2節 マレー作戦 Malayan campaign
マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya
東南アジアSoutheast Asia
南方作戦 Southern campaign
1941年(昭和16年)12月8日に日本陸軍Imperial Japanese ArmyがタイThailand国境近くの英領マレー半島British MalayaのコタバルKota Bharuと、中立国Neutral countryだったタイThailand南部のパタニPattani KingdomとソンクラSongkhla(シンゴラSingola)への陸軍部隊Army troopsの上陸landing(マレー作戦Malayan campaign)と、同12月8日行われた日本海軍Imperial Japanese NavyによるハワイHawaii・真珠湾Pearl Harborのアメリカ海軍太平洋艦隊United States
Pacific Fleetに対する真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor、フィリピンPhilippinesへの攻撃開始(フィリピンの戦いBattle of the
Philippines(1941~1942年)、イギリス領British territoryである香港Hong Kongへの攻撃開始(香港の戦いBattle of Hong Kong)、1941年(昭和16年)12月10日のイギリス海軍Royal Navy東洋艦隊Eastern Fleetに対するマレー沖海戦Naval Battle of Malayaなどの連合国軍Allied forcesに対する戦いBattleで、日本軍Imperial Japanese Forcesは大勝利overwhelming victoryを収めた。
東南アジアSoutheast Asia
マレー作戦 Malayan campaign
マレー作戦(馬来作戦)Malayan campaignは、1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)で日本軍Imperial Japanese Forcesが実施した南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaign内のイギリス領マレーBritish Malaya方面の作戦。
南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaign陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦。
マレー作戦Malayan campaignは太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia War)において全ての他の作戦operationsに先行して攻撃Attackを開始した。
シンガポール島攻略Battle of Singaporeを最終目標final goalsにしており、1942年(昭和17年)2月15日にそれを達成した。
太平洋戦争関連地図
真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor
太平洋戦争Pacific Warにおいて日本海軍Imperial Japanese
Navyが、アメリカ合衆国USAのハワイ準州Territory of Hawaiiオアフ島Oahu真珠湾Pearl
Harborにあったアメリカ海軍US Navyの太平洋艦隊Pacific Fleetとアメリカ軍基地US military baseに対する奇襲攻撃Surprise attack(真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harbor)が、日本時間Japan time 1941年(昭和16年)12月8日午前1時30分(ハワイ時間Hawaii time 12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
当時の日本Imperial Japan側呼称は布哇海戦(はわい・かいせん)である。
大東亜戦争Greater East Asia Warにおける南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignの一環として、イギリスBritish Empireに対するマレー作戦Malayan campaignに次いで実施された。
戦闘battleの結果、アメリカ太平洋艦隊US Pacific Fleetの戦艦部隊Battleship unitは戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦opening
of war初頭にアメリカ軍艦隊US Fleetに大打撃を与えて、側面から南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignを援護するという作戦目的を達成した。
マレー作戦 Malayan campaign
海軍Navyが真珠湾Pearl Harborを奇襲攻撃Surprise attackする一方…
陸軍Armyはマレー半島Malay Peninsulaに対して奇襲Surprise attackを行った…
マレー半島Malay Peninsula
佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi陸軍少将major
general
コタバル上陸作戦 Kota Bharu Landing Operationを指揮。
その第一陣である佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊が、上陸部隊Landing unitを沖合いの輸送船Transport ship(淡路山丸(あわじさん・まる)など)から出発させたのは…
1941年(昭和16年)12月8日の午前1時35分で、
これは真珠湾奇襲Attack on Pearl Harborの2時間前のことであった…
つまり太平洋戦争Pacific Warの本当の幕開けは、マレー半島Malay Peninsulaのコタバル上陸作戦Kota Bharu Landing Operationであった…
