13章 4節 日中全面戦争
小松崎茂(こまつざき・しげる) 1959年(昭和34年)(6<7歳)~
広田弘毅(ひろた・こうき) Koki Hirota
第4節 日中全面戦争
開戦前の日本と中国
広田弘毅内閣Koki Hirota Cabinetの成立
二・二六事件(にい・にいろく・じけん)February 26 Incidentのあと、前外相Foreign
Ministerであった広田弘毅(ひろた・こうき)が、人事・政策などに政治的発言力を強めた軍部military
authoritiesの要求を受け入れて、1936年(昭和11年)3月に内閣Cabinetを組織した。
まず、1913年(大正2年)に廃止Abolishedされていた軍部大臣現役武官制(ぐんぶ・だいじん・げんえき・ぶかん・せい)を復活Revivalし、「帝国国防方針(ていこく・こくぼう・ほうしん)」を改定revisionして(第3次)膨大な軍備拡張計画(ぐんび・かくちょう・けいかく)をたて、さらに「国策の基準(こくさく・の・きじゅん)」を決定し、陸海軍Army and Navyの主張を取り入れて、大陸進出Advance to the continentとともに南方進出Advance to
the southの方針courseが国策national
policyとされた。
日独伊防共協定 Anti-Comintern Pact signed by Japan, Germany, and Italy
また国際的孤立International isolationに悩んでいた日本Imperial Japanは、日独防共協定German-Japanese Anti-Comintern Pact(1936年(昭和11年)11月)を結んでナチス・ドイツNazi Germanyと提携し、枢軸Axis形成の端緒をつくった(翌1937年(昭和12年)にイタリアItalyが参加、日独伊防共協定Anti-Comintern Pact signed by Japan, Germany, and Italyとなる)。
補足 「帝国国防方針(ていこく・こくぼう・ほうしん)」の改定
主要仮想敵国Major hypothetical enemyをアメリカUSA・ソ連Soviet Unionとし、次いでこれまでの中国ChinaにイギリスBritish Empireを加えた。
所要兵力を、陸軍Army 50個師団Division(現有17個師団)、海軍Navyの主力艦Capital ship 12隻(現有7隻)・航空母艦Aircraft carrier 12隻(現有4隻)などとしたが、現有勢力と比べても、それがいかに膨大であったかが分かるだろう。
宇垣一成(うがき・かずしげ) Kazushige
Ugaki
第1次近衛文麿内閣の成立
第1次近衛文麿内閣First Fumimaro Konoe Cabinetの成立
広田弘毅(ひろた・こうき)内閣Cabinetのあと、宇垣一成(うがき・かずしげ)陸軍大将Army generalが次期首相Prime Ministerに推薦されたが、宇垣一成(うがき・かずしげ)を不満とする陸軍Armyは陸相army ministerを出さず、宇垣内閣Ugaki Cabinetは不成立Failureに終わった。
宇垣内閣Ugaki Cabinetの不成立Failure
陸軍Armyは、宇垣一成(うがき・かずしげ)Kazushige
Ugakiがかつて陸相army ministerとして軍備縮小reduction of armamentsを行い、また三月事件(さんがつ・じけん) March Incidentの際途中で脱落したこともあって、宇垣(うがき)に反対した。
林銑十郎(はやし・せんじゅうろう) Senjuro
Hayashi
そして陸軍Armyの推す林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)大将Generalが、1937年(昭和12年)2月に内閣Cabinetを組織したが短命short lifeに終わった。
そのあと、同1937年(昭和12年)6月に貴族院議長近衛文麿(このえ・ふみまろ)Fumimaro
Konoeが内閣Cabinetを組織することになった。
この若く家柄のいい近衛文麿(このえ・ふみまろ)Fumimaro
Konoeの登場は、軍部military authoritiesと政党Political
partyの対立を緩和するものと期待されたが、結果的には臨戦体制readiness for warを確立することとなった。
西園寺公望(さいおんじ・きんもち) Kinmochi
Saionji
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro
Konoe
補足 近衛文麿 Fumimaro
Konoe
五摂家筆頭の家柄に生まれた近衛文麿(このえ・ふみまろ)Fumimaro
Konoeは、1937年(昭和12年)6月元老elder statesmanの西園寺公望(さいおんじ・きんもち) Kinmochi
Saionjiの推薦によって首相Prime Ministerとなった。
