介

最新の投稿写真からご覧いただきたいので、画面右側の自己紹介欄の上にある「ホーム」をクリックしてください。閲覧ページの一番下までスクロールした後は(ノートで2、3ページ換算の空白あり)「前の投稿」をクリックして、過去の投稿写真をご覧ください。
または、このブログを検索で、索引(さくいん)indexを検索し、興味のある項目を検索してください。

2021年7月15日木曜日

 2 マレー作戦 Malayan campaign

マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya

東南アジアSoutheast Asia

南方作戦 Southern campaign

1941年(昭和16年)128日に日本陸軍Imperial Japanese ArmyタイThailand国境近くの英領マレー半島British MalayaコタバルKota Bharuと、中立国Neutral countryだったタイThailand南部のパタニPattani KingdomソンクラSongkhlaシンゴラSingola)への陸軍部隊Army troops上陸landingマレー作戦Malayan campaign)と、同128日行われた日本海軍Imperial Japanese NavyによるハワイHawaii真珠湾Pearl Harborアメリカ海軍太平洋艦隊United States Pacific Fleetに対する真珠湾攻撃Attack on Pearl HarborフィリピンPhilippinesへの攻撃開始(フィリピンの戦いBattle of the Philippines19411942年)、イギリス領British territoryである香港Hong Kongへの攻撃開始(香港の戦いBattle of Hong Kong)、1941年(昭和16年)1210日のイギリス海軍Royal Navy東洋艦隊Eastern Fleetに対するマレー沖海戦Naval Battle of Malayaなどの連合国軍Allied forcesに対する戦いBattleで、日本軍Imperial Japanese Forces大勝利overwhelming victoryを収めた。

東南アジアSoutheast Asia

マレー作戦 Malayan campaign

マレー作戦馬来作戦Malayan campaignは、1941年(昭和16年)128日に太平洋戦争Pacific War大東亜戦争Greater East Asia War)で日本軍Imperial Japanese Forcesが実施した南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaign内のイギリス領マレーBritish Malaya方面の作戦。

南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaign陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦

マレー作戦Malayan campaign太平洋戦争Pacific War大東亜戦争Greater East Asia War)において全ての他の作戦operationsに先行して攻撃Attackを開始した。

シンガポール島攻略Battle of Singapore最終目標final goalsにしており、1942年(昭和17年)215日にそれを達成した。

太平洋戦争関連地図

真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor

太平洋戦争Pacific Warにおいて日本海軍Imperial Japanese Navyが、アメリカ合衆国USAハワイ準州Territory of Hawaiiオアフ島Oahu真珠湾Pearl Harborにあったアメリカ海軍US Navy太平洋艦隊Pacific Fleetアメリカ軍基地US military baseに対する奇襲攻撃Surprise attack真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor)が、日本時間Japan time 1941年(昭和16年)128日午前130分(ハワイ時間Hawaii time 127日午前7時)に発進して、日本時間午前319分(ハワイ時間午前749分)から攻撃が開始された。

当時の日本Imperial Japan側呼称は布哇海戦(はわい・かいせん)である。

大東亜戦争Greater East Asia Warにおける南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignの一環として、イギリスBritish Empireに対するマレー作戦Malayan campaignに次いで実施された。

戦闘battleの結果、アメリカ太平洋艦隊US Pacific Fleet戦艦部隊Battleship unitは戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦opening of war初頭にアメリカ軍艦隊US Fleetに大打撃を与えて、側面から南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignを援護するという作戦目的を達成した。

マレー半島Malay Peninsula

マレー作戦 Malayan campaign

海軍Navy真珠湾Pearl Harbor奇襲攻撃Surprise attackする一方

陸軍Armyマレー半島Malay Peninsulaに対して奇襲Surprise attackを行った

マレー半島Malay Peninsula

佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi陸軍少将major general

コタバル上陸作戦 Kota Bharu Landing Operationを指揮。

その第一陣である佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊が、上陸部隊Landing unitを沖合いの輸送船Transport ship淡路山丸(あわじさん・まる)など)から出発させたのは

