13章 5節 太平洋戦争
戦艦大和(やまと) Battleship Yamato
宇宙戦艦ヤマト Space Battleship Yamato 松本零士(まつもと・れいじ)
1974年(昭和49年)
宇宙戦艦ヤマト Space Battleship Yamato 松本零士(まつもと・れいじ)
1974年(昭和49年)
北の界王 ドラゴンボール 鳥山明(とりやま・あきら) 1984年(昭和59年)
国際連盟 League of Nations
国際連盟League of Nationsから脱退Withdrawal
日独伊防共協定 Anti-Comintern Pact signed by Japan, Germany,
and Italy
第5節 太平洋戦争 Pacific War
第二次世界大戦 World War IIの勃発
枢軸外交 Axis diplomacyの推進
国際連盟League of Nationsから脱退Withdrawalし孤立外交Isolated
diplomacyの道を歩んでいた日本Japanは、ヨーロッパEuropeで同じようにヴェルサイユ体制Versailles
systemから離れ、国際連盟League of Nationsから脱退WithdrawalしていたドイツGermany・イタリアItalyに接近し始めた。
その結果、1936年(昭和11年)、日独防共協定Japan-Germany Anti-Comintern Pactが結ばれ、翌1937年(昭和12年)にはイタリアItalyが参加して日独伊防共協定Japan-Germany-Italy Anti-Comintern Pactが成立した。
当時これを、東京Tokyo=ベルリンBerlin=ローマRomeの枢軸外交Axis diplomacyと呼んでいた。
この防共協定Anti-Comintern Pactは、ソ連Soviet Unionの共産主義Communismに対する共同防衛Joint defenseを名目にしていたが、明らかにヴェルサイユ体制Versailles system・ワシントン体制Washington
regimeに挑戦し、世界再分割redivision of coloniesを目指すファシズム三国Fascism Three Kingdomsの同盟allianceであった。
独ソ不可侵条約 Russo-German Non-Aggression Pact
第二次世界大戦 World War IIの勃発
この頃の世界は、周辺諸国neighboring countriesへ侵略Invasionを重ねている日本Japan・ドイツGermany・イタリアItalyのファシズム国家群Fascist
nationsと、イギリスUK・アメリカUSA・フランスFrance・ソ連Soviet Unionの民主主義国家群Democratic
statesの2つに分かれていた。
しかし、イギリスUK・フランスFranceは、ドイツGermanyの侵略Invasionの鉾先spearheadをソ連Soviet Unionに向けさせようとして、はっきりと対決する方向を示さなかった。
ポーランド Poland
ドイツのポーランド侵入 German invasion of Poland
その弱腰sign of weaknessを見たドイツGermanyは、1939年(昭和14年)8月、ソ連Soviet Unionと独ソ不可侵条約Russo-German Non-Aggression Pactを結んで翌9月ポーランドPolandに侵入Invasionし、ついにイギリスUK・フランスFranceもドイツGermanyに宣戦を布告declaring warした。
ここに第二次世界大戦World War IIが始まったのである。
オーストリアAustriaを併合annexation
独ソ不可侵条約 Russo-German Non-Aggression Pact
独ソ不可侵条約 Russo-German Non-Aggression Pact
(1939年(昭和14年)8月23日)
オーストリアAustriaを併合annexationし、さらに侵略invasionを続けるドイツGermanyに対しイギリスUK・フランスFranceとソ連Soviet Unionの間で交渉が行われ、ソ連Soviet Unionは軍事的支援military aidを提案したがイギリスUK・フランスFranceの態度は冷たく、一致をみなかった。
そこでソ連Soviet Unionは、日本JapanとドイツGermanyに東西から攻撃される危険を考えて国境警備border
securityを固め、ドイツGermanyと条約Pactを結んだ。
ドイツGermanyも、イギリスUK・フランスFranceを攻撃する余裕をうる方策として、この条約Pactを結んだ。
イタリアItalyのエチオピアEthiopia侵略invasion (1935年(昭和10年))
ドイツGermanyのチェコスロヴァキアCzechoslovakiaへの侵略invasion
補足 第二次世界大戦 World War II
①第一段階First phase
満州事変Manchurian Incident以来の日本Japanの中国China侵略invasion、
イタリアItalyのエチオピアEthiopia侵略invasion(1935年(昭和10年))、
ドイツGermanyのチェコスロヴァキアCzechoslovakiaへの侵略invasion(1938年(昭和13年))と個別的な侵略invasionが進められていたが、
1939年(昭和14年)9月、ドイツのポーランド侵入German invasion of Polandを契機に、イギリスUK・フランスFranceが対独宣戦をして始まった。
1940年(昭和15年)6月イタリアItalyがドイツGermany側に参戦。
日独伊三国軍事同盟 Tripartite Pact
②第二段階Second phase
1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟Tripartite Pactが成立し、枢軸国Axis powers側は体制を固めたが、まだアメリカUSAは参戦しておらず、ヨーロッパEuropeの戦争Warと日中戦争Japanese-Chinese Warは直接結びついていなかった。
ところが1941年(昭和16年)6月、ドイツNazi Germanyのソ連Soviet Union侵入が開始され、12月日本Imperial Japanの対英米戦Battle against Britain and the United Statesが始まった。
こうして本格的な世界戦争World Warに発展した。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro Konoe
