スピットファイアSupermarine Spitfire
スピットファイアSupermarine Spitfire
スピットファイアSupermarine Spitfire
スピットファイアSupermarine Spitfire
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1938年(昭和13年)
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 586km/h
スピットファイアSupermarine Spitfireは、イギリスBritish Empireのスーパーマリン社Supermarine Aviation Worksで開発Developmentされた単発レシプロSingle Reciprocating engine単座戦闘機Single-Seat Fighterである。
第二次世界大戦World War IIにおいてイギリス空軍Royal Air Forceを始めとする連合軍Allied forcesで使用された1940年(昭和15年)のイギリス防空戦Battle of Britainの際に活躍したため、イギリスBritish Empireをドイツ空軍Nazi Germany's air
forceから救った「救国戦闘機Fighter aircraft
of national salvation」とも呼ばれる。
格闘戦Dogfightを重視し旋回性能を向上させるため楕円形ellipticalで薄いthinnest主翼wingを採用しているのが特徴である。
主任設計技師Chief designerであるR.J.ミッチェルReginald Joseph
Mitchell(1937年死去)とジョセフ・スミスJoseph Smithを始めとするミッチェルMitchellの後継者Successorたちによって設計されたスピットファイアSpitfireは、操縦士Pilotたちからの支持は厚く、第二次世界大戦World War IIのさまざまな状況で活躍した。
基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンEngineの出力向上(しかも排気量Engine displacementはグリフォン・エンジンRolls-Royce Griffonまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、ライセンス生産など含め23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。
スピットファイアSpitfireはイギリス空軍Royal Air Forceの主力戦闘機Main Fighter
aircraftとして採用された。
美しい楕円形の主翼elliptical shaped
wingと引き締まった胴体は同時代の戦闘機Fighter aircraftに較べて構造、空力ともはるかに洗練され、これに傑作エンジンとして名高いロールスロイス・マーリンRolls-Royce “Merlin”液冷エンジンliquid cooled 12
cylinder enginを搭載。
1940年(昭和15年)の夏、イギリスBritish Empireは国家はじまって以来とも言える危機に立たされていた。
第二次世界大戦World War IIの開戦からわずか1年。
破竹の勢いでヨーロッパEuropeを支配してきたナチス・ドイツNazi GermanyがいよいよイギリスBritish Empireに乗り出したのである。
戦闘機Fighter aircraftや爆撃機Bomber 2000機以上を展開して連日激しい爆撃Airstrikeを加えるドイツ軍Nazi Germany's
Armed Forcesに対し、迎え撃つイギリス空軍Royal Air Forceの戦闘機Fighter aircraftはわずか600機足らず。
イギリスBritish Empireの運命は一握りの戦闘機Fighter aircraftとパイロットPilot達に託されたのである。
イギリス防空戦Battle of Britainとして有名なこの戦いで中心となって戦ったのがスピットファイアSpitfireだった。
Nazi
Germanyの主力戦闘機Main Fighter aircraftメッサーシュミットBf109E Messerschmitt Bf
109Eに対して互角以上に渡り合える高性能は大きなアドバンテージとなり、苦戦を強いられながらもイギリス戦闘機隊British Fighter aircraft unitは粘り強く戦った。
ドイツ空軍Nazi Germany's air forceは多くの損害を出し、ナチス・ドイツNazi Germanyはついにイギリス本土British mainland上陸作戦Landing operation(アシカ作戦Operation Sea Lion)を無期延期。
ホーカー・ハリケーンHawker Hurricane
ホーカー・ハリケーンHawker Hurricane
ブリストル・ボーファイターBristol Beaufighter
ブリストル・ボーファイターBristol Beaufighter