1941年(昭和16年)128日の午前135分で、

これは真珠湾奇襲Attack on Pearl Harbor2時間前のことであった

つまり太平洋戦争Pacific Warの本当の幕開けは、マレー半島Malay Peninsulaコタバル上陸作戦Kota Bharu Landing Operationであった


淡路山丸(あわじさん・まる)


日本Imperial Japanの狙いは、イギリス領British territoryマレー半島Malay PeninsulaシンガポールSingapore攻略captureシンガポール島攻略Battle of Singapore)および香港Hong Kong攻略capture香港の戦いBattle of Hong Kong)さらにアメリカ領US territoryフィリピンPhilippines攻略captureフィリピンの戦いBattle of the Philippines19411942年))である。

これらの地域を攻略captureした後、オランダ領インド蘭印Dutch East Indies占領occupationして石油資源oil resourcesを確保することにあった。


マレー半島Malay Peninsula


佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊コタバル上陸作戦Kota Bharu Landing Operationは、イギリス軍British Armed Forcesの激しい抵抗にあった。

日本軍Imperial Japanese Forces主力部隊mainforce unitsタイThailandシンゴラSingolaソンクラSongkhla)およびパタニPattaniからマレー半島Malay Peninsulaへの南下advance southwardを狙っておりコタバルKota Bharu飛行場Airfieldを無力化することが重要だった

佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊は敵の抵抗に苦しみながらも、飛行場Airfieldを奪取し、コタバルKota Bharu市街に突入した


山下奉文(やました・ともゆき) Tomoyuki Yamashita

最終階級は陸軍大将Army general

太平洋戦争Pacific Warの劈頭、25Twenty-Fifth Army司令官として英領British territoryマレーMalayシンガポールSingaporeを攻略した武功、「マレーの虎Tiger of Malaya」の異名で知られる。



一方、山下奉文(やました・ともゆき)中将率いる25Twenty-Fifth Army主力部隊mainforce unitsシンゴラSingolaソンクラSongkhla)とパタニPattaniに上陸。

タイ領Thai territoryを通過するための協定交渉の遅れからタイ国軍Thai Armed forcesと小競り合いが起こったがおおむね順調であった。


マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya

マレー沖海戦Naval Battle of Malaya

マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya

太平洋戦争Pacific Warの初期の1941年(昭和16年)1210日にマレー半島Malay Peninsula東方沖で日本海軍Imperial Japanese Navy九六式陸上攻撃機Type 96 land-based attack aircraft一式陸上攻撃機Type 1 land-based attack bomberイギリス海軍Royal Navy東方艦隊Eastern Fleetの間で行われた戦闘Battleである。

日本海軍Imperial Japanese Navy航空隊Air Corpsイギリス東洋艦隊British Eastern Fleet戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse撃沈attack and sunkした。

航行中の戦艦battleship航空機aircraftだけで撃沈attack and sunkした世界初の海戦Naval Battleである。

1941年(昭和16年)6月よりマレー半島Malay Peninsula攻略に向けた訓練を行っていた日本軍Imperial Japanese Forcesによる、太平洋戦争Pacific Warにおける最初の攻撃となった。

日本時間1941年(昭和16年)128日午前130分、25Twenty-Fifth Armyイギリス領マレーBritish Malaya東北端northeastern edgeコタバルKota Bharu)に奇襲上陸Surprise landingした。


イギリス海軍Royal Navy戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse上陸部隊Landing unit撃滅destroy completelyすべくシンガポールSingapore出撃sortieしたが、マレー沖海戦Naval Battle of Malaya日本軍Imperial Japanese Forces航空攻撃Air strikeにより両戦艦Both battleships撃沈attack and sunk

25Twenty-Fifth Armyマレー半島Malay Peninsula西側West sideシンガポールSingaporeを目指して快進撃March forwardを続け、1942年(昭和17年)131日にマレー半島Malay Peninsula最南端Southernmostジョホール・バルJohor Bahru突入plungeした。