平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう) Kiichiro Hiranuma
海南島(かいなんとう) Hainan
第二次世界大戦 World War IIと日本Japan
1939年(昭和14年)1月、第1次近衛文麿内閣First
Fumimaro Konoe Cabinetのあとの平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)Kiichiro Hiranuma内閣Cabinet(1939年(昭和14年)1月~8月)が海南島(かいなんとう)Hainanを占領occupationするなど南方進出Southern Expansionの方向を示したことから、これまで日本Imperial
Japanの軍事行動Military actionに非難はするが具体的な経済制裁Economic
sanctionsなどを行わなかったアメリカUSAが、同1939年(昭和14年)7月に日米通商航海条約Japan-US Trade and Navigation Treatyの破棄を通告してきた(6か月後の1940年(昭和15年)1月失効)。
日中戦争時代の中国
他方、ドイツGermanyや陸軍Armyの要望により、枢軸外交Axis diplomacyを強化して三国軍事同盟Tripartite Pactの締結が審議されていた。
しかし、ノモンハンNomonhanでソ連Soviet Unionと戦っていた最中、独ソ不可侵条約Russo-German Non-Aggression Pactが結ばれたため、国際情勢international situationへの見通しを失った平沼騏一郎内閣Kiichiro
Hiranuma Cabinetは、同盟交渉を打ち切り、「欧州情勢は複雑怪奇The situation
in Europe is complicated and mysterious」と声明statementして同1939年(昭和14年)8月総辞職general resignationした。
阿部信行(あべ・のぶゆき) Nobuyuki Abe
そのあと阿部信行(あべ・のぶゆき)Nobuyuki Abe陸軍大将Army generalが内閣Cabinet(1939年(昭和14年)8月~1940年(昭和15年)1月)を組織したが、組閣formation of a cabinet直後に第二次世界大戦World
War IIが始まった。
阿部信行内閣Nobuyuki Abe Cabinetは、三国同盟Tripartite Pactの失敗やノモンハン事件Nomonhan Incidentの敗北もあって、大戦不介入・日中戦争Japanese-Chinese War解決の方針をとった。
そして、アメリカUSAに日米通商航海条約Japan-US
Trade and Navigation Treatyの暫定協定締結を提案したが拒否され、さらに陸海軍Army and Navyの支持も失い、わずか4か月で1940年(昭和15年)1月に総辞職general resignationした。
米内光政(よない・みつまさ) Mitsumasa Yonai
後任には、重臣chief vassalの推薦で親米派pro‐American
groupといわれる米内光政(よない・みつまさ)Mitsumasa
Yonai海軍大将Admiralが組閣formation of a cabinet(1940年(昭和15年)1月~7月)した。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro Konoe
大東亜新秩序 Great East Asian New Order
新体制運動 New regime movement
新体制運動 New regime movementと
第2次近衛文麿内閣 Second Fumimaro Konoe Cabinet
1940年(昭和15年)に入り、ドイツGermanyの電撃戦Lightning warによるヨーロッパEurope各地での優勢を見た日本Japanの支配層の間に、ナチスNazi Partyの「ヨーロッパ新秩序European New Order」に呼応する「大東亜新秩序Great East
Asian New Order」建設を目指す南進論Southern Expansion
Doctrineが唱えられた。
それにみあう強力な国内体制の確立を企図する新体制運動New regime
movementが起こってくると、近衛文麿(このえ・ふみまろ)が枢密院(すうみついん)Privy Council議長を辞して新体制New regime確立に力を尽くすと声明した。
斎藤隆夫(さいとう・たかお) Takao Saito
斎藤隆夫(さいとう・たかお)の反軍演説(はんぐん・えんぜつ)anti-military
speech
1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫(さいとう・たかお)が行った演説speech。
日中戦争Japanese-Chinese War (支那事変China
Incident)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説speechした。
この演説により、3月7日、斎藤隆夫(さいとう・たかお)は衆議院議員を除名された。
この経緯は言論弾圧Media blackoutとしても扱われる。
畑俊六(はた・しゅんろく) Shunroku Hata
日独伊三国同盟Tripartite Pact締結に絡んだ陸軍Armyの命により単独辞職、後任陸相Minister of
the Imperial Japanese Armyも出せず米内内閣Yonai Cabinet瓦解の原因となった。
親英米派的性格をもつ米内光政内閣Mitsumasa Yonai Cabinetは、斎藤隆夫(さいとう・たかお)の反軍演説(はんぐん・えんぜつ)anti-military
speech、新体制運動New regime movementの善処を求めた陸相Minister of the Imperial Japanese Army(畑俊六(はた・しゅんろく))を辞任させたため、陸軍Armyの後任陸相Minister of the Imperial Japanese Army推薦が得られず倒れた(軍部大臣現役武官制(ぐんぶ・だいじん・げんえき・ぶかん・せい)による倒閣overthrowing the Cabinetの実例)。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro Konoe
