太平洋戦争関連地図Pacific War related map
太平洋戦争Pacific War
太平洋戦争Pacific Warは第二次世界大戦World War II の局面の一つで、日本Imperial JapanやドイツNazi Germanyなど枢軸国Axis powersと、連合国United Nations(主にイギリス帝国British Empire、アメリカ合衆国United States、オランダNetherlandsなど)の戦争における日対米局面を連合国United Nations側から見た呼称である。
日本Imperial Japan側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣Tojo Cabinetが閣議Cabinet meetingで大東亜戦争Greater East Asia Warと決定し、支那事変China Incidentも含めるとされた。
日本軍Imperial Japanese Forcesのイギリス領マレー半島British Malaya攻撃attackにより始まり、その後アメリカ西海岸West Coast of the
USA、アラスカAlaskaからタヒチTahitiやオーストラリアAustraliaを含む太平洋Pacific Oceanのほぼ全域whole areaから、東南アジアSoutheast Asia全域、インド洋Indian OceanのアフリカAfrica沿岸Coastまでを舞台に、枢軸国Axis powersと連合国United Nationsとが戦闘battleを行ったほか、日本Imperial Japanと英British Empire米USA蘭Netherlandsの開戦opening of warを機に蒋介石Chiang Kai-shekの中華民国Republic of China政府Governmentが日本Imperial Japanに対して正式に宣戦布告Declaration of warし、日中戦争Second
Sino-Japanese War(支那事変China Incident)も包括する戦争Warとなった。
マレー作戦Malayan campaign
最初に、日本陸軍Imperial Japanese
Armyが日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明にイギリス領マレー半島British Malaya東北端northeastern edgeのコタバルKota Bharuに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線coastlineで英印軍British Indian Armed Forcesと交戦し、イギリス政府British Governmentに対する宣戦布告Declaration of war前の奇襲Surprise attackによって太平洋戦争Pacific Warの戦端outbreak of warが開かれた。
特殊潜航艇Midget submarine甲標的(こうひょうてき)Target 'A'
駆逐艦ウォードUS Destroyer Ward
ウォード号事件Ward Incident
First
engagement of neutral United States in World War II before the attack on Pearl
Harbor
1941年(昭和16年)12月7日(日本時間1941年(昭和16年)12月8日)に行われた日本海軍航空隊Imperial Japanese Navy Air Serviceの真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor前に、アメリカ領海US territorial sea内で日本海軍Imperial Japanese Navy所属の特殊潜航艇Midget submarine甲標的(こうひょうてき)Target 'A'がアメリカ海軍US Navy所属のウィックス級駆逐艦Wickes-class destroyers「駆逐艦ウォードUS Destroyer Ward」に攻撃、撃沈された事件。
南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Force
空母赤城Aircraft carrier Akagi
空母加賀(かが)Aircraft carrier Kaga
空母蒼龍(そうりゅう)Aircraft carrier Soryu
空母飛龍(ひりゅう)Aircraft carrier Hiryu
空母翔鶴(しょうかく)Aircraft carrier Shokaku
空母瑞鶴(ずいかく)Aircraft carrier Zuikaku
戦艦比叡(ひえい)Battleship Hiei
戦艦霧島(きりしま)Battleship Kirishima
重巡洋艦利根(とね)Heavy cruiser Tone
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
軽巡洋艦阿武隈(あぶくま)Light cruiser Abukuma
真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor
真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor
太平洋戦争Pacific Warにおいて日本海軍Imperial Japanese
Navyが、アメリカ合衆国USAのハワイ準州Territory of Hawaiiオアフ島Oahu真珠湾Pearl
Harborにあったアメリカ海軍US Navyの太平洋艦隊Pacific Fleetとアメリカ軍基地US military baseに対する奇襲攻撃Surprise attack(真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harbor)が、日本時間Japan time 1941年(昭和16年)12月8日午前1時30分(ハワイ時間Hawaii time 12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
当時の日本Imperial Japan側呼称は布哇海戦(はわい・かいせん)である。
大東亜戦争Greater East Asia Warにおける南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignの一環として、イギリスBritish Empireに対するマレー作戦Malayan campaignに次いで実施された。
戦闘battleの結果、アメリカ太平洋艦隊US Pacific Fleetの戦艦部隊Battleship unitは戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦opening
of war初頭にアメリカ軍艦隊US Fleetに大打撃を与えて、側面から南方作戦(なんぽう・さくせん)Southern campaignを援護するという作戦目的を達成した。
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
ニイタカヤマノボレ
1941年(昭和16年)11月17日、連合艦隊司令長官Commander-in-Chief of the Combined Fleet山本五十六(やまもと・いそろく)海軍大将Admiralは佐伯湾(さいき・わん)(大分県佐伯市)にあった空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier
Akagiを訪れ、機動部隊Mobile Unit/Force将兵を激励するとともに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦Hawaii campaignの重要性を強調している。
1941年(昭和16年)11月22日、第一航空艦隊First Air Fleet司令長官Commander-in-Chiefである南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将指揮下の旗艦flagship赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiおよび加賀(かが)・蒼龍(そうりゅう)・飛龍(ひりゅう)・翔鶴(しょうかく)・瑞鶴(ずいかく)を基幹とする日本海軍Imperial Japanese Navy空母Aircraft carrier機動部隊Mobile Unit/Forceは択捉島(えとろふ・とう)Iturup Islandの単冠湾(ひとかっぷ・わん)Hitokappu Bayに集結。
11月26日8時、南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/ForceはハワイHawaiiへ向けて単冠湾(ひとかっぷ・わん)Hitokappu Bayを出港した。