ウィンストン・チャーチル首相Prime Minister Winston Churchill

イギリスUnited Kingdomウィンストン・チャーチル首相Prime Minister Winston Churchill著書bookの中でマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでこの2隻を失ったことが第二次世界大戦World War IIでもっとも衝撃shockを受けたことだと記している。

また議会the House of Commonsに対して「イギリス海軍Royal Navy始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した。


戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales

キング・ジョージ5世級戦艦King George V class battleships2番艦Second ship

1941年(昭和16年)1210日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaで、日本海軍Imperial Japanese Navy陸上攻撃機Land-based Attack Aircraft襲撃attackを受けて沈没Sunkした。


巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse

レナウン級巡洋戦艦Renown class battlecruiser2番艦Second ship

東洋艦隊British Eastern Fleetに所属してシンガポールSingaporeに進出後の1941年(昭和16年)1210日、マレー沖海戦Naval Battle of Malaya日本海軍Imperial Japanese Navy陸上攻撃機Land-based Attack Aircraft空襲Air strikeにより、戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesとともに撃沈attack and sunkされた。


九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack Aircraft

九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack Aircraft

九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack Aircraft

1941年(昭和16年)1210日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraft協同In cooperationイギリスBritish Empire戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse撃沈attack and sunkし、戦艦Battleshipに対する航空優位を印象付けた。

なお、「空の神兵(そらの・しんぺい)God soldier of the Sky」として国民に広く知られる事となる日本海軍Imperial Japanese Navy空挺部隊Airborne forcesを運搬したのも、九六式陸上攻撃機Type 96 Land-based Attack Aircraft輸送機Military transport aircraft版である九六式陸上輸送機Type 96 Land-based transport aircraftである。


一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft

一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft

一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft

一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft

一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft

1941年(昭和16年)1210日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、九六式陸上攻撃機Type 96 Land-based Attack Aircraft協同In cooperationして、イギリス海軍Royal Navy戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse撃沈attack and sunkするなど、太平洋戦争Pacific War初期early years活躍flourishした。


駆逐艦エクスプレス Destroyer Express

イギリス海軍Royal Navy E級駆逐艦E-class destroyer

1941年(昭和16年)1210日、マレー沖海戦Naval Battle of Malaya日本海軍Imperial Japanese Navy陸上攻撃機Land-based Attack Aircraft空襲Air strikeにより、戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse撃沈attack and sunkされた。

駆逐艦エクスプレスDestroyer Express戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electra駆逐艦ヴァンパイアDestroyer Vampire巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse生存者Survivorsを救い出すために動いた。

1943年(昭和18年)63日にカナダ海軍Royal Canadian Navyに譲渡され、艦名ship nameガティノーDestroyer Gatineauに改名。


駆逐艦エレクトラ Destroyer Electra

イギリス海軍Royal Navy E級駆逐艦E-class destroyer

駆逐艦エクスプレスDestroyer Express戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electra駆逐艦ヴァンパイア巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse生存者Survivorsを救い出すために動いた。

1942年(昭和17年)227日、スラバヤ沖海戦Battle of Surabaya in open seaにて日本海軍Imperial Japanese Navy駆逐艦朝雲(あさぐも)Destroyer Asagumo駆逐艦峯雲(みねぐも)Destroyer Minegumoとの砲撃戦Bombardment Battleにより撃沈attack and sunk


駆逐艦ヴァンパイア Destroyer Vampire

イギリス海軍Royal Navy オーストラリア海軍Royal Australian Navy

アドミラルティV級駆逐艦Admiralty V-class destroyer

駆逐艦エクスプレスDestroyer Express戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electra駆逐艦ヴァンパイア巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse生存者Survivorsを救い出すために動いた。

1942年(昭和17年)49日、駆逐艦ヴァンパイアDestroyer Vampireセイロン島CeylonバッティカロアBatticaloa沖をイギリスBritish Empire小型空母ハーミーズLight aircraft carrier Hermesと航行中に日本軍Imperial Japanese Forces機動部隊Mobile Unit/Force艦載機Carrier-based aircraftによる爆撃Air strikeを受けて撃沈attack and sunkされた。


戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

金剛型戦艦Kongo-class battleship 1番艦lead ship

イギリスUKイングランドEnglandバロー=イン=ファーネスBarrow-in-Furness造船所Shipyardの、ヴィッカース社Vickers Shipbuilding Company建造Construction

イギリスBritish Empireに発注された最後last主力艦Capital shipである。

2度の改装two major reconstructions後は高速戦艦Fast battleshipとして、太平洋戦争Pacific Warでも活躍flourishした。

なお金剛(こんごう)は、日本海軍Imperial Japanese Navy太平洋戦争Pacific Warで使用した唯一の外国製constructed outside Japan日本戦艦Japanese battleshipでもあった。

金剛型戦艦Kongo-class battleship

1番艦First ship戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo

2番艦Second ship戦艦比叡(ひえい) Battleship Hiei

3番艦Third ship戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

4番艦Fourth ship戦艦霧島(きりしま) Battleship Kirishima


米海軍US Navy潜水艦シーライオンSubmarine Sealion


艦歴Ship history

1941年(昭和16年)1210日 マレー沖海戦Naval Battle of Malaya

1942年(昭和17年)111日 蘭印作戦Dutch East Indies campaign

1942年(昭和17年)45日~9日 セイロン沖海戦Indian Ocean raid

1942年(昭和17年)65日~7日 ミッドウェー海戦Battle of Midway

1942年(昭和17年)87日 ガダルカナル島の戦いBattle of Guadalcanal

1943年(昭和18年)21日~7

ガダルカナル島撤収作戦Withdrawal Operation from Guadalcanal

1944年(昭和19年)619日~20

マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea

1944年(昭和19年)1023日~25日 レイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf

1944年(昭和19年)1025日のサマール沖海戦Battle off Samar後に、金剛(こんごう)Battleship Kongoは、日本本土Japanese mainlandへの帰還Returnが決定した。

1944年(昭和19年)1121日午前3時ごろ、金剛(こんごう)は米海軍US Navy潜水艦シーライオンSubmarine Sealion魚雷攻撃torpedoedを受け沈没sunkした。


戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna

金剛型戦艦Kongo-class battleship 3番艦Third ship

1941年(昭和16年)124日、馬公(まこう)(台湾)を拠点に出撃し、陸軍Imperial Japanese Army馬来(マライ)上陸作戦支援を皮切りに、比島(フィリピン)上陸作戦蘭印攻略作戦Dutch East Indies campaignなどを支援した。


九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane

複座複葉水上偵察機Two-Seat Biplane reconnaissance seaplane

1935年(昭和10年)(皇紀2595年)制式採用


重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers 2番艦Second ship

 

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers

1番艦Lead ship重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao

2番艦Second ship重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago

3番艦Third ship重巡洋艦摩耶(まや) Heavy cruiser Maya

4番艦Fourth ship重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai


潜水艦ダーター Submarine Darter


太平洋戦争Pacific Warにおける重巡洋艦愛宕(あたご)Heavy cruiser Atagoは、南方作戦Southern campaign蘭印作戦Dutch East Indies campaignミッドウェー海戦Battle of Midway(攻略部隊)、南太平洋海戦Battle of the South Pacific(前進部隊)、第三次ソロモン海戦Third Battle of the Solomon Seaブーゲンビル島の戦いBattle of Bougainville Islanラバウル空襲Bombing of Rabaul)、マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Seaレイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf等に参加。

1944年(昭和19年)1023日にアメリカUSA潜水艦ダーターSubmarine Darter雷撃torpedo attack沈没Sunkするまで、ほぼ一貫して第二艦隊Second Fleet旗艦flagshipの座にあり、金剛型戦艦Kongo-class battleship長門型戦艦Nagato-class battleships大和型戦艦Yamato-class battleship等を指揮下に置いた。