近衛文麿(このえ・ふみまろ)は、陸Army・海Navy・外相Foreign Minister予定者と協議した上、1940年(昭和15年)7月に第2次近衛文麿内閣Second Fumimaro
Konoe Cabinetを成立させ、ドイツGermany・イタリアItalyとの結束強化、武力行使をも含む南方進出Southern Expansion、国内新体制New domestic regimeの確立を基本方針とした。
大政翼賛会(たいせい・よくさんかい) Imperial Rule Assistance Association
大政翼賛会(たいせい・よくさんかい) Imperial Rule Assistance Association
政党解散と大政翼賛会
近衛文麿(このえ・ふみまろ)を中心とした新体制運動New regime
movementが始まると、近衛文麿(このえ・ふみまろ)は既成政党のほかに、財界・文化人を含めた国民的基盤をもった新党の樹立を計画した。
1940年(昭和15年)、第2次近衛文麿内閣Second Fumimaro
Konoe Cabinet成立前後にすべての既成政党は相次いで解散し、10月に大政翼賛会(たいせい・よくさんかい)Imperial Rule
Assistance Associationが結成されて、近衛文麿(このえ・ふみまろ)自ら総裁director-generalとなったが、最初予定していた政治結社Political
associationではなく、知事prefectural governorが各県支部長となる政府中心の御用結社Government-centered associationとなってしまった。
大政翼賛会(たいせい・よくさんかい) Imperial Rule Assistance Association
大政翼賛会(たいせい・よくさんかい) Imperial Rule Assistance Association
近衛文麿(このえ・ふみまろ)は、このような国民的組織を背景に、軍部military
authoritiesを抑えようと考えていたようであるが、陸軍Armyはむしろこの動きを、ドイツGermanyのナチスNazi Partyばりの一国一党One country,
one partyの組織づくりに利用しようとした。
大日本産業報国会(だいにっぽん・さんぎょう・ほうこくかい)
Industrial patriotic league of Great Japan
また労働組合labor unionも解散して、11月に大日本産業報国会(だいにっぽん・さんぎょう・ほうこくかい)Industrial
patriotic league of Great Japanを結成した。
大日本産業報国会(だいにっぽん・さんぎょう・ほうこくかい)
Industrial patriotic league of Great Japan
大日本産業報国会(だいにっぽん・さんぎょう・ほうこくかい)
Industrial patriotic league of Great Japan
すでに1937年(昭和12年)の国民精神総動員運動National Spiritual Mobilization Movementの開始とともに、各工場では、事業主を長とし労資を包括した産業報国会(さんぎょう・ほうこくかい)Industrial patriotic leagueが組織され始めていた。
大政翼賛会(たいせい・よくさんかい) Imperial Rule Assistance Association
こののち大政翼賛会(たいせい・よくさんかい)は、大日本産業報国会(だいにっぽん・さんぎょう・ほうこくかい)・婦人会・町内会・部落会・隣組(となりぐみ)などまでその指導下に入れ、太平洋戦争Pacific War下で国民の日常生活の隅々まで規制し、国民のすべてを戦争協力War cooperationに引きずり込む組織となった。
東条英機(とうじょう・ひでき) Hideki Tojo
翼賛選挙(よくさん・せんきょ) Assistance election
議会の無力化と翼賛選挙
無政党No political party状態となった議会Parliamentでは、1942年(昭和17年)に第3次近衛文麿内閣Third Fumimaro Konoe Cabinetに代わった東条英機(とうじょう・ひでき)内閣Cabinetの下で総選挙general electionが行われ、翼賛政治体制協議会(よくさん・せいじ・たいせい・きょうぎかい)の推薦候補者が、非推薦候補者に対する政府Governmentの選挙干渉Election interferenceなどもあって、多数当選した(翼賛選挙(よくさん・せんきょ)Assistance election)。
鳩山一郎(はとやま・いちろう) Ichiro Hatoyama
尾崎行雄(おざき・ゆきお) Yukio Ozaki
芦田均(あしだ・ひとし) Hitoshi Ashida
片山哲(かたやま・てつ) Tetsu Katayama
翼賛選挙(よくさん・せんきょ) Assistance election
立候補者1079人のうち、当選者は推薦候補者381人、非推薦候補者85人であった。
鳩山一郎(はとやま・いちろう)・尾崎行雄(おざき・ゆきお)・芦田均(あしだ・ひとし)・片山哲(かたやま・てつ)などが非推薦候補者として当選した。
そして、両院の議員assemblymanと各界代表を集めた新政治結社New Political associationとして翼賛政治会(よくさん・せいじかい)Imperial Rule
Assistance Political Societyが作られた。
政府Governmentもこれ以外の結社associationを解散させたこともあって、議会Parliamentは、単に政府Government・軍部military
authoritiesの提案を承認するだけの機関となってしまった。
統制会(とうせいかい) control associations
経済新体制 New economic system
1940年(昭和15年)には、経済新体制確立要綱(けいざい・しんたいせい・かくりつ・ようこう)によって、経済団体Economic organizationの再編成が進められた。
その結果、業種別・物資別に各種経済団体(統制会(とうせいかい)control
associations)が組織され、この統制会(とうせいかい)control
associationsが資材・労働力から生産まですべてを統制した。
こうして国内産業Domestic industryが軍事的統制下に置かれ、これによって独占資本monopoly capitalの利潤が確保され、国家独占資本主義state