12月2日17時30分、大本営Imperial General Headquartersより機動部隊Mobile Unit/Forceに対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の電文Telegramが発信sendされた。
ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領Imperial Japanese
territoryであった台湾Taiwanの山の名(現・玉山)で当時の日本Imperial Japanの最高峰(3952m)、一二〇八(ひとふたまるはち)とは12月8日のことで、「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の暗号文coded message。
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft
九七式艦上攻撃機
Type 97
Carrier Attack Aircraft
日本海軍Imperial Japanese Navy
制式採用Introduction 1937年(昭和12年)(皇紀2597年)
三座艦上攻撃機Three-Seat Carrier-borne Attack Aircraft
最高速度Top speed 377.8km/h
乗員Crew 3名crew of three
操縦士Pilot
航法士navigator兼爆撃手bombardier兼偵察員observer
無線士radio operator兼機銃手gunner
九七式艦上攻撃機(きゅうななしき・かんじょう・こうげきき)Type 97 Carrier
Attack Aircraftは、日本海軍Imperial Japanese Navyの艦上攻撃機Carrier-borne
Attack Aircraft。
競争試作Competitive trialされた2機種が両方とも採用adoptionされたため、この名を持つ飛行機Aircraftには全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。
略称Abbreviationは九七式艦攻または九七艦攻。
アメリカUSA側のコードネームCode nameは、中島製の一号/三号がケイトKate、三菱製の二号がメイベルMabel。
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft
1935年(昭和10年)に日本海軍Imperial Japanese Navyが中島飛行機Nakajima Aircraft
Company、三菱重工業Mitsubishi Heavy Industriesに十試艦上攻撃機としての競争試作Prototypeを命じ、1937年(昭和12年)に中島案を九七式一号艦上攻撃機、三菱案を九七式二号艦上攻撃機として、共に採用した。
競争試作Competitive trialであるにもかかわらずどちらも採用adoptionされた理由は、両者の間に決定的な性能差がなかったためである。
日本海軍Imperial Japanese Navyとしては、初のfirst全金属製all-metalの低翼単葉機low-wing monoplaneであり、一号型は国産単発機Single-engine plane初のfirst引込脚retracting
gearを採用。
それまでの九六式艦上攻撃機Type 96 Carrier
Attack Bomberに比べ、最高速度Top speedは約100km/hも向上した。
制式採用Formal adoption後間もなく日中戦争Second
Sino-Japanese Warに投入された。
真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborでは九七式三号艦上攻撃機143機が出撃し、雷撃隊Torpedo bombersはアメリカ海軍太平洋艦隊United States
Pacific Fleetの戦艦Battleship 4隻を含む6隻の艦艇Naval vesselを雷撃Torpedo attack、魚雷Torpedo 36発を命中(米側資料では23本)させている。
なお淵田美津雄(ふちだ・みつお)Mitsuo Fuchida海軍中佐Navy
Commanderが放った
「トラ・トラ・トラTora! Tora! Tora!」
(ワレ奇襲ニ成功セリcomplete surprise
had been achieved)
はこの機体Aircraftから打電wireされた。
虎(とら)Tiger
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber
日本海軍Imperial Japanese Navy
制式採用Introduction 1939年(昭和14年)(皇紀2599年)
複座艦上爆撃機Two-Seat Carrier Bomber
最高速度Top speed 381.5 km/h
乗員Crew 2名
九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしき・かんじょう・ばくげきき)Type 99 Carrier
Bomberは、1936年(昭和11年)「十一試艦上爆撃機Experimental 11-Shi Carrier Bomber」として試作Prototypeが始まり、愛知航空機(あいち・こうくうき)Aichi Kokukiが受注・生産を行い、太平洋戦争Pacific War初期に活躍した、日本海軍Imperial Japanese
Navyの艦上急降下爆撃機Carrier-borne dive bomber。
略称Abbreviationは九九式艦爆、もしくは九九艦爆。
記号はD3A。
アメリカUSA側コードネームCode nameはヴァルVal。
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomberは、零式艦上戦闘機Type 0 carrier
fighter・九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier
Attack Aircraftと共に、太平洋戦争Pacific War前期の日本海軍Imperial Japanese Navyの快進撃を支え、真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborやセイロン沖海戦Indian Ocean raidなどで高い急降下爆撃Dive bombing命中率を示した。
続いて、九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier
Bomberは南方攻略作戦Southern campaignに投入される。
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomberはこの後も戦場に投入され続け、戦歴は珊瑚海海戦Battle of the Coral Sea、ミッドウェー海戦Battle of Midway、ソロモン海戦Battle of the Solomon Sea、南太平洋海戦Battle of the South
Pacific、マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea、フィリピン島決戦Battle of the Philippines、沖縄決戦Battle of Okinawaに至る。
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた)Zero fighter Model
21
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた)Zero fighter Model
21
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた)Zero fighter Model
21
零戦二一型Zero fighter Model 21
栄一二型Sakae 12星型エンジンRadial engineを搭載。
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた)Zero fighter Model
21は零戦一一型Zero fighter Model 11を基に空母Aircraft Carrierへの搭載Onboardを前提として本格的に量産された型である。
零戦一一型Zero fighter Model 11の翼幅Wingspan 12mは空母Aircraft Carrierのエレベーター寸法を考慮して決められていたが、実際に運用してみると不都合が多く、翼端Wing tipを50cmずつ折り畳める機能が追加された他、零戦一一型Zero fighter Model 11では省略されていた着艦フックArresting hookや無線帰投方位測定器といった艦上機Carrier-based