淡路山丸(あわじさん・まる)
日本Imperial Japanの狙いは、イギリス領British territoryのマレー半島Malay PeninsulaとシンガポールSingaporeの攻略capture(シンガポール島攻略Battle of Singapore)および香港Hong Kongの攻略capture(香港の戦いBattle of Hong Kong)さらにアメリカ領US territoryのフィリピンPhilippinesの攻略capture(フィリピンの戦いBattle of the Philippines(1941~1942年))である。
これらの地域を攻略captureした後、オランダ領インド(蘭印)Dutch East Indiesを占領occupationして石油資源oil resourcesを確保することにあった。
マレー半島Malay Peninsula
佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊のコタバル上陸作戦Kota Bharu Landing
Operationは、イギリス軍British Armed Forcesの激しい抵抗にあった。
日本軍Imperial Japanese Forcesの主力部隊main‐force unitsはタイThailandのシンゴラSingola(ソンクラSongkhla)およびパタニPattaniからマレー半島Malay Peninsulaへの南下advance southwardを狙っておりコタバルKota Bharuの飛行場Airfieldを無力化することが重要だった
佗美浩(たくみ・ひろし) Hiroshi Takumi支隊は敵の抵抗に苦しみながらも、飛行場Airfieldを奪取し、コタバルKota Bharu市街に突入した
山下奉文(やました・ともゆき) Tomoyuki Yamashita
最終階級は陸軍大将Army general。
太平洋戦争Pacific Warの劈頭、第25軍Twenty-Fifth
Army司令官として英領British territoryマレーMalayとシンガポールSingaporeを攻略した武功、「マレーの虎Tiger of Malaya」の異名で知られる。
一方、山下奉文(やました・ともゆき)中将率いる第25軍Twenty-Fifth Armyの主力部隊main‐force unitsはシンゴラSingola(ソンクラSongkhla)とパタニPattaniに上陸。
タイ領内Thai territoryを通過するための協定交渉の遅れからタイ国軍Thai Armed forcesと小競り合いが起こったがおおむね順調であった。
マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya
マレー沖海戦Naval Battle of Malaya
マレー沖海戦 Naval Battle of Malaya
太平洋戦争Pacific Warの初期の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島Malay Peninsula東方沖で日本海軍Imperial Japanese
Navyの九六式陸上攻撃機Type 96 land-based attack aircraft・一式陸上攻撃機Type 1 land-based attack bomberとイギリス海軍Royal Navyの東方艦隊Eastern Fleetの間で行われた戦闘Battleである。
日本海軍Imperial Japanese Navy航空隊Air Corpsがイギリス東洋艦隊British Eastern Fleetの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince
of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseを撃沈attack and sunkした。
航行中の戦艦battleshipを航空機aircraftだけで撃沈attack and sunkした世界初の海戦Naval Battleである。
1941年(昭和16年)6月よりマレー半島Malay Peninsula攻略に向けた訓練を行っていた日本軍Imperial Japanese Forcesによる、太平洋戦争Pacific Warにおける最初の攻撃となった。
日本時間1941年(昭和16年)12月8日午前1時30分、第25軍Twenty-Fifth Armyはイギリス領マレーBritish Malayaの東北端northeastern edge(コタバルKota Bharu)に奇襲上陸Surprise landingした。
イギリス海軍Royal Navyの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince
of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseは上陸部隊Landing unitを撃滅destroy completelyすべくシンガポールSingaporeを出撃sortieしたが、マレー沖海戦Naval Battle of Malayaで日本軍Imperial Japanese Forcesは航空攻撃Air strikeにより両戦艦Both battleshipsを撃沈attack and sunk。
第25軍Twenty-Fifth Armyはマレー半島Malay Peninsula西側West sideをシンガポールSingaporeを目指して快進撃March forwardを続け、1942年(昭和17年)1月31日にマレー半島Malay Peninsula最南端Southernmostのジョホール・バルJohor Bahruに突入plungeした。
ウィンストン・チャーチル首相Prime Minister Winston Churchill
イギリスUnited Kingdomのウィンストン・チャーチル首相Prime Minister Winston Churchillは著書bookの中でマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでこの2隻を失ったことが第二次世界大戦World War IIでもっとも衝撃shockを受けたことだと記している。