太平洋戦争Pacific Warにおいて重巡洋艦愛宕(あたご)Heavy cruiser Atagoに将旗を掲げた第二艦隊Second Fleet司令長官Commander-in-Chiefは、大戦前半は近藤信竹(こんどう・のぶたけ)中将、後半は栗田健男(くりた・たけお)中将だった。


重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao

重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers 1番艦Lead ship


重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai

重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai

高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers4番艦Fourth ship


零式水上偵察機 Type Zero Reconnaissance Seaplane

三座単葉水上偵察機Three-Seat Monoplane reconnaissance seaplane

1940年(昭和15年)(皇紀2600年)制式採用


零式水上観測機 Type Zero Observation Seaplane

複座複葉水上観測機Two-Seat Biplane Observation Seaplane

太平洋戦争Pacific Warでは、本来の任務である戦艦Battleship着弾観測Artillery observer活躍flourishする余地がなかったため、ほぼ水上偵察機Reconnaissance Seaplaneとして使用されていた。

しかし、零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)は複葉機Biplaneながら補助翼の一部を除き全金属製の近代的な機体で、無類の安定性と高い格闘性能を持っており、二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterよりも軽快だったという。

特設水上機母艦Seaplane tender神川丸(かみかわまる)」や「國川丸(くにかわまる)」にも配備され、アリューシャンAleutian Islands方面やソロモンSolomon Islands方面ショートランドShortland Islandsなどに展開。


船団護衛(せんだん・ごえい)Convoy escort対潜哨戒(たいせん・しょうかい)Maritime patrol、敵施設の爆撃bombing、さらにはその卓越した空戦Aerial warfare性能を生かしての離島の基地Remote island baseにおける防空Air defenseなど、時として二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterと肩を並べ、様々な任務で幅広く活躍flourishした。

その他、バリクパパンBalikpapan方面やアンボンAmbon方面にも進出している。



太平洋戦争Pacific Warの中期までは戦闘機Fighter aircraftの代わりとしてUS戦闘機Fighter爆撃機Bomber空中戦Aerial warfareを行うこともしばしばあり、複座複葉Two-Seat Biplane水上観測機Observation Seaplaneながら敢闘、零戦Zero fighter隊と協力してのP-38ライトニングLockheed P-38 Lightningの撃墜報告や、P-39エアラコブラBell P-39 AiracobraF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatの撃墜報告などを行っている。

駆逐艦Destroyerによるガダルカナル島Guadalcanalへの強行輸送作戦「鼠輸送(ねずみ・ゆそう)Tokyo Express」従事中、たびたび零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)の援護を受けた田中頼三(たなか・らいぞう)第二水雷戦隊司令官は、零式水上観測機隊の掩護に感謝の言葉を述べている。



速度Speed性能と武装Armamentで決定的に不利となった1945年(昭和20年)216日ですら、アメリカ本土Mainland america空襲Air-raidで有名な藤田信雄(ふじた・のぶお)少尉が操縦する鹿島空の零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)が本土Japanese mainland来襲invasionしたF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcat迎撃Interceptionし、格闘Dogfight性能を活かして1機を未確認撃墜Shoot downするという戦果military achievementsを上げた。

1943年(昭和18年)以降は船団Convoy護衛escort対潜哨戒Maritime patrolが主務となり、第一線the forefrontからは退いたが終戦End-of-warまで活動を続け、一部の零式水上観測機特攻機Special Attack aircraftとして沖縄戦Battle of Okinawaで使用された。