Aircraft用装備も追加された。
真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborを始めとする太平洋戦争Pacific Warの緒戦に実戦投入され、その長大な航続距離very long rangeと卓越した運動性能excellent
maneuverability、20mm機関砲20mm Autocannon 2挺の大火力はアメリカ軍US Armed Forcesに衝撃を与え、当時の日本軍Imperial Japanese Forcesの快進撃と相まって多くの零戦Zero fighter伝説Legendを生み出すこととなった。
開戦直前に起きた下川事件の対策として主翼強度を増す設計変更が行われた結果、採用当初には509.3km/hだった最高速度Top speedが533.4km/hにまで向上している。
生産数は三菱製が740機、1944年(昭和19年)春まで生産された中島製(ライセンス生産Licensed production)が2,821機であった。
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1927年(昭和2年)
天城型巡洋戦艦Amagi-class battlecruiser 2番艦2nd
vessel
全長Length 260.67m
排水量Displacement 42,000metric tons
最大速力Top speed 31.5knots(58.3km/h)
乗員数Complement 1,630
搭載機数Aircraft carried 66
艦上機Carrier-based aircraft 66
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 21
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 18
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 27
赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
軍艦赤城(あかぎ)Warship Akagiは、天城型巡洋戦艦Amagi-class
battlecruiserの2番艦2nd vesselとして起工された未成艦still under construction vesselを空母Aircraft carrierに改造convertされたもの。
呉海軍工廠Kure Naval Arsenalで建造Construction。
三段式three flight decks空母Aircraft carrierとして完成したが、後に一段全通式single enlarged
flight deck空母Aircraft carrierに改装された。
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunkした。
赤城(あかぎ)の艦名vessel nameは群馬県前橋市の赤城山(あかぎやま)Mount Akagiにちなんで命名された。
同型艦Same type vesselの天城(あまぎ)Battlecruiser Amagi同様、巡洋戦艦Battlecruiserの命名基準に則り山Mountainから名前が取られ、その名前のまま空母Aircraft carrierに改装された。
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
1941年(昭和16年)4月、第一航空艦隊First Air Fleet(長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将)が編制され、赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiは加賀(かが)Aircraft carrier
Kagaおよび駆逐艦Destroyer 2隻とともに第一航空戦隊First Air Divisionとして編入された。
第一航空艦隊First Air Fleetは編制とともに真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborの準備を進めた。
1941年(昭和16年)11月26日に単冠湾(ひとかっぷ・わん)Hitokappu Bayを出港し、南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Forceの旗艦flagshipとして一路ハワイHawaii・真珠湾Pearl Harborへと向かった。
1941年(昭和16年)12月、真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborに参加。
赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiからは、第一次攻撃隊第一波として、九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 27機、零戦Zero fighter 9機が出撃。
第一次攻撃隊第二波として、九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier
Bomber 18機、零戦Zero fighter 9機が出撃。
12月8日午前1時30分、淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐率いる第一次攻撃隊第一波は赤城(あかぎ)Aircraft carrier
Akagiから発進した。
日本軍Imperial Japanese Forces航空隊Air
Corpsの奇襲surprise attackにより、アメリカ軍太平洋艦隊US Pacific Fleetは潰滅した。
赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiは日本Imperial Japanへの帰路につき、12月24日、日本本土Japanese mainlandに到着した。
1942年(昭和17年)1月下旬ラバウルRabaulを攻撃し(ラバウルの戦いBattle of Rabaul)、2月中旬のオーストラリアAustraliaの港湾都市ダーウィンDarwinを空襲Airstrike(ダーウィン空襲Bombing of Darwin)、3月5日チラチャップChilachap攻撃(バタビア沖海戦Battle of Sunda
Strait)と南太平洋South Pacificを転戦する。
1942年(昭和17年)3月26日、セレベス島Celebesを出港し、インド洋Indian Oceanへ進出する。
1942年(昭和17年)4月、セイロン沖海戦Indian Ocean raidでは、他の空母Aircraft carrierとともにイギリス海軍Royal Navy重巡洋艦ドーセットシャーHeavy cruiser
Dorsetshire、空母ハーミーズAircraft carrier
Hermesを撃沈するなど破竹の進撃を続けた。
空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi
ミッドウェー海戦Battle of Midway
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midwayに参加。
日本時間6月5日午前1時30分、日本軍南雲(なぐも)機動部隊Mobile Unit/Forceはミッドウェー島Midway Atollのアメリカ軍US Armed Forces基地に攻撃部隊Attack unitを発進させた。
赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiからは零戦Zero fighter 9機、九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomberの稼働全18機が発進した。
航空機格納庫Aircraft hangarでは、魚雷torpedoを搭載した九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraftが米軍US Armed Forces機動部隊Mobile Unit/Force出現に備えて待機している。
6月5日午後11時55分、空母飛龍(ひりゅう)Aircraft carrier Hiryuの喪失により勝敗が決したことを悟った山本五十六(やまもと・いそろく)司令長官Commander-in-Chiefは、ミッドウェーMidway攻略中止を各部隊に命じる。
日本時間6月5日午後11時50分、山本司令長官は、かつて艦長Captainをつとめていた赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiの処分を命令した。