また議会the House of Commonsに対して「イギリス海軍Royal Navy始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Wales
キング・ジョージ5世級戦艦King George V class
battleshipsの2番艦Second ship
1941年(昭和16年)12月10日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaで、日本海軍Imperial Japanese
Navy陸上攻撃機Land-based Attack Aircraftの襲撃attackを受けて沈没Sunkした。
巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulse
レナウン級巡洋戦艦Renown class battlecruiserの2番艦Second ship
東洋艦隊British Eastern Fleetに所属してシンガポールSingaporeに進出後の1941年(昭和16年)12月10日、マレー沖海戦Naval Battle of Malayaで日本海軍Imperial Japanese
Navyの陸上攻撃機Land-based Attack Aircraftの空襲Air strikeにより、戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesとともに撃沈attack and sunkされた。
九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack
Aircraft
九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based
Attack Aircraft
九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based
Attack Aircraft
1941年(昭和16年)12月10日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、一式陸上攻撃機Type 1 Land-based
Attack Aircraftと協同In cooperationでイギリスBritish Empireの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseを撃沈attack and sunkし、戦艦Battleshipに対する航空優位を印象付けた。
なお、「空の神兵(そらの・しんぺい)God soldier of the Sky」として国民に広く知られる事となる日本海軍Imperial Japanese Navy空挺部隊Airborne forcesを運搬したのも、九六式陸上攻撃機Type 96 Land-based Attack Aircraftの輸送機Military transport aircraft版である九六式陸上輸送機Type 96 Land-based
transport aircraftである。
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
1941年(昭和16年)12月10日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、九六式陸上攻撃機Type 96 Land-based
Attack Aircraftと協同In cooperationして、イギリス海軍Royal Navyの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseを撃沈attack and sunkするなど、太平洋戦争Pacific War初期early
yearsに活躍flourishした。
駆逐艦エクスプレス Destroyer Express
イギリス海軍Royal Navy E級駆逐艦E-class
destroyer
1941年(昭和16年)12月10日、マレー沖海戦Naval Battle of Malayaで日本海軍Imperial Japanese
Navyの陸上攻撃機Land-based Attack Aircraftの空襲Air strikeにより、戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseが撃沈attack and sunkされた。
駆逐艦エクスプレスDestroyer Expressが戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince
of Walesの生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electraと駆逐艦ヴァンパイアDestroyer Vampireは巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseの生存者Survivorsを救い出すために動いた。
1943年(昭和18年)6月3日にカナダ海軍Royal Canadian Navyに譲渡され、艦名ship nameをガティノーDestroyer Gatineauに改名。
駆逐艦エレクトラ Destroyer Electra
イギリス海軍Royal Navy E級駆逐艦E-class
destroyer
駆逐艦エクスプレスDestroyer Expressが戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince
of Walesの生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electraと駆逐艦ヴァンパイアは巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseの生存者Survivorsを救い出すために動いた。