ブリストル・ボーファイターBristol Beaufighter
ブリストル・ボーファイターBristol Beaufighter
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1940年(昭和15年)
多用途戦闘機Multirole combat aircraft
最高速度Top speed 516km/h
液冷Liquid-cooled空冷Air-cooled双発Twin-engine複座機Two-Seat aircraft
ブリストル・ボーファイターBristol Beaufighterは、イギリスBritish Empireのブリストル社Bristol Aeroplane Companyが開発し、第二次世界大戦World War IIにおいて主にイギリス空軍Royal Air Forceに運用された戦闘機Fighter aircraft。
名称の「ボーファイターBeaufighter」は、原型となったブリストル・ボーフォートBristol Beaufort雷撃機Torpedo bomberから派生した戦闘機Fighter aircraftという意味の造語である。
また、愛称Nicknameとして「ボーBeau」とも呼ばれた。
本来は長距離を飛行できる昼間戦闘機Daytime Fighterとすべく双発Twin-engineの重戦闘機Heavy fighterとして開発された機体。
戦闘機Fighter aircraftとするには性能不足であったが、搭載量に余裕があったことcarry heavy
armamentから、航空機搭載用レーダーAirborne
Interception radarを装備した夜間戦闘機Night fighterや雷撃機Torpedo bomberなどとして多種多様な任務に使用された。
また、発動機Engineも他機種の生産状況との兼ね合いによって、空冷Air-cooledのハーキュリーズ・エンジンBristol Herculesを搭載した型と液冷Liquid-cooledのマーリン・エンジンRolls-Royce Merlinを搭載した型があるという珍しい機体である。
最初の生産型ブリストル・ボーファイターMk Iは、1940年(昭和15年)9月から実戦に加わり、イギリス防空戦Battle of Britainに続くドイツ機Nazi Germany's
aircraftの夜間空襲Night bombingの迎撃Interceptionに大きな戦果を上げたのである。
このMk IそしてMk IIに続く量産型がボーファイターMk VIで、戦闘機隊配備がF型、沿岸航空隊配備がC型とされた。
エンジンEngineをより強力なハーキュリーズVIとし、C型では胴体後部の偵察員席Observer’s Seatにも7.7mm機銃7.7mm
machine gunsを備え、1942年(昭和17年)に入ると続々と実戦に投入されたのである。
F型はヨーロッパEuropeからアフリカAfrica、中東Middle Eastへも進出して夜間戦闘機Night fighterとして活躍、過酷な砂漠の戦いでも高い信頼性でモスキートMosquitoをしのぐ評価を受けたのである。
またC型も北海North Seaから地中海Mediterranean Seaにいたる広い戦域で対艦、対地攻撃に投入され、魚雷装備の機体を加えた戦闘機Fighter aircraft、爆撃機Bomber、雷撃機Torpedo bomberとしての混成部隊も編制されてドイツNazi Germanyの護衛船団に大きな打撃を与えたのである。
ボーファイターBeaufighterは第二次世界大戦World War IIの後半には太平洋戦域Pacific Ocean theaterにも派遣され、日本軍Imperial Japanese Forcesとも戦うことになる。
その生産数は各型総計5,900機あまりになる。
デ・ハビランド・モスキートde Havilland Mosquito
デ・ハビランド・モスキートde Havilland Mosquito
デ・ハビランド・モスキートde Havilland Mosquito
デ・ハビランド・モスキー de Havilland
Mosquito
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
多用途戦闘機Multirole combat aircraft
最高速度Top speed 667.9 km/h
液冷Liquid-cooled双発Twin-engine複座機Two-Seat aircraft
デ・ハビランド・モスキートde Havilland Mosquitoは第二次世界大戦World War II中、主にイギリス空軍Royal Air Forceで運用された爆撃機Bomber。
開発Development・製造Manufacturingはデ・ハビランド社de Havilland Aircraft Company。
戦闘機Fighter aircraftとしても申し分ないほどの高性能を示し、機体が木製であったことから「木の驚異Wooden Wonder」と呼ばれた。