6月6日午前2時、駆逐艦嵐(あらし)Destroyer Arashi、野分(のわき)Destroyer Nowaki、萩風(はぎかぜ)Destroyer Hagikaze、舞風(まいかぜ)Destroyer Maikazeは赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiの右舷に対し魚雷Torpedo各1本を発射した。
4本の魚雷Torpedoのうち2ないし3本が命中。
1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagiは沈没Sunkした。
空母加賀(かが)Aircraft carrier Kaga
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1928年(昭和3年)
加賀型戦艦Kaga-class battleship
全長Length 247.65m
排水量Displacement 38,813metric tons
最大速力Top speed 28 knots(52 km/h)
乗員数Complement 1,708
搭載機数Aircraft carried 75
艦上機Carrier-based aircraft 75
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 21
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 27
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 27
空母加賀(かが)Aircraft carrier Kagaは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunk。
空母蒼龍(そうりゅう)Aircraft carrier Soryu
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1937年(昭和12年)
日本初Japan's firstの本格的空母Full-scale aircraft
carrier
全長Length 227.5m
排水量Displacement 19,100metric tons
最大速力Top speed 34knots(63 km/h)
乗員数Complement 1,100
搭載機数Aircraft carried 57
艦上機Carrier-based aircraft 57
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 21
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 18
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 18
空母蒼龍(そうりゅう)Aircraft carrier Soryuは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
第二航空戦隊Second Carrier Division所属艦Affiliated ship。
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunk。
空母飛龍(ひりゅう)Aircraft carrier Hiryu
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1939年(昭和14年)
蒼龍Aircraft carrier Soryuの同型艦 Same
type shipとして計画project・建造Construction
全長Length 227.4m
排水量Displacement 20,570metric tons
最大速力Top speed 34knots(63 km/h)
乗員数Complement 1,100
搭載機数Aircraft carried 57
艦上機Carrier-based aircraft 57
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 21
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 18
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 18
空母飛龍(ひりゅう)Aircraft carrier Hiryuは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦Battle of Midwayで沈没Sunk。
空母翔鶴(しょうかく)Aircraft carrier Shokaku
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1941年(昭和16年)
翔鶴型航空母艦Shokaku-class aircraft carrierの1番艦First
ship
全長Length 257.5m
排水量Displacement 26,087metric tons
最大速力Top speed 34.2kn(63.3 km/h)
乗員数Complement 1,660
搭載機数Aircraft carried 72
艦上機Carrier-based aircraft 72
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 18
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 27
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 27
空母翔鶴(しょうかく)Aircraft carrier Shokakuは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
翔鶴型航空母艦Shokaku-class aircraft carrierの1番艦First
shipとして、太平洋戦争Pacific Warで活躍した。
1944年(昭和19年)6月19日、マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Seaで沈没Sunk。
空母瑞鶴(ずいかく)Aircraft carrier Zuikaku
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1941年(昭和16年)
翔鶴型航空母艦Shokaku-class aircraft carrierの2番艦Second
ship
全長Length 257.5m
排水量Displacement 26,087metric tons
最大速力Top speed 34.2kn(63.3 km/h)
乗員数Complement 1,660
搭載機数Aircraft carried 72
艦上機Carrier-based aircraft 72
1941年(昭和16年)12月7日保有機Owned aircraft
零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 18
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomber 27
九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraft 27
空母瑞鶴(ずいかく)Aircraft carrier Zuikakuは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの航空母艦Aircraft carrier。
翔鶴型航空母艦Shokaku-class aircraft carrierの2番艦Second
ship。
太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)末期の1944年(昭和19年)10月25日にレイテ沖海戦Battle of Leyte Gulfで沈没Sunk。
戦艦比叡(ひえい)Battleship Hiei
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1914年(大正3年)8月4日
金剛型戦艦Kongo-class battleship 2番艦Second
ship
全長Length 222m
排水量Displacement 37,187metric tons
最大速力Top speed 30knots(56km/h)
乗員数Complement 1,360
戦艦比叡(ひえい)Battleship Hieiは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの巡洋戦艦Battlecruiser、後に戦艦Battleship、練習戦艦となる。
1942年(昭和17年)11月13日、第三次ソロモン海戦Third Battle of the Solomon Sea後に自沈Sunk。