1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ沖海戦Battle of Surabaya in open seaにて日本海軍Imperial Japanese Navyの駆逐艦朝雲(あさぐも)Destroyer Asagumoと駆逐艦峯雲(みねぐも)Destroyer Minegumoとの砲撃戦Bombardment Battleにより撃沈attack and sunk。
駆逐艦ヴァンパイア Destroyer Vampire
イギリス海軍Royal Navy オーストラリア海軍Royal Australian Navy
アドミラルティV級駆逐艦Admiralty V-class
destroyer
駆逐艦エクスプレスDestroyer Expressが戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince
of Walesの生存者Survivorsを救う一方、駆逐艦エレクトラDestroyer Electraと駆逐艦ヴァンパイアは巡洋戦艦レパルスBattlecruiser
Repulseの生存者Survivorsを救い出すために動いた。
1942年(昭和17年)4月9日、駆逐艦ヴァンパイアDestroyer Vampireはセイロン島CeylonバッティカロアBatticaloa沖をイギリスBritish Empireの小型空母ハーミーズLight aircraft carrier Hermesと航行中に日本軍Imperial Japanese Forces機動部隊Mobile
Unit/Forceの艦載機Carrier-based aircraftによる爆撃Air strikeを受けて撃沈attack and sunkされた。
戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo
戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo
金剛型戦艦Kongo-class battleship 1番艦lead
ship
イギリスUK・イングランドEnglandのバロー=イン=ファーネスBarrow-in-Furness造船所Shipyardの、ヴィッカース社Vickers Shipbuilding Companyで建造Construction。
イギリスBritish Empireに発注された最後lastの主力艦Capital shipである。
2度の改装two major reconstructions後は高速戦艦Fast battleshipとして、太平洋戦争Pacific Warでも活躍flourishした。
なお金剛(こんごう)は、日本海軍Imperial Japanese Navyが太平洋戦争Pacific Warで使用した唯一の外国製constructed outside Japan日本戦艦Japanese battleshipでもあった。
金剛型戦艦Kongo-class battleship
1番艦First ship戦艦金剛(こんごう) Battleship Kongo
2番艦Second ship戦艦比叡(ひえい) Battleship Hiei
3番艦Third ship戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna
4番艦Fourth ship戦艦霧島(きりしま) Battleship Kirishima
米海軍US Navyの潜水艦シーライオンSubmarine Sealion
艦歴Ship
history
1941年(昭和16年)12月10日 マレー沖海戦Naval Battle of Malaya
1942年(昭和17年)1月11日 蘭印作戦Dutch East Indies campaign
1942年(昭和17年)4月5日~9日 セイロン沖海戦Indian Ocean raid
1942年(昭和17年)6月5日~7日 ミッドウェー海戦Battle of Midway
1942年(昭和17年)8月7日 ガダルカナル島の戦いBattle of Guadalcanal
1943年(昭和18年)2月1日~7日
ガダルカナル島撤収作戦Withdrawal Operation from Guadalcanal
1944年(昭和19年)6月19日~20日
マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea
1944年(昭和19年)10月23日~25日 レイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf
1944年(昭和19年)10月25日のサマール沖海戦Battle off Samar後に、金剛(こんごう)Battleship Kongoは、日本本土Japanese mainlandへの帰還Returnが決定した。
1944年(昭和19年)11月21日午前3時ごろ、金剛(こんごう)は米海軍US Navyの潜水艦シーライオンSubmarine Sealionの魚雷攻撃torpedoedを受け沈没sunkした。
戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna
戦艦榛名(はるな) Battleship Haruna
金剛型戦艦Kongo-class battleship 3番艦Third
ship
1941年(昭和16年)12月4日、馬公(まこう)(台湾)を拠点に出撃し、陸軍Imperial Japanese
Armyの馬来(マライ)上陸作戦支援を皮切りに、比島(フィリピン)上陸作戦・蘭印攻略作戦Dutch East Indies campaignなどを支援した。
九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane
複座複葉水上偵察機Two-Seat Biplane reconnaissance seaplane
1935年(昭和10年)(皇紀2595年)制式採用
重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago
重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago
重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago
高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers 2番艦Second ship
高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers
1番艦Lead ship重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao
2番艦Second ship重巡洋艦愛宕(あたご) Heavy cruiser Atago
3番艦Third ship重巡洋艦摩耶(まや) Heavy cruiser Maya
4番艦Fourth ship重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai
潜水艦ダーター Submarine Darter
太平洋戦争Pacific Warにおける重巡洋艦愛宕(あたご)Heavy cruiser Atagoは、南方作戦Southern campaign、蘭印作戦Dutch East Indies
campaign、ミッドウェー海戦Battle of Midway(攻略部隊)、南太平洋海戦Battle of the South Pacific(前進部隊)、第三次ソロモン海戦Third Battle of the
Solomon Sea、ブーゲンビル島の戦いBattle of
Bougainville Islan(ラバウル空襲Bombing of Rabaul)、マリアナ沖海戦Battle of the
Philippine Sea、レイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf等に参加。
1944年(昭和19年)10月23日にアメリカUSAの潜水艦ダーターSubmarine Darterの雷撃torpedo attackで沈没Sunkするまで、ほぼ一貫して第二艦隊Second Fleet旗艦flagshipの座にあり、金剛型戦艦Kongo-class
battleship、長門型戦艦Nagato-class battleships、大和型戦艦Yamato-class
battleship等を指揮下に置いた。
太平洋戦争Pacific Warにおいて重巡洋艦愛宕(あたご)Heavy cruiser Atagoに将旗を掲げた第二艦隊Second Fleet司令長官Commander-in-Chiefは、大戦前半は近藤信竹(こんどう・のぶたけ)中将、後半は栗田健男(くりた・たけお)中将だった。
重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao
重巡洋艦高雄(たかお) Heavy cruiser Takao
高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisers 1番艦Lead ship
重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai
重巡洋艦鳥海(ちょうかい) Heavy cruiser Chokai
高雄型重巡洋艦Takao-class heavy cruisersの4番艦Fourth ship
零式水上偵察機 Type Zero Reconnaissance Seaplane
三座単葉水上偵察機Three-Seat Monoplane reconnaissance seaplane
1940年(昭和15年)(皇紀2600年)制式採用
零式水上観測機 Type Zero Observation Seaplane
複座複葉水上観測機Two-Seat Biplane Observation Seaplane
太平洋戦争Pacific Warでは、本来の任務である戦艦Battleshipの着弾観測Artillery observerに活躍flourishする余地がなかったため、ほぼ水上偵察機Reconnaissance Seaplaneとして使用されていた。
しかし、零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)は複葉機Biplaneながら補助翼の一部を除き全金属製の近代的な機体で、無類の安定性と高い格闘性能を持っており、二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterよりも軽快だったという。
特設水上機母艦Seaplane tender「神川丸(かみかわまる)」や「國川丸(くにかわまる)」にも配備され、アリューシャンAleutian Islands方面やソロモンSolomon Islands方面ショートランドShortland Islandsなどに展開。
船団護衛(せんだん・ごえい)Convoy escort、対潜哨戒(たいせん・しょうかい)Maritime patrol、敵施設の爆撃bombing、さらにはその卓越した空戦Aerial warfare性能を生かしての離島の基地Remote island baseにおける防空Air defenseなど、時として二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterと肩を並べ、様々な任務で幅広く活躍flourishした。
その他、バリクパパンBalikpapan方面やアンボンAmbon方面にも進出している。
太平洋戦争Pacific Warの中期までは戦闘機Fighter aircraftの代わりとして米US戦闘機Fighterや爆撃機Bomberと空中戦Aerial warfareを行うこともしばしばあり、複座複葉Two-Seat Biplaneの水上観測機Observation Seaplaneながら敢闘、零戦Zero fighter隊と協力してのP-38ライトニングLockheed P-38 Lightningの撃墜報告や、P-39エアラコブラBell P-39 Airacobra、F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatの撃墜報告などを行っている。
駆逐艦Destroyerによるガダルカナル島Guadalcanalへの強行輸送作戦「鼠輸送(ねずみ・ゆそう)Tokyo Express」従事中、たびたび零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)の援護を受けた田中頼三(たなか・らいぞう)第二水雷戦隊司令官は、零式水上観測機隊の掩護に感謝の言葉を述べている。