爆撃機Bomber型・戦闘機Fighter aircraft型以外に、夜間戦闘機Night fighter型や偵察機Reconnaissance aircraft型なども作られた。
モスキートMosquitoはマーリン・エンジンRolls-Royce Merlinを両翼に1基ずつ搭載した双発機Twin-engine
aircraftであり、操縦室Cockpitには操縦士Pilotと航法士Navigatorが並んで座る並列複座戦闘機Two-Seat aircraftであった。
エンジンengineやプロペラpropellerなどを除けば、燃料タンクFuel tankを含めてほとんどの部位に木材Woodを使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもあったが、生産Manufacturingにあたって家具Furnitureなど木工Woodworking分野の工場も動員できる上、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れる、といった副次的なメリットもあった。
木製ゆえレーダーに察知されにくいため、最初期のステルス機Stealth aircraftともいえる存在である。
3つの異なる種類の試作機Prototypeが製作され、爆撃機Bomberの試作であるW4050は1940年(昭和15年)11月25日に初飛行maiden flightを行い、それに続いて、1941年(昭和16年)5月15日に夜間戦闘機Night fighter型、同年6月10日に写真偵察機photo-reconnaissance aircraft型が初飛行maiden flightを行った。
その他にも戦術爆撃機Strategic Bomber、先導機Pathfinder、昼間daytime及び夜間戦闘機Night fighter、攻撃機fighter-bomber、写真偵察機photo-reconnaissance aircraftなど、幅広い任務に投入された。
モスキートMosquitoが投入された最も大胆な作戦はジェリコー作戦Operation Jerichoであり、フランスFranceのアミアン刑務所Amiens Prisonの壁と警備員の宿舎を爆撃し、レジスタンスResistanceのメンバーの脱出を助けた。
インドIndiaおよびビルマビルマBurma方面に投入されたモスキートMosquitoは、日本陸軍機Imperial Japanese Army aircraftのみならず高温多湿の気候が最大の敵となった。
一部の機体を組み上げるのに使用したカゼインCasein系接着剤Adhesiveが劣化、ひび割れて機体外板が剥離して墜落事故をおこす、というものである。
アブロ・ランカスターAvro Lancaster
アブロ・ランカスターAvro Lancaster
アブロ・ランカスターAvro Lancaster
アブロ・ランカスターAvro Lancaster
イギリス空軍Royal Air Force
運用開始Introduction 1942年(昭和17年)
液冷Liquid-cooled四発Four-engine戦略爆撃機Strategic Bomber
最高速度Top speed 450 km/h
乗員Crew 7名 操縦士Pilot・航法士navigator・機関士flight engineer・爆撃手bomb aimer・無線士wireless operator兼機首銃手nose gunner・背部銃手mid-upper gunner・尾部銃手rear gunner
アブロ・ランカスターAvro Lancasterは、アブロ社Avroが開発Developmentし、イギリス空軍Royal Air Forceなどで運用された四発Four-engine戦略爆撃機Strategic Bomber。
名称の「ランカスターLancaster」はランカシャー州Lancashireのランカスター市Lancasterに由来する。
愛称Nicknameは「ランクLanc」。
イギリス空軍Royal Air Forceが1942年(昭和17年)に運用を開始し、スターリングShort Stirling、ハリファックスHalifaxと共にイギリス空軍Royal Air Forceの爆撃機軍団Bomber Commandに配備され、カナダなど他の連合国United Nationsでも使用された主力爆撃機Main Bomber。
特にドイツNazi Germanyに対する夜間Nightの戦略爆撃Strategic bombingで活躍した。
アブロ・ランカスターAvro Lancaster最大の特徴は長さ10.05mの爆弾倉bomb bayである。
この大型爆弾倉large bomb bayによって最初に運搬された大型爆弾large bombは1,800 kg爆弾bomb「クッキーCookie」であった。
重要かつ堅牢な目標を攻撃対象としたB.1スペシャル号は爆弾倉bomb bayの扉を改造し、長さ6.4m、5,448kgのトールボーイTallboyか長さ7.77m、9,979kgのグランドスラムGrand Slamなど地震爆弾earthquake bombを運搬できた。