戦艦霧島(きりしま)Battleship Kirishima
日本海軍Imperial Japanese Navy
就役In service 1915年(大正4年)4月19日
金剛型戦艦Kongo-class battleshipの4番艦Fourth ship。
全長Length 222m
排水量Displacement 37,187metric tons
最大速力Top speed 30knots(56km/h)
乗員数Complement 1,360
戦艦霧島(きりしま)Battleship Kirishimaは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの軍艦Warship。
建造Construction時は巡洋戦艦Battlecruiser。
後に戦艦Battleshipに艦種が変更された。
金剛型戦艦Kongo-class battleshipの4番艦Fourth ship。
1942年(昭和17年)11月15日に第三次ソロモン海戦Third Battle of the Solomon Seaに於いて沈没Sunk。
重巡洋艦利根(とね)Heavy cruiser Tone
日本海軍Imperial Japanese Navy
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisers 1番艦Lead ship
就役In service 1938年(昭和13年)11月20日
全長Length 201.6m
排水量Displacement 11,213metric tons
最大速力Top speed 35knots(65km/h)
乗員数Complement 874
搭載機数Aircraft carried 6 (カタパルト2基2 catapults)
零式水上偵察機Type Zero Reconnaissance Seaplane
九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane
零式水上偵察機Type Zero Reconnaissance Seaplane
三座単葉水上偵察機Three-Seat Monoplane reconnaissance seaplane
1940年(昭和15年)(皇紀2600年)制式採用
九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane
複座複葉水上偵察機Two-Seat Biplane reconnaissance seaplane
1935年(昭和10年)(皇紀2595年)制式採用
重巡洋艦利根(とね)Heavy cruiser Toneは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの重巡洋艦Heavy cruiser。
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisersの1番艦Lead ship。
1945年(昭和20年)7月28日、米艦載機US Carrier-based aircraftの攻撃で大破着底(呉軍港空襲Attacks on Kure and
the Inland Sea)、戦後解体。
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisers
1番艦Lead ship重巡洋艦利根(とね)Heavy cruiser Tone
2番艦Second ship重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser
Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
日本海軍Imperial Japanese Navy
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisers 2番艦Second ship
就役In service 1939年(昭和14年)5月20日
全長Length 201.6m
排水量Displacement 11,213metric tons
最大速力Top speed 35knots(65km/h)
乗員数Complement 874
搭載機数Aircraft carried 6 (カタパルト2基2 catapults)
零式水上偵察機Type Zero Reconnaissance Seaplane
九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikuma
重巡洋艦筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikumaは、日本海軍Imperial Japanese
Navyが最後に建造Constructionした重巡洋艦Heavy cruiser。
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisersの2番艦Second ship。
その艦名ship nameは、筑摩川(ちくまがわ)(千曲川(ちくまがわ)、信濃川(しなのがわ)の上流部)に因んで命名された。
筑摩(ちくま)Heavy cruiser Chikumaは真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborやミッドウェー海戦Battle of Midwayなど太平洋戦争Pacific Warの重要な戦闘に参加し、レイテ沖海戦Battle of Leyte
Gulfで沈没Sunkした。
利根型重巡洋艦Tone-class heavy cruisers 2隻(利根(とね)、筑摩(ちくま))はいずれも三菱造船長崎造船所Mitsubishi's
Nagasaki shipyardsにて建造Constructionされた。
当初は15.5cm三連装砲塔15.5cm Triple gun turretを搭載予定であった。
軍縮条約脱退により20.3cm連装砲塔20.3cm Twin gun
turret 4基を前甲板に集中させた航空巡洋艦Aircraft cruiserとなったが、書類上は軽巡洋艦Light cruiserである。
1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦Battle of Leyte Gulfでは、アメリカ護衛空母ガンビア・ベイEscort carrier
Gambier Bayの撃沈To sinkに貢献したものの、追撃作戦中に米艦載機US Carrier-based
aircraftの雷撃torpedo attackを受けてサマール島沖off Samarで沈没Sunkした。
護衛空母ナトマ・ベイEscort carrier Natoma Bayから発進したTBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerによる雷撃torpedo attackである。
軽巡洋艦阿武隈Light cruiser Abukuma
日本海軍Imperial Japanese Navy
長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisersの6番艦Sixth ship
就役In service 1925年(大正14年)5月26日
全長Length 162.1m
排水量Displacement 5,659metric tons
最大速力Top speed 36knots(67km/h)
乗員数Complement 450
搭載機数Aircraft carried 1 (カタパルト1基1 catapults)
軽巡洋艦阿武隈(あぶくま)Light cruiser Abukumaは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの軽巡洋艦Light cruiser。
長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisersの6番艦Sixth shipである。
1944年(昭和19年)10月26日にレイテ沖海戦Battle of Leyte Gulfで沈没Sunk。
真珠湾攻撃Attack on Pearl Harbor
アメリカ海軍US Navy
太平洋艦隊Pacific Fleet
司令長官commander-in-chief
ハズバンド・キンメルHusband E. Kimmel大将Admiral
戦艦アリゾナBattleship Arizona
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
ペンシルベニア級戦艦Pennsylvania-class battleshipsの2番艦Second
ship
185.3m 29,626t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