速度Speed性能と武装Armamentで決定的に不利となった1945年(昭和20年)2月16日ですら、アメリカ本土Mainland america空襲Air-raidで有名な藤田信雄(ふじた・のぶお)少尉が操縦する鹿島空の零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)が本土Japanese mainlandに来襲invasionしたF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatを迎撃Interceptionし、格闘Dogfight性能を活かして1機を未確認撃墜Shoot downするという戦果military
achievementsを上げた。
1943年(昭和18年)以降は船団Convoy護衛escortや対潜哨戒Maritime patrolが主務となり、第一線the forefrontからは退いたが終戦End-of-warまで活動を続け、一部の零式水上観測機は特攻機Special Attack aircraftとして沖縄戦Battle of Okinawaで使用された。
駆逐艦野分(のわき) Destroyer Nowaki
日本海軍Imperial Japanese Navy
陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyersの第15番艦15th
ship
駆逐艦嵐(あらし) Destroyer Arashi
日本海軍Imperial Japanese Navy
陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyersの16番艦16th ship
駆逐艦萩風(はぎかぜ) Destroyer Hagikaze
日本海軍Imperial Japanese Navy
陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyersの第17番艦17th
ship
駆逐艦舞風(まいかぜ) Destroyer Maikaze
日本海軍Imperial Japanese Navy
陽炎型駆逐艦(かげろうがた)Kagero-class destroyersの第18番艦18th
ship
駆逐艦暁(あかつき) Destroyer Akatsuki
日本海軍Imperial Japanese Navy
吹雪型駆逐艦(ふぶきがた)Fubuki-class destroyerの21番艦21st ship
駆逐艦響(ひびき) Destroyer Hibiki
日本海軍Imperial Japanese Navy
吹雪型駆逐艦(ふぶきがた)Fubuki-class destroyerの22番艦22nd ship
駆逐艦朝潮(あさしお) Destroyer Asashio
駆逐艦朝潮(あさしお) Destroyer Asashio
日本海軍Imperial Japanese Navy
朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyersの1番艦Lead ship
駆逐艦大潮(おおしお) Destroyer Oshio
日本海軍Imperial Japanese Navy
朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyersの2番艦Second ship
駆逐艦満潮(みちしお) Destroyer Michishio
日本海軍Imperial Japanese Navy
朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers 3番艦Third
ship
駆逐艦荒潮(あらしお) Destroyer Arashio
日本海軍Imperial Japanese Navy
朝潮型駆逐艦(あさしおかた)Asashio-class destroyers 4番艦Fourth
ship
マレー半島Malay Peninsulaの戦い(マレー作戦Malayan campaign)は、時間との戦いでもあった。
マレー半島Malay Peninsulaには大小無数の河があり、これらにかかる橋を落されたら、迅速な前進は望めない。
したがって、どれだけ素早く前進できるかが重要であった。
シンゴラSingola(ソンクラSongkhla)に上陸landingした、佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki中佐Lieutenant
Colonel率いる、第5師団の捜索第5連隊は、
部隊の先頭で突き進む役割を担い、ほとんど不眠不休で進撃していた。
辻政信(つじ・まさのぶ) Masanobu Tsuji
佐伯静夫(さえき・しずお) Shizuo Saeki
佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki支隊の目指す先は、ジットラ・ラインJitra line。
イギリス軍British Armed Forcesが「東洋Orientalのマジノ線Maginot Line」と呼んだ、強固な陣地encampment position帯である。
イギリス軍British Armed Forcesは、このジットラ・ラインJitra lineで、2~3か月は持ちこたえられるものと、想定していた。
1941年(昭和16年)12月10日夜半…
ジットラ・ラインJitra lineに、わずか600人に満たない佐伯静夫(さえき・しずお)Shizuo Saeki支隊が、攻撃を開始した。
夜の闇に紛れて猛攻を開始した佐伯(さえき)支隊にイギリス軍British Armed
Forcesは混乱。
日本軍Imperial Japanese Forcesが早くも攻撃してきたと勘違いした。
また、ここを守備していたのは、イギリス軍イギリス軍British Armed
Forcesとはいっても、インド植民地軍Indian colonial
armyで、兵士Soldierの大半はインド人Indianだった。
それゆえ士気もあまり高くない。