monopoly capitalism体制が確立した。
援蒋(えんしょう)ルート Supply routes to Chiang Kai-shek's China
北部仏印進駐 Japanese invasion of Northern French
Indochina
北部仏印進駐 Japanese invasion of Northern French
Indochina
南進 Southern Expansionと日米交渉
南進論 Southern Expansion Doctrineと
北部仏印進駐
Japanese invasion of Northern French Indochina
ナチス・ドイツNazi Germanyの電撃戦Lightning warに呼応した南進論Southern Expansion Doctrineは、仏印(ふついん)(フランス領インドシナFrench Indochina)・ビルマBurma(現ミャンマーMyanmar)両援蒋(えんしょう)ルートSupply routes
to Chiang Kai-shek's Chinaの遮断によって、重慶(じゅうけい)Chongqingの国民政府Nationalist governmentを屈服させて日中戦争Japanese-Chinese Warを解決すること、および東南アジアSoutheast Asia進出によって戦略物資を確保し、米英United States
and United Kingdom依存の経済状態を自給経済Self-sufficient economyに転換させることなどを目指した。
そして、南進Southern Expansionを基本方針とした第2次近衛文麿内閣Second Fumimaro Konoe Cabinetの下で、1940年(昭和15年)9月、北部仏印への進駐Japanese invasion of Northern French
Indochinaを始め、南進Southern Expansionの第一歩をしるした。
蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shek
援蒋(えんしょう)ルート
Supply routes to Chiang Kai-shek's China
連合国United Nationsが中華民国Republic of Chinaの蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shek援助のため設けた物資補給路。
仏印ルート、ビルマルート、中印ルートなどが開かれていた。
日独伊三国軍事同盟 Tripartite Pact
日独伊三国軍事同盟 Tripartite Pactの締結
(1940年(昭和15年)9月)
ドイツGermany・イタリアItalyとの結束強化をも国策national
policyの基本方針としていた第2次近衛文麿内閣Second Fumimaro
Konoe Cabinetは、北部仏印進駐Japanese invasion of Northern French
Indochinaのすぐあと、ベルリンBerlinで日独伊三国軍事同盟Tripartite Pactを締結した。
その内容は、三国がそれぞれヨーロッパEuropeとアジアAsiaで「新秩序New Order」を建設すること、つまり領土再分割redivision of
coloniesを相互に認め、まだ参戦していない第三国Third country(つまりアメリカUSA)から攻撃されたときは、あらゆる方法で相互援助Mutual
assistanceすることが約束された。
こうして、日独伊枢軸Japan-Germany-Italy Axisと、米英中USA and UK
and Chinaなど反枢軸Anti-Axisとの世界的対立が決定的となった。
日ソ中立条約 Soviet–Japanese Neutrality Pact
日ソ中立条約 Soviet–Japanese Neutrality Pact
(1941年(昭和16年)4月)
南進政策Southern Expansion policyを進めるためには、北方the northの安全を固める必要があった。
そのため1941年(昭和16年)3月、ドイツGermany・イタリアItaly訪問に向かった松岡洋右(まつおか・ようすけ)外相Foreign Ministerが、帰途モスクワMoscowで同1941年(昭和16年)4月、ソ連Soviet Unionとの間に日ソ中立条約Soviet–Japanese Neutrality Pactを締結し、両国間の関係維持と相互不可侵、および一方が第三国Third countryの軍事行動の対象となる場合の中立を規定した。
期間は5年。
なお、松岡洋右(まつおか・ようすけ)外相Foreign Ministerの不可侵条約Non-aggression Pact申し入れに対して、ソ連Soviet Unionがより軽い中立条約Neutrality Pactを逆提案した。
野村吉三郎(のむら・きちさぶろう) Kichisaburo Nomura
コーデル・ハル Cordell Hull
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro Konoe
日米交渉 US-Japan negotiations
しかし、対米開戦War against the United Statesを避けようとする第2次近衛文麿内閣Second Fumimaro Konoe Cabinetは、日中戦争Japanese-Chinese Warの解決とアメリカUSAからの軍需物資輸入のために、1941年(昭和16年)4月から、駐米大使Ambassador to the United States野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)にアメリカ国務長官US Secretary of Stateコーデル・ハルCordell Hullとの間で日米交渉US-Japan negotiationsを行わせた。
しかし、日ソ中立条約Soviet–Japanese Neutrality Pactを締結して帰国した松岡洋右(まつおか・ようすけ)外相Foreign
Ministerは、日米交渉US-Japan negotiationsを独伊Germany and Italyに対する背信行為act of disloyaltyとして反対した。
近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相Prime Ministerは松岡洋右(まつおか・ようすけ)外相Foreign
Ministerを更迭するために7月に内閣Cabinetを総辞職general