1941年(昭和16年)、昼間daytimeは米軍US Armed ForcesのB-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying
Fortressが中心となり、夜間Nightは英軍British Armed Forcesのこのアブロ・ランカスターAvro Lancasterが中心となってドイツ本土German mainlandを焼け野原にしていく。
1943年(昭和18年)5月17日に実行された、イギリス空軍Royal Air Force第617飛行中隊No. 617 Squadronのアブロ・ランカスターAvro Lancasterによる、ドイツ工業地帯German Industrial
areaのダムDamの破壊を目的としたチャスタイズ作戦Operation Chastise。
この作戦には「反跳爆弾Bouncing bomb」が使用された。
作戦後、同中隊は「ダム攻撃隊Dam Busters」として知られるようになる。
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109
ナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air force
運用開始Introduction 1937年(昭和12年)
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 630km/h
メッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109は、第二次世界大戦World War IIにおけるナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air forceの主力戦闘機Main Fighter
aircraft。
世界で初めて一撃離脱戦法Hit-and-run tacticsを前提に開発Developmentされたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼Main wingを持ち、エンジン砲Propeller cannonや主脚Main landing gearのエンジン・マウントEngine mountなど、特徴のある設計となっている。
本機の生産数は30,000機を超え、歴史上もっとも生産された戦闘機Fighter aircraftであると同時にエーリヒ・ハルトマンErich Hartmannやゲルハルト・バルクホルンGerhard Barkhornといったエース・パイロットFlying Aceを輩出させた。
1934年(昭和9年)、バイエルン航空機製造Bayerische Flugzeugwerkeで開発Developmentが開始され、翌1935年(昭和10年)、生産開始。
設計主任は、かつてメッサーシュミットBf 108を設計したロベルト・ルッサーRobert Lusser技師。
後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社Messerschmitt AGとなった。
Bf109Fシリーズは、中空のプロペラ軸hollow propeller
hubを通して、そこから発射する機関砲cannon armamentがようやく実用化されたのも特徴で、これにより機首上面の機銃Machine gunと合わせて機軸近くに武装armamentの重量が集中し、空力的洗練と相まって極めてバランスのとれた戦闘機Fighter aircraftに成長し、1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)当時の世界最強の戦闘機the world’s most potent fighterと言われるに至った。
単葉Monoplane、全金属・応力外皮式all-metal monocoque construction、密閉式の風防closed canopy、引込脚retractable landing
gearなど、第二次世界大戦World War IIの単座戦闘機Single-Seat Fighterで主流となる形態を世界に先駆けて備えていた。
ハインケルHe 112 Heinkel He 112との激しい競争試作の末に採用され、スペイン内戦Spanish Civil Warのコンドル部隊Condor Legionに3機が試験的に投入されて以降、改良を重ねて第二次世界大戦World War II終了までドイツ空軍Nazi Germany's air
forceの実質的な主力戦闘機Main Fighter aircraftとして使われた。
加速力に優れ、スピード、機動力Mobile power、上昇力も悪くはなかった。
開発Development時は陸戦Land warfareの直援機Direct cover aircraftとしての性格が強かったため航続力Cruising rangeは劣る。
イギリス防空戦Battle of Britainでは、スピード重視だったこともあり機動力Mobile