当時の近衛文麿(このえ・ふみまろ)は各方面から期待がよせられた。
軍部military authoritiesは彼を旧来の政党政治party
politicsに対する革新派として期待し、軍部military
authoritiesに批判的な勢力は彼の家柄と国民Japanese
citizensの声望を利用して軍部military authoritiesを抑えようとし、また国民Japanese citizensは40歳代の青年首相Youth Prime Ministerとしてその清新さに期待していた。
大長征(だいちょうせい) Long March
八・一宣言(はちいち・せんげん) August 1
Declaration
西安事件 Xi'an Incident
日本Imperial Japanの華北侵略North China invasionに対して民族の危機を感じた中国民衆Chinese peopleは、抗日救国運動Anti-Japanese rescue movementを展開した。
これより先、国民政府Nationalist
Governmentの攻撃のなかで、江西省(こうせい・しょう)の根拠地の維持が困難になった共産党軍Communist armyは、1934年(昭和9年)、華北の陝西(せんせい)省北部へ大長征(だいちょうせい)Long Marchに出発、その途中の1935年(昭和10年)、内戦civil warを停止し抗日Anti-Japaneseのために民族の統一を訴えた(八・一宣言(はちいち・せんげん) August 1 Declaration)。
張学良(ちょう・がくりょう) Chang Hsueh-liang
蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shek
1936年(昭和11年)には、国民政府Nationalist
Governmentの指令で共産党軍Communist army攻撃のために陝西(せんせい)省西安(せいあん)Xi'anに集結していた張学良(ちょう・がくりょう) Chang Hsueh-liang軍は、戦いぶりを監視しにきた蒋介石(しょう・かいせき)Chiang Kai-shekを逆に逮捕し、内戦停止・武装抗日を要求した。
これを西安事件(せいあん・じけん) Xi'an Incidentという。
周恩来(しゅう・おんらい) Zhou Enlai
祝杯をあげる蔣介石(しょう・かいせき)と毛沢東(もう・たくとう) Mao
Zedong
中国民衆Chinese peopleの要求、共産党Communist Partyの周恩来(しゅう・おんらい) Zhou Enlaiの調停もあって、蒋介石Chiang Kai-shekは張学良(ちょう・がくりょう) Chang Hsueh-liangの意向を受け入れ、翌1937年(昭和12年)、国民党Chinese Nationalist Partyと共産党Communist Partyの第2次国共合作(こっきょう・がっさく)Second United
Frontがなり、事実上の抗日民族統一戦線Anti-Japanese National United Frontが成立した。
日中戦争時代の中国
盧溝橋事件(ろこうきょう・じけん) Marco Polo
Bridge Incident
日中戦争 Japanese-Chinese War
盧溝橋事件 Marco Polo Bridge Incident
第1次近衛文麿内閣First Fumimaro Konoe Cabinet成立の翌月、1937年(昭和12年)7月7日、北京(ペキン)郊外盧溝橋(ろこうきょう)Marco Polo
Bridgeにおいて、日本軍Imperial Japanese Forcesが中国軍Chinese Armed forcesに対して攻撃を開始した。
しかし中国軍Chinese Armed forcesが日本Imperial Japanの要求を受け入れて撤退し、7月11日に現地において停戦協定Armisticeが成立した。
ところが日本政府Imperial Japanese Governmentは、同日3個師団の派兵を決定して全面戦争Full-scale warへの準備と決意を固め、7月下旬、北京(ペキン)・天津(てんしん)周辺で一斉に総攻撃を開始・占領occupationした。
日本Imperial Japanの中国侵略Invasion of Chinaは、いよいよ本格化したのである。
中華民国国民革命軍National Revolutionary Armyの機関銃陣地machine gun
nest
第2次上海事変(シャンハイ・じへん) Battle of Shanghai
南京大虐殺事件Nanking
Massacre ジョン・ラーベJohn Rabe
戦争の拡大Expansion of
war
1937年(昭和12年)8月には上海Shanghaiでも戦闘を交え(第2次上海事変(シャンハイ・じへん)Battle of
Shanghai)、華北だけでなく華中にも戦火をひろげ、12月には南京(ナンキン)Nankingを占領し、南京大虐殺事件Nanking
Massacreを引き起こした。