駆逐艦野分(のわき) Destroyer Nowaki

日本海軍Imperial Japanese Navy

陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyers15番艦15th ship


駆逐艦嵐(あらし) Destroyer Arashi

日本海軍Imperial Japanese Navy

陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyers16番艦16th ship


駆逐艦萩風(はぎかぜ) Destroyer Hagikaze

日本海軍Imperial Japanese Navy

陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyers17番艦17th ship


駆逐艦舞風(まいかぜ) Destroyer Maikaze

日本海軍Imperial Japanese Navy

陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyers18番艦18th ship


駆逐艦暁(あかつき) Destroyer Akatsuki

日本海軍Imperial Japanese Navy

吹雪型駆逐艦(ふぶきがた)Fubuki-class destroyer21番艦21st ship


駆逐艦響(ひびき) Destroyer Hibiki

日本海軍Imperial Japanese Navy

吹雪型駆逐艦(ふぶきがた)Fubuki-class destroyer22番艦22nd ship


駆逐艦朝潮(あさしお) Destroyer Asashio

駆逐艦朝潮(あさしお) Destroyer Asashio

日本海軍Imperial Japanese Navy

朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers1番艦Lead ship


駆逐艦大潮(おおしお) Destroyer Oshio

日本海軍Imperial Japanese Navy

朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers2番艦Second ship


駆逐艦満潮(みちしお) Destroyer Michishio

日本海軍Imperial Japanese Navy

朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers 3番艦Third ship


駆逐艦荒潮(あらしお) Destroyer Arashio

日本海軍Imperial Japanese Navy

朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers 4番艦Fourth ship



マレー半島Malay Peninsulaの戦い(マレー作戦Malayan campaign)は、時間との戦いでもあった。

マレー半島Malay Peninsulaには大小無数の河があり、これらにかかる橋を落されたら、迅速な前進は望めない。

 

したがって、どれだけ素早く前進できるかが重要であった。

 

シンゴラSingolaソンクラSongkhla)に上陸landingした、佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki中佐Lieutenant Colonel率いる、第5師団の捜索第5連隊は、

部隊の先頭で突き進む役割を担い、ほとんど不眠不休で進撃していた。


辻政信(つじ・まさのぶ) Masanobu Tsuji

佐伯静夫(さえき・しずお) Shizuo Saeki


佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki支隊の目指す先は、ジットラ・ラインJitra line

イギリス軍British Armed Forcesが「東洋Orientalマジノ線Maginot Line」と呼んだ、強固な陣地encampment position帯である。

 

イギリス軍British Armed Forcesは、このジットラ・ラインJitra lineで、2~3か月は持ちこたえられるものと、想定していた。


1941年(昭和16年)1210日夜半

 

ジットラ・ラインJitra lineに、わずか600人に満たない佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki支隊が、攻撃を開始した。

 

夜の闇に紛れて猛攻を開始した佐伯(さえき)支隊イギリス軍British Armed Forcesは混乱。

 

日本軍Imperial Japanese Forcesが早くも攻撃してきたと勘違いした。



また、ここを守備していたのは、イギリス軍イギリス軍British Armed Forcesとはいっても、インド植民地軍Indian colonial armyで、兵士Soldierの大半はインド人Indianだった。

 

それゆえ士気もあまり高くない。

 

退却retreatしたり降伏SurrenderしたりするSoldierが続出し、結局、翌日には、ジットラ・ラインJitra lineを突破。

 

さらにその背後にあったアロースターAlor Star占領occupationした。



アロースターAlor Starには大飛行場Large airfieldがあり、ここも早期に入手しておきたい要地key areaであった。

 

こうしてマレー半島Malay Peninsula東海岸East Coast上陸landingした日本軍Imperial Japanese Forces主力部隊mainforce unitsは、あっという間に西海岸West coastに到達し、さらに南下advance southwardを開始した。

 

銀輪部隊(ぎんりん・ぶたい)は、太平洋戦争Pacific War大東亜戦争Greater East Asia War時に主に南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignで運用された自転車部隊(じてんしゃ・ぶたい)Bicycle infantryの日本国内における通称・愛称である。



年が明けて1942年(昭和17年)1月…

進撃を続ける日本軍Imperial Japanese Forcesだったが、首都・クワラルンプールKuala Lumpurに近づくにつれ、イギリス軍British Armed Forcesの抵抗も激しくなっていた。

 

西海岸West coast方面は山と海に挟まれ、迂回機動の余地もあまりない。

 

強引に前進を続けるしかなく、歩兵部隊infantry corpsはスリムで停滞してしまう。



そこへ島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimada少佐Majorに率いられた戦車隊Tank corpsが到着した。

 