戦艦オクラホマBattleship Oklahoma
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
ネバダ級戦艦Nevada-class battleshipsの2番艦Second ship
178m 27,900t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
戦艦ユタBattleship Utah
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
フロリダ級戦艦Florida-class battleshipsの2番艦Second ship
159.0m 22,175t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
戦艦ウェスト・バージニアBattleship West Virginia
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
コロラド級戦艦Colorado-class battleshipsの4番艦Fourth ship
190m 33,218t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
修理と近代化改装は1944年(昭和19年)7月に完了
戦艦カリフォルニアBattleship California
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
テネシー級戦艦Tennessee-class battleshipsの2番艦Second ship
190.35m 32,818t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
修理と近代化改装は1944年(昭和19年)1月に完了
機雷敷設艦オグララMinelayer Oglala
アメリカ海軍US Navyの機雷敷設艦Minelayer
117.75m 3,806t
機雷敷設艦(きらい・ふせつかん)Minelayerは機雷Naval mineを海中に敷設するための海軍艦艇naval vesselである。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで沈没Sunk
引き揚げられた後、ドック艦に改修され1944年(昭和19年)2月に再就役
戦艦ネバダBattleship Nevada
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
ネバダ級戦艦Nevada-class battleshipsのネームシップName ship
178m 27,900t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、日本軍の第二次攻撃隊の急降下爆撃隊23機が発見、大型艦を真珠湾Pearl Harborの狭い水路に沈め、軍港の水路を塞ぐことを狙って戦艦ネバダBattleship Nevadaに集中攻撃を加えた。
6発の250kg爆弾の命中と2発の至近弾で艦は大きく損傷し脱出は不可能となったため、ホスピタル・ポイントhospital point(避難用浅瀬)に自ら座礁し沈没を回避した。
1942年(昭和17年)2月に引き上げられ、1942年(昭和17年)12月に一旦修理完了し艦隊復帰したが、1943年(昭和18年)に再度ドック入りし近代化改修を受けている。
駆逐艦ショーDestroyer Shaw
アメリカ海軍US Navyの駆逐艦Destroyer。
マハン級駆逐艦Mahan class Destroyersの1隻。
104.04m 1,500t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、艦体の損傷は壊滅的であったが、ドック内におり沈没は免れたため、大修理と近代化改装が施され、1942年(昭和17年)6月に艦隊復帰した。
駆逐艦ダウンズDestroyer Downes
アメリカ海軍US Navyの駆逐艦Destroyer。
カッシン級駆逐艦Cassin-class destroyersの1隻。
93.10m 1,020t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
修復は困難と思われ、一旦除籍されたが、その後船体の残存部分を本土のピュージェット・サウンド海軍造船所Puget Sound Naval
Shipyardに持ち込んで新造並みの補修を行い、1943年(昭和18年)11月再度就役。
駆逐艦カッシンDestroyer Cassin
アメリカ海軍US Navyの駆逐艦Destroyer。
カッシン級駆逐艦Cassin-class destroyersの1隻。
93.10m 1,020t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
駆逐艦カッシンDestroyer Cassinも一旦は除籍されたが、駆逐艦ダウンズDestroyer Downesと同様に大補修により1944年(昭和19年)2月再就役。
工作艦ヴェスタルRepair ship Vestal
アメリカ海軍US Navyの工作艦Repair ship。
141.96m 12,585t
工作艦(こうさくかん)Repair shipとは、旋盤や溶接機、クレーンなどの各種工作機械Machine toolを装備し、艦船の補修・整備などを行う艦船のこと。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
応急修理終了後、自艦と他の艦の修理を並行し、1942年(昭和17年)2月に修理完了。
戦艦テネシーBattleship Tennessee
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
テネシー級戦艦Tennessee-class battleshipsのネームシップName ship。
190.35m 32,818t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
損傷は軽微だったので、1942年(昭和17年)8月には修理完了して一旦艦隊復帰したが、1943年(昭和18年)に再度ドック入りし近代化改修を受けている。
戦艦メリーランドBattleship Maryland
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
コロラド級戦艦Colorado-class battleshipsの2番艦Second ship
190m 33,218t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
しかし損傷は軽微であったため、横で転覆した戦艦オクラホマBattleship Oklahomaの救出活動を行い、多くの生存者を救出した。
1942年(昭和17年)6月一線に復帰。
戦艦ペンシルベニアBattleship Pennsylvania
アメリカ海軍US Navyの戦艦Battleship
ペンシルベニア級戦艦Pennsylvania-class battleshipsのネームシップName ship。
185.3m 29,626t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
修理の際に戦艦オクラホマBattleship Oklahomaと戦艦アリゾナBattleship Arizonaから取り外した主砲を搭載し、1942年(昭和17年)4月から8月まで訓練と巡察をした。
軽巡洋艦ローリーLight cruiser Raleigh
アメリカ海軍US Navyの軽巡洋艦Light cruiser。
オマハ級軽巡洋艦Omaha class Light cruiserの1隻。
169.4m 7,163t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
艦の損傷は大きかったが戦死者は出なかった。
1942年(昭和17年)7月艦隊に復帰。
軽巡洋艦ヘレナLight cruiser Helena
アメリカ海軍US Navyの軽巡洋艦Light cruiser。
セントルイス級軽巡洋艦St. Louis class Light cruiserの2番艦Second
ship。
185.5m 9,924t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
損害は大きかったが沈没には至らず。
1942年(昭和17年)9月艦隊に復帰。
軽巡洋艦ホノルルLight cruiser Honolulu
アメリカ海軍US Navyの軽巡洋艦Light cruiser。
ブルックリン級軽巡洋艦Brooklyn class Light cruiserの1隻。
185.5m 9,924t
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