この間、第2次国共合作(こっきょう・がっさく)Second United
Frontが成立して抗日民族統一戦線Anti-Japanese National United Frontができ、ソ連Soviet Unionも中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression Pactを結んで中国Chinaの抗戦を支持し、また欧米諸国Western countriesも日本Imperial Japanの行動を非難した。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro
Konoe
トラウトマン和平工作 Trautmann mediation
近衛声明 Three Statements of the First Konoe Cabinet
このころ駐中ドイツ大使German Ambassador to Chinaの仲介(トラウトマン和平工作Trautmann mediation)によって日中和平交渉Japanese-Chinese Peace
negotiationsが進められていたが、この近衛声明の結果、和平交渉Peace negotiationsも打ち切られ、和平の希望は完全になくなった。
こうして、宣戦布告Declaration of warなしの日中全面戦争Japanese-Chinese all‐out Warへと拡大したのである。
宣戦布告Declaration of warなしの開戦
国際法上の交戦国は軍需品・資材の輸入が困難であり、日本Imperial
Japanはそれを第3国とくにアメリカUSAに依存していたこと、また、大義名分がなく戦争目的を明示することが不可能であったことなどが理由。
そのため日本政府Imperial Japanese Governmentは、これを北支事変(ほくし・じへん)North China Incidentとか支那事変(しな・じへん)China Incidentと呼んでいた。
重慶(じゅうけい)Chongqing
いっぽう国民政府Nationalist
Governmentは重慶(じゅうけい)Chongqingに移り、英British
Empire・米USAの援助を受けて長期抗戦体制をとった。
日本Imperial Japanは広東(カントン)Guangdong・武漢(ぶかん)Wuhanと戦線を拡大していったが、兵力不足からこれ以上戦線を拡大することができず、点と線(都市と鉄道・道路)の確保だけで手がいっぱいであった。
松井石根(まつい・いわね) Iwane
Matsui
補足 南京大虐殺事件 Nanking Massacre
1937年(昭和12年)12月、当時の首都南京(ナンキン)Nankingを占領した松井石根(まつい・いわね) Iwane Matsui大将の率いる日本軍Imperial Japanese Forcesが、2か月にわたって多数の中国人捕虜・市民を無差別・無目的に殺害した事件。
南京城内外の市街地や農村、幼児から老人に至るまで、強姦殺害、強盗、放火をした。
犠牲者は数十万人ともいわれ、市街地の30~40%が焼失したとされる。
当時、この事件は世界に大きく報道されたが、ほとんどの日本人Japaneseは戦後の極東軍事裁判International Military Tribunal for the Far
Eastで初めて知らされた(犠牲者の数は、判決では11万9千人、中国側発表では34万人という)。
東亜新秩序 East Asian New Order
東亜新秩序East Asian New Order声明
そのような情勢のなかで第1次近衛文麿内閣First
Fumimaro Konoe Cabinetは、1938年(昭和13年)11月、日中戦争Japanese-Chinese Warの目的は日本Imperial Japanを中心とした新秩序New OrderをアジアAsiaに樹立することにある、という声明を出した(第2次近衛声明Second Statements of the Konoe Cabinet)。
さらに翌12月、「善隣友好(中国の東亜新秩序への参加)・共同防共・経済提携」の近衛三原則Three principles
of the Konoe Cabinetを発表し、国民政府Nationalist
Governmentの投降派に呼びかけた(第3次近衛声明Third Statements
of the Konoe Cabinet)。
汪兆銘(おう・ちょうめい) Wang
Chao-ming
汪兆銘(精衛)政権の成立
重慶(じゅうけい)Chongqingでの蒋介石(しょう・かいせき)に次ぐ地位にあった汪兆銘(おう・ちょうめい)(精衛(せいえい))は実権を失い、汪兆銘(おう・ちょうめい)工作を進めていた陸軍Armyは、汪兆銘(おう・ちょうめい)を重慶(じゅうけい)Chongqingから脱出させるのに成功した。
そして1940年(昭和15年)3月に、南京(ナンキン)Nankingに汪兆銘(おう・ちょうめい)を主席とする新国民政府New Nationalist Partyを樹立したが、これは民族的基盤のほとんどない傀儡政権Puppet