powerに優れるスピットファイアSupermarine Spitfireに追い散らされ、爆撃機Bomberを狙うハリケーンHawker Hurricaneには機動力Mobile powerで劣っていたために護衛戦闘機escort fighterの任務は果たせなかった。
回数は少なかったが、アメリカ海軍US Navyやイギリス海軍Royal NavyのF4FワイルドキャットGrumman F4F WildcatやF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcat、さらに地中海Mediterranean
TheatreでP-39エアラコブラBell P-39 Airacobraと戦った。
ドイツNazi Germanyを空爆Airstrikeする爆撃機Bomberの護衛escortとして飛来したP-51マスタングNorth American P-51
MustangのB/C型は、遠目にはメッサーシュミットBf 109と類似しており友軍機Friendly aircraftから誤射shoot the wrong
targetされる事件が度々起きていたため、D型でキャノピーcanopyと塗装を変更し解決した。
フォッケウルフFw 190ヴュルガー Focke-Wulf
Fw 190 Würger
フォッケウルフFw 190ヴュルガー Focke-Wulf
Fw 190 Würger
フォッケウルフFw 190ヴュルガー Focke-Wulf
Fw 190 Würger
フォッケウルフFw 190ヴュルガー
Focke-Wulf
Fw 190 Würger
ナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air force
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
空冷戦闘機Air-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 670 km/h
フォッケウルフFw 190ヴュルガー Focke-Wulf
Fw 190 Würgerは、ドイツNazi Germanyのフォッケ・ヴルフ社Focke-Wulfが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II時にドイツ空軍Nazi Germany's air forceなどで運用された戦闘機Fighter aircraft。
愛称Nicknameの「ヴュルガーWürger」は百舌(もず)Bull-headed shrikeの意。
設計責任者はクルト・タンクKurt Tankで、メッサーシュミット社Messerschmitt AGが開発DevelopmentしたメッサーシュミットBf 109 Messerschmitt Bf 109戦闘機Fighter aircraftとともに第二次世界大戦World War IIにおけるドイツ航空戦力Air powerの主力main forceを担った。
本機は「液冷航空エンジンLiquid-cooled
Aircraft engine王国Kingdom」であった当時のドイツ空軍Nazi Germany's air
forceにあって、初期型が唯一強力な空冷航空エンジンAir-cooled Aircraft engineを搭載した主力戦闘機Main Fighter aircraftとして優れた飛行性能を見せたほか、機体が頑丈で発展性に余裕があり、戦闘爆撃機Fighter-bomber型や対爆撃機型、高速偵察機型など様々な派生型が生産され、また機体の整備・運用の手間に要するコストも比較的少なく、第一次世界大戦World War Iへの従軍経験のあるクルト・タンクKurt Tankの設計コンセプトが具現化し、よく過酷な戦場に耐えて第二次世界大戦World War IIを戦い抜いた。
シリーズの総生産数は20,000機以上。
うち、戦闘爆撃機Fighter-bomber型は6,600機強。
ドイツ空軍Nazi Germany's air force「ルフトヴァッフェ」は緒戦時、メッサーシュミットBf 109を主力main forceに据えて戦った。
しかしメッサーシュミットBf 109は主脚Main landing gearの構造上、着陸時に事故を起こしやすい欠点を持つことや戦力的優位を保つには常にメッサーシュミットBf 109に匹敵するだけの戦闘機Fighter aircraftの開発Developmentを怠ってはならないと考えを持つ者がドイツ航空省内部にいた。
前線投入されたフォッケウルフFw 190はその高い稼働率と1500馬力超のパワーでもってメッサーシュミットBf 109に勝るとも劣らない活躍をした。
初飛行maiden flight当初、技術局は「こんな角ばったずんぐりした飛行機aircraftでイギリス機British aircraftに太刀打ちできるか」とバカにしていたが実戦配備されるやいなや、フォッケウルフFw 190はスピットファイアSupermarine
Spitfireやタイフーンを圧倒しドイツ空軍Nazi Germany's air
forceの主力main forceとして戦争終結までヨーロッパEuropeの空を暴れまわった。
百舌(もず)Bull-headed shrike