resignationし、再び重臣会議で推薦されて第3次近衛文麿内閣Third Fumimaro
Konoe Cabinetを組織した。
独ソ戦 German-Soviet War
大本営政府連絡会議Imperial General Headquarters Government Liaison Conference (御前会議(ごぜん・かいぎ)Imperial Conference)
関東軍特種演習Kwantung Army Special Maneuvers(関特演(かんとくえん))
南部仏印進駐Japanese invasion of Southern French Indochina
南部仏印進駐Japanese invasion of Southern French Indochina
独ソ開戦 German-Soviet Warと日本Japan
これより先1941年(昭和16年)6月、ドイツNazi Germanyは独ソ不可侵条約Russo-German
Non-Aggression Pactを破って突如ソ連Soviet Unionに進撃を開始した(独ソ戦German-Soviet War)。
これに対して政府Imperial Japanese Governmentは、7月天皇臨席Emperor presentの大本営政府連絡会議Imperial General Headquarters Government
Liaison Conference (御前会議(ごぜん・かいぎ)Imperial
Conference)で、南進Southern Expansionの態勢を強化して対英米戦Battle against Britain and the United Statesを辞さず、同時に情勢しだいでは対ソ戦War against the Soviet-Japanese Warを行うという、対米英戦・対ソ戦いずれでも開戦できるよう準備することになった。
対ソ戦War against the Soviet-Japanese Warへの準備として、7月~9月にかけて、秘密保持のため関東軍特種演習Kwantung Army Special Maneuvers(関特演(かんとくえん))と称して満州Manchuriaに兵力military forceが大動員Large mobilizationされた。
いっぽう南方作戦Southern Operationのために、第3次近衛文麿内閣Third Fumimaro Konoe Cabinet成立後すぐに南部仏印進駐Japanese
invasion of Southern French Indochinaが行われた。
ABCD包囲陣 ABCD encirclement
ABCD包囲陣 ABCD encirclement
第3次近衛文麿内閣Third Fumimaro Konoe Cabinetは、日米交渉US-Japan
negotiationsを進めようとしながらも、軍部military
authoritiesの南部仏印進駐Japanese invasion of Southern French
Indochinaを許したので、アメリカUSAは態度を硬化させ、7月に在米の日本資産を凍結し、イギリスBritish
Empire・オランダNetherlandsもアメリカUSAに同調し、さらにアメリカUSAは8月、石油oilの対日禁輸を断行した。
ここに、いわゆるABCD包囲陣ABCD encirclement(アメリカAmerica、イギリスBritain、中国China、オランダDutch)と呼ばれる対日経済封鎖Economic blockade against Japanの体制が整えられた。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro Konoe
太平洋戦争 Pacific War
東条英機内閣 Hideki Tojo Cabinetの成立
日本Imperial Japanの南部仏印進駐Japanese invasion of Southern French
Indochinaは、日米交渉US-Japan negotiationsの事実上の決裂を意味したが、1941年(昭和16年)9月の御前会議(ごぜん・かいぎ)Imperial Conferenceでは、10月までに日米交渉US-Japan negotiationsがまとまらないときには、対米英開戦War against
the United States and Britainを決意すると決定した。
東条英機(とうじょう・ひでき) Hideki Tojo
ところが10月になっても、近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相Prime Ministerは日米交渉US-Japan negotiationsの継続を主張し、対米開戦Battle against the United Statesを主張する東条英機(とうじょう・ひでき)陸相Minister of the Imperial Japanese Armyと対立したため、同1941年(昭和16年)10月第3次近衛文麿内閣Third Fumimaro Konoe Cabinetは総辞職general
resignationした。
木戸幸一(きど・こういち) Koichi Kido
続いて天皇Emperorは、内大臣Minister of
the Interior木戸幸一(きど・こういち)の助言により、東条英機(とうじょう・ひでき)に組閣formation of
a cabinetを命じた。
天皇Emperorや木戸幸一(きど・こういち)は、東条英機(とうじょう・ひでき)を首相Prime Ministerという責任ある地位につければ、無謀な開戦論を抑えるであろうと期待したという。
日米交渉US-Japan negotiationsも一応続行したが、ついに11月の御前会議(ごぜん・かいぎ) Imperial
Conferenceで12月上旬の対米英開戦War against the United States and Britainを決定した。
ハル・ノート Hull note
アメリカUSAも開戦は避けられないと考え、11月に日本Imperial Japanの中国Chinaと仏印French Indochinaからの無条件即時撤兵・三国同盟否認・蒋介石政権以外の否認などを内容とする要求を示し(ハル・ノートHull note)、交渉は絶望的となった。
太平洋戦争関連地図
真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor
日米開戦
Outbreak of war between Japan and the US