administrationで無力であり、戦争をますます長期化させるだけであった。
汪兆銘(おう・ちょうめい)(精衛) Wang
Chao-ming
1932年(昭和7年)以来、行政院院長として蒋汪合作政府を構成し、1938年(昭和13年)には国民党Nationalist Party副総裁にまでなった。
日中戦争時代の中国
ソ連軍戦車に肉迫攻撃する川村上等兵等
対ソ戦争War against the Soviet Union
日中戦争Japanese-Chinese Warが長期化し始めたころ、日本Imperial Japanはソ連Soviet Unionとも紛争Conflictを起こした。
1938年(昭和13年)7月29日から8月11日にかけて、関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyはソ連領Soviet territoryに侵入して張鼓峰事件(ちょうこほう・じけん) Changkufeng
Incidentを起こしたが、日本Imperial Japan側の敗北に終わった。
ノモンハン事件 Nomonhan Incident
次いで1939年(昭和14年)5月、満州(まんしゅう)Manchuriaとモンゴル人民共和国Mongolian
People's Republicとの国境borderノモンハンNomonhanで紛争Conflictを起こし、大規模な戦闘に発展したが(ノモンハン事件Nomonhan Incident)、ソ連Soviet Unionの戦車tankと飛行機aircraftを中心とする機械化部隊mechanized
unitのため、日本Imperial Japanは大敗し停戦協定Armistice agreementを結んだ。
この結果、日本Imperial Japanの対ソ戦略Strategy against the Soviet Unionは大幅に改められるに至った。
ノモンハン事件 Nomonhan Incident
ノモンハン事件 Nomonhan Incident
1939年(昭和14年)、かねて国境紛争border conflictを続けていた満州国軍Manchurian Armed forcesと外蒙古軍Outer
Mongolian Armed forcesとの紛争Conflictに関東軍(かんとうぐん)Kwantung Army・ソ連軍Soviet Armed forcesが介入し交戦したが、日本Imperial
Japan最強の関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyがソ連軍Soviet Armed forcesに大敗し衝撃を受けた。
八九式中戦車 Type 89 medium tank (11.9t)
九二式重装甲車 Type 92 Heavy Armoured Car (3.5t)
九四式軽装甲車 Type 94 Light armored car
九五式重戦車 Type 95 Heavy Tank
九五式軽戦車 Type 95 light tank
九七式中戦車 Type 97 medium tank
九七式中戦車 Type 97 medium tank
T-26軽戦車 T-26 Light tank
BT戦車(ベーテー・せんしゃ) BT tank
BT-5戦車 BT-7戦車 BT-2戦車 BT-5A戦車
BT-2戦車 BT-2 tank
BT-5戦車 BT-5 tank
BT-7戦車 BT-7 tank
九五式戦闘機(きゅうごしき・せんとうき) Type 95 Fighter
九五式戦闘機(きゅうごしき・せんとうき) Type 95 Fighter
ポリカールポフI-15戦闘機 Polikarpov I-15
ポリカールポフI-16戦闘機Soviet Polikarpov I-16 fighter
九六式艦上戦闘機 Type 96
Carrier-based Fighter
九六式二号艦上戦闘機二型 Type 96
Carrier-based Fighter Model 22
九六式艦上戦闘機 Type 96
Carrier-based Fighter
九六式四号艦上戦闘機Type 96 Carrier-based Fighter Model 4
P-26ピーシューター Boeing P-26 Peashooter
カーチス・ホークIII Curtiss BF2C
Goshawk
九七式戦闘機(きゅうななしき・せんとうき) Type 97 Fighter
九七式戦闘機(きゅうななしき・せんとうき) Type 97 Fighter
九九式襲撃機 Type 99 Assault Plane
九九式軍偵察機 Type 99 Army Reconnaissance Plane
九九式襲撃機 Type 99 Assault Plane
九九式軍偵察機 Type 99 Army Reconnaissance Plane
零戦一一型(ぜろせん・いち・いち・がた) Zero fighter Model 11