海軍工廠岸壁に停泊していたが、急降下爆撃機の投下した250kg爆弾が岸壁の突提に着弾し爆発。
その衝撃で鋼板接合部のリベットが弛緩し浸水、一時的に第2主砲塔への通電ができなくなった。
駆逐艦母艦ドビンDestroyer tender Dobbin
アメリカ海軍US Navyの駆逐艦母艦Destroyer tender。
147.47m 12,650t
駆逐艦母艦Destroyer tenderは、駆逐艦Destroyerなどの小型艦艇に対する消耗品などの補給や駆逐艦乗員の休息設備を提供するものである。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
至近弾のうち一発が艦尾の真下で爆発。
断片と衝撃で無線室が破損し死傷者が生じた。
水上機母艦カーティスSeaplane tender Curtiss
アメリカ海軍のカーティス級水上機母艦Curtiss-class
seaplane tenderの1番艦First ship。
160.73m 8,810t
水上機母艦(すいじょうき・ぼかん)Seaplane tenderは、水上機Seaplaneを搭載し、カタパルトcatapultを使用して発進、あるいは水上に降ろして発進させ、着水した水上機Seaplaneを吊り上げて格納する機能を持つ軍艦Warship。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、損傷。
第二次攻撃隊の急降下爆撃機Dive bombing Bomberによる250kg爆弾が1発命中。
水上機格納庫Seaplane hangarが破壊された。
また、対空砲火で損傷した空母蒼龍(そうりゅう)Aircraft carrier
Soryu艦上爆撃隊Carrier bomber corpsの丸山賢治三飛曹と桑原秀安二飛曹の搭乗機が体当たりを行い、クレーンとアンテナを破壊した。
B-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying Fortress
B-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying Fortress
B-17フライング・フォートレス
Boeing
B-17 Flying Fortress
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
運用開始Introduction 1938年(昭和13年)
空冷Air-cooled四発Four-engine大型戦略爆撃機Heavy Strategic
Bomber
最高速度Top speed 426 km/h
乗員Crew 10名
操縦士Pilot
副操縦士co-pilot
航法士navigator
爆撃手bombardier兼機首銃手nose gunner
機関士flight engineer兼上部砲塔銃手top turret gunner
無線士radio operator
側面銃手waist gunners(2)
回転銃座銃手ball turret gunner
尾部銃手tail gunner
B-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying Fortressは、アメリカ合衆国USAのボーイング社Boeing Companyが開発Developmentした大型戦略爆撃機Heavy Strategic Bomber。
愛称Nicknameの「フライング・フォートレスFlying Fortress」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。
第二次世界大戦World War II開戦opening of war後、アメリカ陸軍US Armyの主力爆撃機Main Bomberとして活躍し、主にイギリスBritish Empireを基地とした対ドイツNazi Germanyへの昼間爆撃Daytime Airstrikeに従事した。
護衛戦闘機Escort fighterの航続距離Cruising rangeが充分でなかった1943年(昭和18年)頃まではドイツNazi Germanyの迎撃戦闘機Interceptor
aircraftフォッケウルフ Fw190 Focke-Wulf Fw 190などにより多数の損害が出ていた。
おもに都市への夜間爆撃Night Airstrikeを担当したイギリス空軍Royal Air Forceのアブロ・ランカスターAvro Lancaster爆撃機Bomber以上に、ドイツNazi Germanyの継戦能力を削ぐ立役者となった。
B-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying Fortress
1941年(昭和16年)12月8日に日本海軍Imperial Japanese Navyによって行われた真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborにおいては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17フライング・フォートレス機が日本軍Imperial Japanese Forcesの攻撃隊により地上撃破された。
1942年(昭和17年)2月19日には蘭印作戦Dutch East Indies campaignにおいて、一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter
Hayabusaは、B-17Eとバタビア沖海戦Battle of Sunda Straitにて交戦した。
1942年(昭和17年)5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いAleutian Islands campaignでは、B-17フライング・フォートレスが、アリューシャン列島Aleutian Islandsのアッツ島Attu Islandやキスカ島Kiskaに上陸した日本軍Imperial Japanese Forcesや、それを援護する日本軍Imperial Japanese Forcesの艦船に対する空襲Airstrikeを数度に渡り行っている。
また、南東方面ではポートモレスビーPort Moresbyを主たる基地として出撃し、ラバウルRabaulやブインBuin等の日本軍Imperial Japanese Forces根拠地に対する爆撃Airstrikeのほか、オーストラリアAustralia国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。
ガダルカナル島攻防戦Battle of Guadalcanalにおいて、零戦Zero fighterと交戦した。
航続距離Cruising rangeに優れるB-24リベレーターConsolidated B-24
Liberatorが揃ってくると、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、航続距離Cruising rangeに難のあるB-17は姿を消した。
B-17はB-29スーパーフォートレスBoeing B-29 SuperfortressやB-24リベレーターによる日本本土空襲Air Raid of Japanese mainlandの支援を行った。
B-18ボロDouglas B-18 Bolo
アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsで運用された爆撃機Bomber。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破・損傷。
A-20ハボックDouglas A-20 Havoc
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesで運用された双発Twin-engine攻撃機Attack
aircraft。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破・損傷。
P-36ホークCurtiss-Wright P-36 Hawk
1930年(昭和5年)代後半にアメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsなどで運用されたレシプロ戦闘機Reciprocating
engine fighter aircraft。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破・損傷。
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
運用開始Introduction 1939年(昭和14年)
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 582.6km/h