1941年(昭和16年)12月1日の御前会議(ごぜん・かいぎ)Imperial
Conferenceで対米英開戦War against the United States and Britainが正式に決定した。
同12月8日海軍Navyはハワイ島Hawaii真珠湾Pearl Harborを奇襲攻撃Surprise
attackし、また陸軍Armyもマレー半島Malay
Peninsulaに上陸して奇襲攻撃Surprise attackを行い、宣戦布告Declaration of warして太平洋戦争Pacific Warが開始された。
これとともにドイツNazi Germany・イタリアKingdom of Italyも三国同盟Tripartite Pactによって対米宣戦を行い、日独伊Japan-Germany-Italyの枢軸Axis側と、米英USA and UKなどの連合国United Nations側との全面的な世界戦争に発展した。
東南アジア Southeast Asia
開戦直後に政府Imperial Japanese Governmentは、1937年(昭和12年)からの日中戦争Japanese-Chinese Warをも含めて「大東亜共栄圏Greater East Asia Co-Prosperity Sphere」の確立という意味で大東亜戦争Greater East Asia Warと呼び、植民地解放を名目として掲げた。
日本Imperial Japanは開戦早々にイギリス極東艦隊British Far
East Fleetの主力を壊滅させ、香港Hong Kong・シンガポールSingapore・ビルマBurma・蘭領東インド諸島Dutch East Indies・フィリピン諸島Philippine Islandsを占領し、開戦半年にして東南アジアSoutheast
Asiaをほぼ制圧した。
ミッドウェー海戦 Battle of Midway
ガダルカナル島の戦い Battle of
Guadalcanal
戦局の転換 change of war situation
しかし、戦線Frontが太平洋全域Pacific-wideに拡大するにつれ、軍需物資や兵器の補給が困難になるとともに、アメリカUSAの巨大な生産力に圧倒され始めた。
戦局war situationは、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦Battle of Midwayおよび翌1943年(昭和18年)2月のガダルカナル島の戦いBattle of Guadalcanalでの陸軍Armyの敗北defeat以来、全戦線All frontsにおける日本軍Imperial Japanese Forcesの敗退が始まった。
マッカーサー Douglas MacArthur
サイパンの戦い Battle of Saipan
マッカーサーDouglas MacArthurが率いるアメリカ軍US Armed Forcesは、圧倒的な軍事力をもって失地を回復し、1944年(昭和19年)7月には太平洋上の拠点であるサイパンSaipanも占領した。
いっぽう日本陸軍Imperial Japanese Armyの主力は中国大陸Mainland Chinaに釘付けされ、しかもその支配は点(都市)と線(鉄道)上にとどまっていた。
中国Chinaでも在中アメリカ空軍US Air Forceの支援と、米式装備をもつ国民党軍Republic of China Armed Forcesや共産党軍Communist
Armed Forcesを中心に反撃Counterattackに転じ始めた。
小磯国昭(こいそ・くにあき) Kuniaki Koiso
この結果1944年(昭和19年)7月、東条英機内閣Hideki Tojo Cabinetは総辞職general
resignationし、陸軍Armyの小磯国昭(こいそ・くにあき)および海軍Navyの米内光政(よない・みつまさ)を中心とする小磯国昭内閣Kuniaki Koiso
Cabinetが生まれた。
補足 第二次世界大戦および太平洋戦争の性格
第二次世界大戦World War IIは、
①イギリス・アメリカ・フランスと日本・ドイツ・イタリアとの間の植民地再分割redivision of coloniesのための帝国主義国間の戦争War between
imperialist countries、
②中国をはじめ植民地ないし半植民地諸民族の、帝国主義Imperialismに反対する民族解放戦争war of national liberation、
③日本・ドイツ・イタリアのファシズム諸国Fascist
countriesに侵略された諸国民の反ファシズム戦争Anti-fascist
war、
などの性格を併せ持っている。
国民生活の崩壊 Collapse of national life
生産の低下 production decrease
開戦後、政府は各種民間工場を軍需工場に転換するなどして、軍需品の生産増加をはかった。
しかし、戦局の悪化aggravation of the war situationとともに資材が不足し、生産は急速に低下していった。
生産の低下 production decrease
鉱工業生産指数は、1937年(昭和12年)を100とすると、1941年(昭和16年)=123、1943年(昭和18年)=121、1944年(昭和19年)=123、1945年(昭和20年)=59であった。
学徒出陣 departure of students for the front
学徒勤労動員 Student labor mobilization
女子挺身隊(じょし・ていしんたい) Women's Volunteer Corps
徴用令 Requisition Ordinance
動員体制Mobilization systemの強化
労働力の不足Labor shortageなどから、政府Governmentは徴用requisitionの範囲を次第にひろげていった。
1943年(昭和18年)には、20歳以上の理科系・教員養成学校以外の学生Studentは徴兵猶予defermentが撤廃されて召集Conveneされ、戦場へ送り込まれた(学徒出陣(がくと・しゅつじん)Student
soldiers)。
残った者は中学生junior high school studentまでもが学徒勤労動員Student labor mobilizationとして工場などへ駆り出され、独身女性も女子挺身隊(じょし・ていしんたい) Women's
Volunteer Corpsとして軍需工場Munitions factoryへ動員mobilizationされた。