零式艦上戦闘機 Type 0 carrier fighter 零戦 Zero fighter
零戦一一型(ぜろせん・いち・いち・がた) Zero fighter Model 11
零式艦上戦闘機 Type 0 carrier fighter 零戦 Zero fighter
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
一式戦闘機 隼II型 Type 1
Fighter Hayabusa Model 2
一式戦闘機 隼II型 Type 1
Fighter Hayabusa Model 2
二式戦闘機「鍾馗」 Type 2 Fighter Shoki (Demon)
二式戦闘機「鍾馗」 Type 2 Fighter Shoki (Demon)
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
四式戦闘機「疾風」 Type 4 Fighter Hayate
(Gale)
四式戦闘機「疾風」 Type 4 Fighter Hayate
(Gale)
五式戦闘機一型甲Type 5 Fighter Model 1A
ファストバック型キャノピーFastback canopy
五式戦闘機一型甲Type 5 Fighter Model 1A
ファストバック型キャノピーFastback canopy
五式戦闘機一型乙Type 5 Fighter Model 1B
涙滴型キャノピーTeardrop canopy
五式戦闘機一型乙Type 5 Fighter Model 1B
涙滴型キャノピーTeardrop canopy
国民精神総動員運動 National Spiritual Mobilization Movement
戦時国内体制
Wartime domestic system
国民精神総動員運動
National Spiritual Mobilization Movement
政府Imperial Japanese Governmentは、日中戦争Japanese-Chinese War全面化に踏み切った1938年(昭和13年)8月、挙国一致National unity・尽忠報国(じんちゅう・ほうこく)loyalty and
patriotismなどを目標とする、戦争Warのための国民思想統一Unification
of national thoughtの運動を始めた。
そのため、国民精神総動員National Spiritual Mobilization中央連盟が結成され、神職会・在郷軍人会・労働組合など74団体が参加して、国民nationに軍国主義Militarismと天皇主義Emperorismを注入することが目指された。
企画院(きかくいん) Planning
Board
戦争機構War mechanismの整備
戦争遂行conduct of the warのために、機構の整備拡充も進められた。
1937年(昭和12年)9月には、内閣情報委員会Cabinet Information Committeeを内閣情報部Cabinet Information Departmentに昇格させ、言論・思想統制Speech /
thought controlの一元的機関とし、10月には企画院(きかくいん) Planning
Boardを創設し、内閣直属の総合的な国策企画機関National
policy planning agencyとした。
企画院(きかくいん) Planning Board
従来の企画庁Planning Agencyと資源局Resources Bureauを統合したもの。
最初の仕事が国家総動員法National Mobilization
Lawの要綱Outline作成であった。
近衛文麿(このえ・ふみまろ) Fumimaro
Konoe
国家総動員法 National Mobilization Law
国家総動員法 National Mobilization Law
このような状況のなかで、戦時統制Wartime
controlを全面化・強化する必要から、1938年(昭和13年)、第1次近衛文麿内閣First
Fumimaro Konoe Cabinetは国家総動員法National Mobilization
Lawを成立させた。
この法律は、すべての資本・労働力・物資・出版に至るまで、議会の承認Parliamentary
approvalなしに無条件に動員mobilization・強制できる権限を、政府Imperial Japanese Governmentに与えるものであった。
国民徴用令 National Requisition Ordinance
価格統制令 Price control ordinance
この法律によって、1939年(昭和14年)には、国民nationを人的資源として軍需工場Munitions
factoryなどに強制的に動員mobilizationする国民徴用令National Requisition Ordinanceや、価格統制令Price control