島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimadaは立ち往生している、歩兵第42連隊長・安藤忠雄(あんどう・ただお)Tadao Ando大佐Colonelに、戦車Tankでの夜襲Night attackを提案する。

 

島田(しまだ)戦車隊Tank corpsは、歩兵infantry工兵military engineerを伴って、夜中に出撃した。


島田豊作(しまだ・とよさく) Toyosaku Shimada

安藤忠雄(あんどう・ただお) Tadao Ando


九五式軽戦車 Type 95 light tank

九五式軽戦車 Type 95 light tank

九七式中戦車 Type 97 medium tank

九七式中戦車 Type 97 medium tank



突然現れた戦車tankに、イギリス軍British Armed Forces兵士Soldierは、思うように応戦できない。

 

島田(しまだ)戦車隊Tank corpsは、一気に敵陣を突破すると、反転して蹂躙(じゅうりん)。

 

こうして激戦地のスリム陣地を突破した。

 

島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimada少佐Major九七式中戦車 Type 97 medium tank九五式軽戦車 Type 95 light tankが中核となった夜間突撃Night attackを敢行し、これにより1日で全縦深Deep battleを突破し、逃げ遅れた英印軍British Indian Army 1個師団を包囲し壊滅させた。



1942年(昭和17年)111日、日本軍Imperial Japanese Forcesは、首都・クアラルンプールKuala Lumpurに突入。


アーサー・パーシバル Arthur Percival


イギリス軍British Armed Forces司令官Commanderパーシバル Arthur Percival中将Lieutenant Generalは、大慌てで逃げ出し、シンガポールSingaporeへと移った。

 

あちこちで退却retreatを重ねたイギリス軍British Armed Forcesの中にあって、オーストラリア軍Australian Armed forcesのみは頑強に抵抗。



1942年(昭和17年)114日~20日にかけて、ゲマスGemasオーストラリア軍Australian Armed forces8師団と日本軍Imperial Japanese Forces5師団が激しくぶつかった。

 

ゲマスGemasクアラルンプールKuala Lumpurから、南東Southeast250kmほどの地点にあり、

ここを突破すれば、マレー半島Malay Peninsula先端のジョホール・バルJohor Bahruまではすぐである。

 

そのためオーストラリア軍Australian Armed forcesは必死で防戦したが、

勢いに乗る日本軍Imperial Japanese Forcesには敵(かな)わなかった。

 

1942年(昭和17年)131日、日本軍Imperial Japanese Forcesジョホール・バルJohor Bahru占領occupation

イギリス軍British Armed ForcesシンガポールSingaporeに押し込められることになった。



シンガポールSingaporeへの上陸作戦Landing operationは、1942年(昭和17年)29日より開始された。

 

対岸opposite shoreにずらっと並べられた野砲Field gunで激しく砲撃Bombardmentを行い、航空部隊air corps爆撃bombingを実施。

 

シンガポール島Singapore Islandをめぐる攻防Offense and defense激戦Fierce battleとなった。


ブキッ・ティマ高地 Bukit Timah Hill



とくにブキッ・ティマ高地 Bukit Timah Hillをめぐる戦いは熾烈を極めた。

 

ここは島内の数少ない水源を確保しておくため、イギリス軍British Armed Forcesとしては、落とせない場所であった。

 

一方、日本軍Imperial Japanese Forces大砲Cannon砲弾Cannonballが残り少なくなり、白兵突撃close combatをかけて、強引に奪おうとする。

連日、激しい肉弾戦hand-to hand combatが繰り広げられた。



しかしあと一歩のところで、シンガポール市街Singapore cityには突入できない。

 

そして、いよいよ砲弾Cannonballが尽きた。

 

そこへ



アーサー・パーシバル Arthur Percival


イギリス軍British Armed Forces司令官Commanderパーシバル Arthur Percivalからの降伏Surrenderの申し入れだった。

 

イギリス軍British Armed Forcesも水や食糧が底を突いていたのだ。

まさに間一髪close callタイミングTimingであった。

 