退却retreatしたり降伏Surrenderしたりする兵Soldierが続出し、結局、翌日には、ジットラ・ラインJitra lineを突破。
さらにその背後にあったアロースターAlor Starも占領occupationした。
アロースターAlor Starには大飛行場Large airfieldがあり、ここも早期に入手しておきたい要地key areaであった。
こうしてマレー半島Malay Peninsula東海岸East
Coastに上陸landingした日本軍Imperial Japanese Forcesの主力部隊main‐force unitsは、あっという間に西海岸West coastに到達し、さらに南下advance southwardを開始した。
銀輪部隊(ぎんりん・ぶたい)は、太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia War)時に主に南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignで運用された自転車部隊(じてんしゃ・ぶたい)Bicycle
infantryの日本国内における通称・愛称である。
年が明けて1942年(昭和17年)1月…
進撃を続ける日本軍Imperial Japanese Forcesだったが、首都・クワラルンプールKuala Lumpurに近づくにつれ、イギリス軍British Armed Forcesの抵抗も激しくなっていた。
西海岸West coast方面は山と海に挟まれ、迂回機動の余地もあまりない。
強引に前進を続けるしかなく、歩兵部隊infantry corpsはスリムで停滞してしまう。
そこへ島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimada少佐Majorに率いられた戦車隊Tank corpsが到着した。
島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimadaは立ち往生している、歩兵第42連隊長・安藤忠雄(あんどう・ただお)Tadao Ando大佐Colonelに、戦車Tankでの夜襲Night attackを提案する。
島田(しまだ)戦車隊Tank corpsは、歩兵infantryと工兵military engineerを伴って、夜中に出撃した。
島田豊作(しまだ・とよさく) Toyosaku Shimada
安藤忠雄(あんどう・ただお) Tadao Ando
九五式軽戦車 Type 95 light tank
九五式軽戦車 Type 95 light tank
九七式中戦車 Type 97 medium tank
九七式中戦車 Type 97 medium tank
突然現れた戦車tankに、イギリス軍British Armed Forcesの兵士Soldierは、思うように応戦できない。
島田(しまだ)戦車隊Tank corpsは、一気に敵陣を突破すると、反転して蹂躙(じゅうりん)。
こうして激戦地のスリム陣地を突破した。
島田豊作(しまだ・とよさく)Toyosaku Shimada少佐Majorは九七式中戦車 Type 97
medium tank、九五式軽戦車 Type 95
light tankが中核となった夜間突撃Night attackを敢行し、これにより1日で全縦深Deep battleを突破し、逃げ遅れた英印軍British Indian Army 1個師団を包囲し壊滅させた。
1942年(昭和17年)1月11日、日本軍Imperial Japanese Forcesは、首都・クアラルンプールKuala Lumpurに突入。
アーサー・パーシバル Arthur Percival
イギリス軍British Armed Forces司令官Commander・パーシバル Arthur
Percival中将Lieutenant Generalは、大慌てで逃げ出し、シンガポールSingaporeへと移った。
あちこちで退却retreatを重ねたイギリス軍British Armed
Forcesの中にあって、オーストラリア軍Australian Armed
forcesのみは頑強に抵抗。
1942年(昭和17年)1月14日~20日にかけて、ゲマスGemasでオーストラリア軍Australian Armed forces第8師団と日本軍Imperial Japanese Forces第5師団が激しくぶつかった。
ゲマスGemasはクアラルンプールKuala Lumpurから、南東Southeast約250kmほどの地点にあり、
ここを突破すれば、マレー半島Malay Peninsula先端のジョホール・バルJohor Bahruまではすぐである。
そのためオーストラリア軍Australian Armed
forcesは必死で防戦したが、
勢いに乗る日本軍Imperial Japanese Forcesには敵(かな)わなかった。
1942年(昭和17年)1月31日、日本軍Imperial Japanese Forcesはジョホール・バルJohor Bahruを占領occupation。
イギリス軍British Armed ForcesはシンガポールSingaporeに押し込められることになった。
シンガポールSingaporeへの上陸作戦Landing operationは、1942年(昭和17年)2月9日より開始された。
対岸opposite shoreにずらっと並べられた野砲Field gunで激しく砲撃Bombardmentを行い、航空部隊air corpsも爆撃bombingを実施。
シンガポール島Singapore Islandをめぐる攻防Offense and defenseは激戦Fierce battleとなった。
ブキッ・ティマ高地 Bukit Timah Hill
とくにブキッ・ティマ高地 Bukit Timah Hillをめぐる戦いは熾烈を極めた。
ここは島内の数少ない水源を確保しておくため、イギリス軍British Armed
Forcesとしては、落とせない場所であった。
一方、日本軍Imperial Japanese Forcesも大砲Cannonの砲弾Cannonballが残り少なくなり、白兵突撃close combatをかけて、強引に奪おうとする。
連日、激しい肉弾戦hand-to hand combatが繰り広げられた。