ordinanceなど物価その他の統制令Control Ordinanceが出され、戦時下Wartimeのいわゆる統制経済Controlled economyが確立したのである。
このような体制Systemは、独占資本monopoly
capitalと国家Nationの結びつきを示すものであった。
この法案に対し、諸政党は積極的に反対するということはなかったが、このファッショ的立法Fascistic
legislationに対する批判の声は、決して小さいものではなかった。
だから政府Imperial Japanese Governmentは、議会Parliamentでの審議中「この事変Incident(日中戦争Japanese-Chinese War)中は発動せず」と公約している。
しかし成立すると、わずか1か月のちにこの法律を発動し、日本Imperial
Japanは国家総動員体制National Mobilization Systemの下に置かれることになったのである。
労農運動 Labor and agriculture movement
戦争と文化War and
culture
文化の動向Cultural
trends
昭和初期Early Showa eraから資本主義capitalismの矛盾Contradictionが激化してくると、大正時代Taisho eraの市民文化Citizen cultureは、その基盤であった市民階級middle classの動揺とともにいろいろの面で行き詰まりを示してきた。
それに比べ、激化する労農運動Labor and
agriculture movementや社会運動Social movementとの関連においてマルクス主義Marxismがひろまり、学問の上でも史的唯物論Historical
materialismや、文学・演劇などにプロレタリア文化運動Proletarian
cultural movementが発展した。
しかし、満州事変Manchurian Incident以後は、共産主義Communism・社会主義Socialismに対する弾圧が強化され、それはさらに自由主義Liberalismにまで及んだため、思想文化Thought cultureは停滞した。
川端康成(かわばた・やすなり) Yasunari
Kawabata
横光利一(よこみつ・りいち) Riichi
Yokomitsu
文学literature
当時の文壇(ぶんだん)literary worldは、『文芸時代(ぶんげい・じだい)』によった川端康成(かわばた・やすなり)(『伊豆の踊子』・『雪国』)・横光利一(よこみつ・りいち)(『日輪』・『上海』)らによって、感覚的表現そのものに新しさを求める新感覚派(しんかんかくは) neo-sensualismと呼ばれた一種のモダニズム文学運動Modernist literary movementが流行していたが、一面それは人間喪失の文学Literature of
human lossと評されたように、時代の政治的・社会的動向と直接に関わり合う、かつての気力を失っていた。
そして、ファシズム体制Fascist regimeが支配的となった昭和10年代(1935年~)以降は、ほとんどすべての作家が、自分自身の身辺や心境を書く私小説(ししょうせつ) I-novelに走るに至った。
火野葦平(ひの・あしへい) Ashihei
Hino
『麦と兵隊』(むぎ・と・へいたい)
石川達三(いしかわ・たつぞう) Tatsuzo
Ishikawa
『生きてゐる兵隊』
そのほか、火野葦平(ひの・あしへい)の『麦と兵隊』や石川達三(いしかわ・たつぞう)の『生きてゐる兵隊』(発禁)など、戦争文学War
literatureも発表された。
古関裕而(こせき・ゆうじ) Yuji Koseki
「露営の歌」(ろえい・の・うた) Song of the Camp 1937年(昭和12年)9月
軍歌(ぐんか) military song
勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波
プロレタリア文化運動
プロレタリア文化運動Proletarian cultural movementも発展し、1928年(昭和3年)には全日本無産者芸術連盟(略称ナップNAPF)が結成され、機関紙『戦旗(せんき)』を発行し、そのなかから小林多喜二(こばやし・たきじ)『蟹工船(かにこうせん)』・徳永直(とくなが・すなお)『太陽のない街』などの作品が生まれた。
1931年(昭和6年)には、文学・演劇などのプロレタリア芸術運動Proletarian
art movementと科学運動を統一して、日本プロレタリア文化連盟(略称コップKOPF)が結成されたが、これに対する権力の圧迫は日増しに強くなり、小林多喜二(こばやし・たきじ)は逮捕されて、1933年(昭和8年)に警察で虐殺され、その翌1934年(昭和9年)にコップ(日本プロレタリア文化連盟)は壊滅した。
野呂栄太郎(のろ・えいたろう) Eitaro Noro
日本資本主義発達史講座(にほん・しほんしゅぎ・はったつし・こうざ)
社会科学 Social
science
社会諸科学の諸分野に、マルクス主義Marxismの方法による科学が定着したことは、この時期の大きな特色であった。