ハインケルHe 219ウーフー Heinkel
He 219 Uhu
ハインケルHe 219ウーフー Heinkel
He 219 Uhu
ハインケルHe 219ウーフー Heinkel He 219 Uhu
アブロ・ランカスターAvro Lancaster
ハインケルHe 219ウーフー
Heinkel
He 219 Uhu
ナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air force
運用開始Introduction 1943年(昭和18年)
液冷Liquid-cooled双発Twin-engine複座Two-Seat夜間戦闘機Night fighter
最高速度Top speed 585 km/h
ハインケルHe 219ウーフー Heinkel
He 219 Uhuは、ハインケル社Heinkelが開発Developmentし第二次世界大戦World War II中期からドイツNazi Germanyで運用された夜間戦闘機Night fighterである。
愛称Nicknameの「ウーフーUhu」とは、ワシミミズクEagle-Owlのことである。
ドイツ空軍Nazi Germany's air forceにおいて最初に射出座席Ejection seatを装備した。
洗練された設計sophisticated designで、当時のドイツ空軍Nazi Germany's air
force機Military
aircraftの中ではかなりの優速機であったとされる。
同時期に運用されたイギリス空軍Royal Air Forceのデ・ハビランド モスキートde Havilland Mosquito夜間戦闘爆撃機Night
Fighter-bomberの後期型には低高度では速度で劣ったが、高度12,000 mにおいては勝っていた。
第二次世界大戦World War II下、英空軍Royal Air Forceによるドイツ本土German mainlandへの夜間爆撃night bombingが本格化するなかで、ドイツ空軍Nazi Germany's air forceが爆撃機Bomberを改造した応急的な夜間戦闘機Night fighterしか保持していない事を憂慮したヨーゼフ・カムフーバーJosef Kammhuber大佐は、ハインケル社Heinkelに開発Developmentを停止していた機種の再設計を要請した。
結果、誕生したのが双発Twin-engineの本機this planeである。
1943年(昭和18年)6月1日の夜、ハインケルHe 219ウーフーが、デュッセルドルフDusseldorfに飛来したイギリス空軍Royal Air Force爆撃隊Bomber
unitを迎撃Interception、5機のアブロ・ランカスターAvro Lancasterを撃墜shot downして初陣を飾った。
その後も夜間戦闘機部隊Night fighter unitの天敵Natural enemyであったデ・ハビランド モスキートde Havilland Mosquitoを撃墜shot downするなど、その高性能ぶりを示した。
また、ハインケル社HeinkelはハインケルHe 219ウーフーにジェットエンジンJet engineを搭載することも考慮していたといわれ、そのため、地上で機体の姿勢が水平になる前輪式降着装置tricycle landing gearや、当時としては世界的に珍しい射出座席Ejection seatを搭載したともいわれている。
ワシミミズクEagle-Owl
フィーゼラーFi 156シュトルヒFieseler Fi 156
Storch
フィーゼラーFi 156シュトルヒFieseler Fi 156
Storch
フィーゼラーFi 156シュトルヒFieseler Fi 156
Storch
フィーゼラーFi 156シュトルヒ
Fieseler
Fi 156 Storch
ドイツ国防軍Nazi Germany's Defense Force
運用開始Introduction 1937年(昭和12年)
空冷Air-cooled複座Two-Seat連絡機Liaison aircraft
最高速度Top speed 175km/h
フィーゼラーFi 156シュトルヒFieseler Fi 156
Storchは、ドイツ国防軍Nazi Germany's
Defense Forceにおいて、第二次世界大戦World War II中にあらゆる戦線で空中偵察Reconnaissance、弾着観測Artillery observer、負傷兵輸送など多様な目的に使用された航空機Aircraftである。
シュトルヒStorchとはドイツ語GermanでコウノトリStorkを意味する。
フィーゼラー社Fieselerによって製造Manufacturingされ、戦後Postwarも1950年(昭和25年)代まで自家用機Private airplaneとしてドイツGermany以外の国で生産された。
1935年(昭和10年)、ドイツ航空省Nazi Germany's Ministry of Aviationは数社に対してドイツ空軍Nazi Germany's air force向けの新型New model連絡機Liaison