さらに労働力不足Labor shortageを補うために、朝鮮人Koreanや中国人Chineseまでを強制的に日本Japanへ連行してきて、労働環境の劣悪な鉱山などで働かせた。
強制連行 Forced entrainment
1942年(昭和17年)からは朝鮮総督Governor-General of Korea自ら朝鮮各道に動員数を割り当てるようになり、本人の応諾はおろか、寝込みを襲ったり、田畑で働いている最中や道路を歩行中の者を強制的に連行Forced entrainmentし、そのまま北海道・九州の炭坑などに送り込んだ。
1944年(昭和19年)には朝鮮人Koreanにも徴用令Requisition
Ordinanceが適用されたことも加わり、強制連行Forced
entrainmentされた朝鮮人Koreanは70万人以上、犠牲者6万人以上と推定されている。
また、中国Chinaからの連行も、その数4~5万人、犠牲者7000人と推定されている。
配給制度 ration system
学童疎開 Evacuation of school children
戦時下の生活 Wartime life
1939年(昭和14年)以後は配給制度ration systemが始まっていたが、特に1942年(昭和17年)10月からは、食糧品・衣料その他のすべての生活必需品Daily necessitiesが、町内会・部落会・隣組を通じて配給rationされるようになった。
しかし、それも戦局の悪化aggravation of the war situationとともに次第に少なくなり、物資不足・食糧難はいっそう深刻になった。
都市の小学生Elementary school studentsたちは、空襲air raidに備えて地方に強制的に疎開(そかい)Evacuationさせられ(学童疎開Evacuation of school children)、本土への空襲Air raids on
the mainlandが始まると、人々の間には急速に厭戦(えんせん)気分Anti-war moodがひろがっていった。
B29の空襲 B29 air raid
日本の敗戦 Japan's defeat
鈴木貫太郎内閣 Kantaro Suzuki Cabinetの成立
1944年(昭和19年)6月のサイパン島Saipanの陥落fall以来、本土Japanese mainlandはB29の空襲B29 air raidにさらされ始めた(本土空襲Air raids on the mainland)。
1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)前半にかけては太平洋Pacific Ocean各地域の日本の陸海軍Imperial Japanese Army and Navyは総崩れとなり、中国戦線Chinese frontでも劣勢は濃厚になり始め、困苦と窮乏と激しい爆撃に悩む国民nationの戦意will to fightは急速に衰えていった。
沖縄本島上陸 Landing on the main island of Okinawa
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう) Kantaro
Suzuki
このような状況のもとで、翌1945年(昭和20年)4月、米軍US Armed Forcesの沖縄本島上陸Landing on the main island of Okinawaの直後に、小磯国昭内閣Kuniaki Koiso
Cabinetに代わって海軍Navyの長老鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)が戦争の終結End of warを任務として内閣Cabinetを組織した。
終戦工作 End of war work
鈴木貫太郎内閣Kantaro Suzuki Cabinetは、国民nationに「本土決戦Mainland decisive battle」を唱える一方で終戦工作End of war workを始め、戦後の米ソ対立を見越して、ソ連Soviet Unionを仲介にしてアメリカUSA・イギリスBritish Empireとの和平peaceに当たろうとした。
しかしソ連Soviet Unionは、すでに1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談Yalta Conferenceにおいて、対日参戦war against Japanを密約していたのである。
連合軍 Allied forcesの動き
いっぽう枢軸Axisの一翼であったイタリアItalyは、1943年(昭和18年)9月に無条件降伏Unconditional surrenderした。
カイロ宣言 Cairo Declaration
同1943年(昭和18年)11月、エジプトEgyptのカイロCairoに、米大統領President of the USAローズヴェルトFranklin Roosevelt・英首相British Prime MinisterチャーチルChurchill・中国総統President of
China蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shekが会談し、日本Japanの無条件降伏Unconditional surrenderに対する連合国United Nationsの基本方針を含む宣言を発表した(カイロ宣言Cairo Declaration)。
ヤルタ会談 Yalta Conference
さらに、ドイツNazi Germanyの敗北defeatが決定的となった1945年(昭和20年)2月、クリミヤ半島Crimean PeninsulaのヤルタYaltaで米大統領President of the USAローズヴェルトFranklin Roosevelt・英首相British Prime MinisterチャーチルChurchill・ソ連首相Soviet Prime
MinisterスターリンStalinが会談し(ヤルタ会談Yalta Conference)、
ポツダム宣言 Potsdam Declaration
ついでドイツ降伏German surrender後の7月米大統領President of the USAトルーマンTruman・英首相British Prime
MinisterチャーチルChurchill(のちアトリーClement Attlee)ソ連首相Soviet Prime MinisterスターリンStalinがベルリンBerlin郊外のポツダムPotsdamに集まり、対日戦争War against Japan終結のための条件を決定した(ポツダム宣言Potsdam Declaration)。