とくに、日本資本主義Japanese capitalismの現状と権力の分析に、初めて科学的分析が加えられ、1932年(昭和7年)~1933年(昭和8年)に野呂栄太郎(のろ・えいたろう)を中心に『日本資本主義発達史講座(にほん・しほんしゅぎ・はったつし・こうざ)』が刊行された。
山川均(やまかわ・ひとし) Hitoshi
Yamakawa
猪俣津南雄(いのまた・つなお) Tsunao
Inomata
日本資本主義発達史講座(にほん・しほんしゅぎ・はったつし・こうざ)
「講座(こうざ)Lecture」に参加した人々は講座派(こうざは) Lecture
groupと呼ばれ、雑誌『労農(ろうのう)Labor and
agriculture』によった山川均(やまかわ・ひとし)・猪俣津南雄(いのまた・つなお)らの労農派(ろうのうは)worker-farmer
schoolとの間で、日本の資本主義Japanese capitalismの成立の時期で論争があり、きたるべき革命の性格をめぐり日本資本主義論争(にほん・しほんしゅぎ・ろんそう)Disputes on Japanese capitalismを行った。
学問・思想の弾圧
Repression of scholarship and thought
弾圧Repressionのはじまり
しかし満州事変Manchurian Incident以後は、マルクス主義的研究Marxist researchのみならず、自由主義Liberalism・民主主義Democracy的な研究studyや思想Thoughtにも、弾圧Repressionが加えられた。
野呂栄太郎(のろ・えいたろう) Eitaro Noro
講座派の検挙Lecture group
arrest
講座派学者Lecture scholarの中心であった野呂栄太郎(のろ・えいたろう)は、1933年(昭和8年)に検挙Arrestされたが拷問tortureに屈せず、翌1934年(昭和9年)に獄死Death in prisonした。
二・二六事件(にい・にいろく・じけん) February 26
Incidentの起こった1936年(昭和11年)には、講座派学者Lecture scholarが左翼文化団体Left-wing cultural organization関係者とともに一斉検挙Simultaneous
arrestされた(コム・アカデミー事件)。
大内兵衛(おおうち・ひょうえ) Hyoe Ouchi
有沢広巳(ありさわ・ひろみ) Hiromi
Arisawa
脇村義太郎(わきむら・よしたろう) Yoshitaro
Wakimura
美濃部亮吉(みのべ・りょうきち) Ryokichi
Minobe
人民戦線事件 Popular Front Incident
1937年(昭和12年)の第1次検挙に続き、翌1938年(昭和13年)、労農派(ろうのうは)worker-farmer schoolの大内兵衛(おおうち・ひょうえ)・有沢広巳(ありさわ・ひろみ)・脇村義太郎(わきむら・よしたろう)・美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)らの教授グループが検挙arrestされた。
矢内原忠雄(やないはら・ただお) Tadao
Yanaihara
矢内原事件 Yanaihara
incident
1937年(昭和12年)、真摯なキリスト教徒Christianで、帝国主義Imperialism・植民地Colonyの研究studyを進めてきた東大教授Professor of
the University of Tokyo矢内原忠雄(やないはら・ただお)Tadao Yanaiharaの思想Thoughtが不適当であるとして、東大教授Professor of
the University of Tokyoの地位を追放された。
河合栄治郎(かわい・えいじろう) Eijiro
Kawai
河合栄治郎事件 Eijiro
Kawai Incident
1939年(昭和14年)、イギリス流British styleの自由主義的立場Liberal positionに拠っていた東大教授Professor of the University of Tokyo河合栄治郎(かわい・えいじろう)が、右翼ファシストRight wing fascistに攻撃され、その著書『ファシズム批判』が発売禁止され、東大教授Professor of the University of Tokyoを休職とされ、起訴された。
津田左右吉(つだ・そうきち) Sokichi
Tsuda
津田左右吉事件 Sokichi Tsuda
Incident
1940年(昭和15年)、日本古代史Ancient history of Japanの研究studyを、精密な文献批判と史料の合理主義Rationalism的解釈によって進めてきた津田左右吉(つだ・そうきち)の著書『神代史の研究』・『古事記及び日本書紀の研究』が、不敬思想Disrespectful
thoughtとして国粋主義者ultranationalistたちから攻撃を受け、発売禁止処分にされた。