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawkは、アメリカ合衆国USAのカーチス・ライト社Curtiss-Wright Corporationが開発Developmentしアメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesで運用された戦闘機Fighter aircraft。
性能的には平凡な機体であったが実用性が高く常に量産体制が整っていたこともあり、連合国United Nationsが劣勢であった第二次世界大戦World War II初期に重要な使命を担い、各国軍で広く運用されドイツ軍German Armed Forcesや日本軍Imperial Japanese Forcesと戦った。
愛称Nicknameは三種類あるが、イギリス空軍Royal Air Forceで使用されたものの逆輸入である。
アメリカUSAでの愛称Nicknameは、A型からC型までは「トマホークTomahawk(インディアンが用いた斧)」、D型とE型は「キティホークKittyhawk(ライト兄弟が初飛行に成功した場所)」、F型以降は「ウォーホークWarhawk(アメリカで「タカ派」を指すスラング)」であるが、イギリスBritish EmpireではF型以降もキティホークKittyhawkと呼ばれた。
1940年(昭和15年)代の第二次世界大戦World War II真っ只中、北アフリカ戦線North African
campaignやビルマ戦線Burma Campaignではイギリス空軍Royal Air Forceが、東部戦線Eastern Frontではソ連空軍Soviet Air Forceが、太平洋戦線Pacific Ocean theaterではアメリカ陸軍航空隊US Army Air Forcesやオーストラリア空軍Australian Air Forceが使用して縦横無尽の活躍を見せたP-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk。
P-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawk
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破・損傷。
太平洋戦争Pacific War初期、軽快な日本軍機Imperial Japanese Military aircraftに圧倒された印象の強いカーチスP-40 Curtiss P-40だが、中低高度での飛行性能は必ずしも低いわけではなかった。
確かに第二次世界大戦World War II後半に登場し、枢軸軍Axis forces戦闘機Fighter aircraftを圧倒した最新鋭戦闘機Newest Fighter aircraftほどの性能は持たなかったものの、世代差を考えれば当たり前の話で、むしろそれら最新鋭戦闘機Newest Fighter aircraft登場前は、事実上主力戦闘機Main Fighter
aircraftのひとつとして迎撃Interceptionや制空戦闘Air superiority fighter battle、戦闘爆撃機Fighter Bomberとして連合軍戦線Allied Frontを支えた。
そんな活躍ができた理由は、頑丈で急降下での離脱など荒っぽい戦闘飛行Battle flightによく耐え、防弾装備Bulletproofingを施せるだけのエンジンパワーEngine powerを持つので生残率が高く、大火力Large Armamentで爆弾Bombを搭載するなど幅広い任務に適応するだけの柔軟性を持っていたからである。
そして何より、『手に入るエンジンEngineや武装Armamentを使ってすぐに大量生産mass productionが可能な完成度と量産性を持ち、整備もしやすい』ことが、性能面で尖ったところは無くてもカーチスP-40 Curtiss P-40が広く大量に使われた理由でもあった。
アメリカUSAで大量に生産されたカーチスP-40 Curtiss P-40は世界各国で戦闘機Fighter aircraft不足に悩む戦闘機Fighter aircraft隊に配備され、日本Imperial Japan・ドイツNazi Germany・イタリアItalyを中心とした枢軸国Axis powersの航空攻撃Air attackに対して勇敢に立ち向かい、決してひけをとらなかったのである。
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat
アメリカ海軍US Navy
運用開始Introduction 1940年(昭和15年)12月
艦上戦闘機Carrier-based Fighter
最高速度 512km/h
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatは、アメリカ合衆国USAのグラマン社Grumman Aerospace Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II中に使用された艦上戦闘機Carrier-based Fighterである。
愛称の「ワイルドキャットWildcat」は山猫・野良猫の意味であるが、スラングでは意地悪女という意味も持つ。
グラマン社GrummanではF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat以降、艦上戦闘機Carrier-based
Fighterに『○○キャット』という愛称Nicknameを採用している。
グラマン社Grummanだけではなくゼネラルモーターズ社General Motors
Companyでも「FMワイルドキャットFM Wildcat」として製造された。
生産機数自体はゼネラルモーターズ社General Motors製の機体の方が多い。
また、英海軍Royal Navy航空隊Air unitでも「マートレットMartlet(イワツバメの意)」として運用された。
操縦経験のあるエリック・ブラウンEric Brownは、第二次世界大戦World War II初期に使用された戦闘機Fighter aircraftとしては最優秀の一つと評価している。
山猫Wildcat
アメリカ海軍US Navyは1936年(昭和11年)の新型New model艦上戦闘機Carrier-based
Fighterの開発Developmentを、ブルースター社Brewster、セバスキー社Severskyとともにグラマン社Grummanにも競争試作Prototypeを指示した。
本機の最初の設計案は複葉機Biplane(XF4F-1)であったが、それでは他の案に劣っていたことから単葉機Monoplane(XF4F-2)として再設計され選定試験に応じた。
結果採用されたのはブルースター社Brewsterの提案したF2AバッファローBrewster F2A Buffaloであり、F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatは落選した。
しかしアメリカ海軍US NavyはF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatにも興味を持ち、開発Developmentを続行させた。
第二次世界大戦World War IIの開戦opening of war時アメリカ海軍US Navyの主力艦上戦闘機Main Carrier-based
Fighterとして日本海軍Imperial Japanese Navyの零戦Zero fighterと戦った。
防御力よりも運動性能を重視した零戦Zero fighterとは対照的に、「グラマン鉄工所Grumman Ironworks」と呼ばれる強固な構造と生産性を重視したグラマン社Grummanの設計思想を体現した機体であり、後継機SuccessorのF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatが配備される第二次世界大戦World War II中盤まで主力艦上戦闘機Main Carrier-based Fighterとして使用された。
太平洋戦争Pacific War初期において、珊瑚海海戦Battle of the Coral
Sea、ミッドウェー海戦Battle of Midwayなどに参加した。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、日本軍機動部隊Imperial Japanese Mobile Unit/Force発見のために空母エンタープライズAircraft carrier
Enterpriseより発艦したF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatが燃料補給のためにフォード基地に着陸しようとしたところ、日本軍機Imperial Japanese Military aircraftと誤認した兵士らから集中砲撃を浴びて4機が撃墜され3名のパイロットが戦死している。