aircraftの入札を行った。
フィーゼラー社Fieselerが提示した機体は短距離離着陸Short Take-Off and
Landing(STOL)性能Performanceが抜きん出ており、離陸Takeoffには向かい風で50m、着陸Landingには20mで十分であった。
降着装置Landing gearの長い脚landing gearはオイルとスプリングSpringのショックアブソーバーShock absorberを内蔵しており、着陸Landing時には46cmほど縮む。
この機構のおかげで、ほとんどあらゆる場所へ降りることが可能となった。
飛行中、2本の脚landing gearは下方へ垂れ下がっており、このため、非常に長い脚と大きな翼をもった鳥Birdのように見えた。
このことからシュトルヒStorch(ドイツ語GermanでコウノトリStork)という愛称Nicknameが付けられた。
1943年(昭和18年)9月12日、フィーゼラーFi 156シュトルヒはグラン・サッソGran Sassoに幽閉Confinementされていたベニート・ムッソリーニBenito Mussoliniを、ドイツ軍Nazi Germany's Armed Forces支配地域に送り届けるために用いられた。
ヴァルター・ゲールラッハHeinrich Gerlachが操縦するフィーゼラーFi 156は狭いグラン・サッソGran Sassoの山頂mountain-topに30m程度で着陸Landingし、コマンド部隊Commando指揮官Commanding
officerのオットー・スコルツェニーOtto SkorzenyとムッソリーニMussoliniを乗せた上で、重量オーバーoverloadedであったにもかかわらず75mたらずで離陸Takeoffし、ムッソリーニMussoliniをドイツ軍Nazi Germany's Armed Forcesの支配する安全地帯まで運んだ。
(グラン・サッソ襲撃Gran Sasso raid)
鵠の鳥(コウノトリ) Stork
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3m
ナチス・ドイツ空軍Nazi Germany's air force
運用開始Introduction 1932年(昭和7年)
空冷Air-cooled三発Three-engine航空機Aircraft
最高速度Top speed 271km/h
輸送機Transport aircraft中型爆撃機Medium bomber旅客機Airliner
ユンカースJu 52 Junkers Ju 52/3mは、ドイツNazi Germanyのユンカース社Junkers Aircraft and Motor Worksが開発Developmentした航空機Aircraftである。
原型機Prototype(Ju 52/1m)は1930年(昭和5年)に単発Single-engineで初飛行Maiden flightしたが、1932年(昭和7年)にBMWのエンジンBMW 132を3発Three-engineにすることによって性能が向上した。
一般にユンカースJu 52といえばこの3発型 Three-engined
prototypeユンカースJu 52/3mのほうが知られている。
枝番号3mのmは、ドイツ語Germanのエンジンengineを意味する"モトールMotor"の頭文字である。
ドイツ空軍Nazi Germany's air forceの兵士たちからは、タンテ・ユーTante Ju(=「ユーおばさんAunt Ju」の意)と呼ばれ親しまれた。
ユンカースJu 52は、第二次世界大戦World War II開戦までの1930年(昭和5年)代にかけて、ルフトハンザ社Lufthansaの主力旅客機Main Airlinerとして多用され、ベルリンBerlin - ローマRome間を8時間で結ぶなど各路線Airlineで活躍した。
軍用military useでは、1936年(昭和11年)に勃発したスペイン内戦Spanish Civil WarでスペインSpain側やコンドル軍団Condor Legionが運用した。
一部は、銃座Gun mountや爆弾槽Bomb bayを有する爆撃機Bomberとして使われ、ゲルニカ爆撃Bombing of Guernicaに用いられたのも当機this planeである。
第二次世界大戦World War IIではドイツ空軍Nazi Germany's air
forceの主力輸送機Main Transport aircraftとして、電撃戦Lightning warでの空挺降下Paratroopersや戦術輸送Tactical transportに多用されたが、低速で武装が貧弱であるため、多くが撃墜shot downされた。
終戦までに軍民Military and civilian合わせて4,800機あまりが生産された。
アドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerは本機this planeを遊説canvassing tourで好んで使った。