1942年(昭和17年)210日、英軍British Armed Forcesの抵抗はシンガポール市街Singapore cityの周辺でにわかに強化され、日本軍Imperial Japanese Forces弾薬ammunitionは欠乏したが、215日午後、英軍British Armed Forces降伏Surrenderした。

英軍British Armed Forces司令官Commanderパーシバル Arthur Percival中将Lieutenant General降伏Surrenderの原因は断水Water outageにあると語っている。

214日に砲撃Bombardment空襲Air raidで送水管、水道管が破裂し、215日給水状況は逼迫し、専門家が今後一昼夜の給水water supplyしかできないと判断したという。


山下奉文(やました・ともゆき) Tomoyuki Yamashita

最終階級は陸軍大将Army general

太平洋戦争Pacific Warの劈頭、25Twenty-Fifth Army司令官として英領British territoryマレーMalayシンガポールSingaporeを攻略した武功、「マレーの虎Tiger of Malaya」の異名で知られる。



こうして、1942年(昭和17年)215日、イギリス軍British Armed Forcesは、無条件降伏Unconditional surrenderして、マレー攻略戦Malayan campaignは幕を閉じた。


シンガポールの戦い Battle of Singapore

25Twenty-Fifth Army1942年(昭和17年)28日にジョホール海峡Straits of Johor渡河Crossingシンガポール島Singapore Island上陸Landingした。

211日にはブキッ・ティマBukit Timah高地に突入するが、イギリス軍British Armed Forces砲火gunfireを受け動けなくなった。

215日、攻撃中止cease-fireもやむなしと考えられていたとき、イギリス軍British Armed Forces降伏Surrenderの使者が到着した。

水源が破壊され給水が停止したことが抗戦resistanceを断念した理由であった。

イギリス軍British Armed Forces10万人が捕虜prisonerとなった。


マレー作戦の推移


エンドウ沖海戦 Battle off Endau

エンドウ沖海戦Battle off Endauとは、太平洋戦争Pacific War中の1942年(昭和17年)127日にマレー半島Malay Peninsula南部エンドウ沖off Endauで生起した海戦Naval battle

連合国軍Allied forces駆逐艦Destroyer駆逐艦サネットDestroyer Thanet)一隻を失い、日本船団攻撃の目的も達成できなかった。


駆逐艦サネットDestroyer Thanet イギリス海軍Royal Navy駆逐艦Destroyer


百式司令部偵察機 Type 100 Command Reconnaissance Aircraft 陸軍Army

百式司令部偵察機 Type 100 Command Reconnaissance Aircraft 陸軍Army

百式司令部偵察機 Type 100 Command Reconnaissance Aircraft 陸軍Army

1942年(昭和17年)28日からの、マレー作戦Malayan campaignに参加。


一式戦闘機 I Type 1 Fighter Hayabusa Model 1

一式戦闘機 I Type 1 Fighter Hayabusa Model 1

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。


加藤隼戦闘隊 Colonel Kato's Falcon Squadron

加藤建夫(かとう・たてお)陸軍中佐 Army Lieutenant colonel Tateo Kato


大空のちかい 九里一平(くり・いっぺい) 1962年(昭和37年)


ホーカー・ハリケーン Hawker Hurricane

イギリス空軍Royal Air Force

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。


F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo アメリカ海軍US Navy

F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo アメリカ海軍US Navy

F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo

アメリカ海軍US Navy

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。


ロッキード・ハドソン Lockheed Hudson

米陸軍航空軍US Army Air Forces

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。


エンプレス・オブ・エイジア Empress of Asia

イギリスBritish Empire軍隊輸送船Troopship

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeで、日本陸軍機Imperial Japanese Armyによる攻撃を受けて撃沈attack and sinkされる。


ブリストル・ブレニム Bristol Blenheim

イギリス空軍Royal Air Force

1942年(昭和17年)28日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。




































































































スクール・オブ・ロック School of Rock (ロックの学校) 第 1 章 社会への奉仕  Chapter 1   Serving Society   スクール・オブ・ロック School of Rock (ロックの 学校 ( がっこう ) ) 20...