これは中国Chinaの同意を得て、アメリカUSA・イギリスBritish Empire・中国China 3国の名で発表され、その内容は、日本Japanの無条件降伏Unconditional surrenderの勧告と降伏後の日本管理方針を示したものであった(ソ連Soviet Unionは対日宣戦後に参加)。
カイロ宣言 Cairo Declaration
補足 カイロ宣言 Cairo Declaration
その内容はポツダム宣言Potsdam Declarationの基本となったもので、
①米英中は自国の侵略目的のための領土拡張を意図しないこと、
②第一次世界大戦World War I以後に日本Japanが獲得した、すべての海外領土Overseas
territoryを放棄すること、
③満州Manchuria・台湾Taiwan・澎湖諸島(ほうこ・しょとう)Pescadores Islandsを中国Chinaに返還すること、
④朝鮮Koreaを自由に独立させること、
⑤連合国United Nationsは、日本Japanの無条件降伏Unconditional surrenderまで必要な軍事行動を続行すること、
などを規定していた。
ヤルタ会談 Yalta Conference
補足 ヤルタ協定 Yalta Agreement
ドイツNazi Germanyの無条件降伏Unconditional surrenderと戦後の処理方針、および国際連合United Nations問題を討議・決定した。
対日問題についての秘密協定も結ばれ(1947年(昭和22年)3月に公表)、
①ドイツ降伏German surrender後2~3か月以内にソ連Soviet Unionの対日戦争war against Japan参加、
②その代償として、外蒙古(がい・もうこ) Outer
Mongoliaを現状維持、南樺太(みなみ・からふと) South
Sakhalin・千島(ちしま) Kuril Islandsをソ連Soviet Unionが占領occupation、
などを協定した。
このヤルタ会談Yalta Conferenceは、米英側がソ連Soviet Unionに大きな譲歩を行ったものであり、第二次世界大戦World War II後の国際関係緊迫化の遠因となった。
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう) Kantaro
Suzuki
終戦工作 End of war workの失敗
和平工作pacification peace moveの基本方針が定まらないまま、ポツダム宣言Potsdam
Declarationが発表され、交渉のきっかけをつかむのに失敗した鈴木貫太郎内閣Kantaro Suzuki Cabinetは、ポツダム宣言Potsdam Declaration黙殺ignore・戦争完遂Completion of
the warの首相談話prime minister's statementを発表した。
原子爆弾投下 Atomic bombingと
無条件降伏 Unconditional surrender
連合国United Nationsは鈴木貫太郎Kantaro Suzuki首相談話prime minister's statementを降伏拒否Refusal to
surrenderと受け取ったが、すでに1945年(昭和20年)7月に原子爆弾Atomic bomb実験Experimentに成功successしたアメリカUSAは、ヤルタ協定Yalta Agreementにおいて約束したソ連Soviet Unionの対日参戦war against Japanを待たなくても日本Japanを屈服させる自信を強め、イギリス首相British Prime
MinisterチャーチルChurchillと原子爆弾使用Use of atomic bombを協議した。
広島市への原子爆弾投下 Atomic
bombings of Hiroshima
こうして、ソ連Soviet Unionの対日参戦war against Japanの約束の期限の直前、1945年(昭和20年)8月6日に広島Hiroshimaに原子爆弾が投下Atomic
bombingsされ、20余万の人々が一瞬のうちに死んだ。
これをみて8月8日夜に、ソ連Soviet Unionもすかさず対日宣戦を行い、翌日から満州(まんしゅう)Manchuriaへ進撃を開始して関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyを潰滅させた。
長崎市への原子爆弾投下 Atomic
bombings of Nagasaki
さらに1945年(昭和20年)8月9日には、アメリカUSAは、長崎Nagasakiに原子爆弾Atomic bomb第2号を投じた。
玉音放送(ぎょくおん・ほうそう) Jewel Voice Broadcast
ここに至って政府Imperial Japanese Governmentは、同1945年(昭和20年)8月9日の夜の御前会議(ごぜん・かいぎ)Imperial Conferenceの結果、8月10日に、天皇Emperorの地位保障を条件に降伏surrenderを申し入れたが、これは連合国United
Nationsに拒否され、ついに8月14日の御前会議Imperial Conferenceで、ポツダム宣言受諾Accepting the Potsdam Declaration=無条件降伏Unconditional
surrenderが決定され、その詔勅(しょうちょく)imperial
edictが8月15日正午noon、国民nationに放送broadcastされた(「玉音放送(ぎょくおん・ほうそう) Jewel Voice Broadcast」)。
太平洋戦争関連地図
国土の縮小 Reduction of land
ポツダム宣言受諾Accepting the Potsdam Declaration=無条件降伏Unconditional
surrenderによって、日本の領土Japanese territoryは本州Honshu・北海道Hokkaido・四国Shikoku・九州Kyushuおよび付属の小島に限局されて連合国United
Nationsの管理下に置かれ、沖縄Okinawaと小笠原諸島Ogasawara
IslandsはアメリカUSAの軍政下に置かれることになった。
そして朝鮮Koreaは独立し、台湾Taiwanは中国Chinaに返され、千島(ちしま)Kuril Islands・樺太(からふと)Sakhalinはソ連Soviet Unionの支配下に入り、南洋委任領South Sea MandateはアメリカUSAの信託統治United Nations trust territoriesに属することになった。