しかしあと一歩のところで、シンガポール市街Singapore cityには突入できない。
そして、いよいよ砲弾Cannonballが尽きた。
そこへ…
アーサー・パーシバル Arthur Percival
イギリス軍British Armed Forces司令官Commander・パーシバル Arthur
Percivalからの降伏Surrenderの申し入れだった。
イギリス軍British Armed Forcesも水や食糧が底を突いていたのだ。
まさに間一髪close callのタイミングTimingであった。
1942年(昭和17年)2月10日、英軍British Armed Forcesの抵抗はシンガポール市街Singapore cityの周辺でにわかに強化され、日本軍Imperial Japanese Forcesの弾薬ammunitionは欠乏したが、2月15日午後、英軍British Armed Forcesは降伏Surrenderした。
英軍British Armed Forces司令官Commanderパーシバル Arthur Percival中将Lieutenant Generalは降伏Surrenderの原因は断水Water outageにあると語っている。
2月14日に砲撃Bombardment、空襲Air raidで送水管、水道管が破裂し、2月15日給水状況は逼迫し、専門家が今後一昼夜の給水water supplyしかできないと判断したという。
山下奉文(やました・ともゆき) Tomoyuki Yamashita
最終階級は陸軍大将Army general。
太平洋戦争Pacific Warの劈頭、第25軍Twenty-Fifth
Army司令官として英領British territoryマレーMalayとシンガポールSingaporeを攻略した武功、「マレーの虎Tiger of Malaya」の異名で知られる。
こうして、1942年(昭和17年)2月15日、イギリス軍British Armed Forcesは、無条件降伏Unconditional surrenderして、マレー攻略戦Malayan campaignは幕を閉じた。
シンガポールの戦い Battle of Singapore
第25軍Twenty-Fifth Armyは1942年(昭和17年)2月8日にジョホール海峡Straits of Johorを渡河Crossingしシンガポール島Singapore Islandへ上陸Landingした。
2月11日にはブキッ・ティマBukit Timah高地に突入するが、イギリス軍British Armed Forcesの砲火gunfireを受け動けなくなった。
2月15日、攻撃中止cease-fireもやむなしと考えられていたとき、イギリス軍British Armed
Forcesの降伏Surrenderの使者が到着した。
水源が破壊され給水が停止したことが抗戦resistanceを断念した理由であった。
イギリス軍British Armed Forcesは10万人が捕虜prisonerとなった。
マレー作戦の推移
エンドウ沖海戦 Battle off Endau
エンドウ沖海戦Battle off Endauとは、太平洋戦争Pacific War中の1942年(昭和17年)1月27日にマレー半島Malay Peninsula南部エンドウ沖off Endauで生起した海戦Naval battle。
連合国軍Allied forcesは駆逐艦Destroyer(駆逐艦サネットDestroyer Thanet)一隻を失い、日本船団攻撃の目的も達成できなかった。
駆逐艦サネットDestroyer Thanet イギリス海軍Royal Navyの駆逐艦Destroyer
百式司令部偵察機 Type 100 Command Reconnaissance
Aircraft 陸軍Army
百式司令部偵察機 Type 100 Command
Reconnaissance Aircraft 陸軍Army
百式司令部偵察機 Type 100 Command
Reconnaissance Aircraft 陸軍Army
1942年(昭和17年)2月8日からの、マレー作戦Malayan campaignに参加。
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。
加藤隼戦闘隊 Colonel Kato's Falcon Squadron
加藤建夫(かとう・たてお)陸軍中佐 Army
Lieutenant colonel Tateo Kato
大空のちかい 九里一平(くり・いっぺい) 1962年(昭和37年)
ホーカー・ハリケーン Hawker Hurricane
イギリス空軍Royal Air Force
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。
F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo アメリカ海軍US Navy
F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo アメリカ海軍US Navy
F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo
アメリカ海軍US Navy
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。
ロッキード・ハドソン Lockheed Hudson
米陸軍航空軍US Army Air Forces
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。
エンプレス・オブ・エイジア Empress of Asia
イギリスBritish Empireの軍隊輸送船Troopship
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeで、日本陸軍機Imperial Japanese
Armyによる攻撃を受けて撃沈attack and sinkされる。
ブリストル・ブレニム Bristol Blenheim
イギリス空軍Royal Air Force
1942年(昭和17年)2月8日からの、シンガポールの戦いBattle of Singaporeに参加。