6節 2 日本の航空機 2
Japanese aircraft 2
真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor
真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor
太平洋戦争関連地図 Pacific War related map
空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi
空母赤城(あかぎ) Aircraft carrier Akagi
九七式艦上攻撃機
Type 97 Carrier Attack Aircraft
日本海軍Imperial Japanese
Navy
制式採用Introduction 1937年(昭和12年)(皇紀2597年)
三座艦上攻撃機Three-Seat Carrier-borne Attack Aircraft
最高速度Top speed 377.8km/h
乗員Crew 3名crew of three
操縦士Pilot
航法士navigator兼爆撃手bombardier兼偵察員observer
無線士radio operator兼機銃手gunner
九七式艦上攻撃機(きゅうななしき・かんじょう・こうげきき)Type 97 Carrier Attack Aircraftは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの艦上攻撃機Carrier-borne Attack Aircraft。
競争試作Competitive trialされた2機種が両方とも採用adoptionされたため、この名を持つ飛行機Aircraftには全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。
略称Abbreviationは九七式艦攻または九七艦攻。
アメリカUSA側のコードネームCode
nameは、中島製の一号/三号がケイトKate、三菱製の二号がメイベルMabel。
1935年(昭和10年)に日本海軍Imperial Japanese Navyが中島飛行機Nakajima Aircraft Company、三菱重工業Mitsubishi Heavy
Industriesに十試艦上攻撃機としての競争試作Competitive trialを命じ、1937年(昭和12年)に中島案を九七式一号艦上攻撃機、三菱案を九七式二号艦上攻撃機として、共に採用した。
競争試作Competitive trialであるにもかかわらずどちらも採用adoptionされた理由は、両者の間に決定的な性能差がなかったためである。
日本海軍Imperial Japanese
Navyとしては、初のfirst全金属製all-metalの低翼単葉機low-wing monoplaneであり、一号型は国産domestic production単発機Single-engine plane初のfirst引込脚retracting gearを採用。
それまでの九六式艦上攻撃機Type 96 Carrier Attack Bomberに比べ、最高速度Top speedは約100km/hも向上した。
九六式艦上攻撃機 Type 96 Carrier Attack Bomber
九七式艦上攻撃機 Type 97 Carrier Attack Aircraft
制式採用Formal adoption後間もなく日中戦争Second
Sino-Japanese Warに投入された。
真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborでは九七式三号艦上攻撃機143機が出撃し、雷撃隊Torpedo bombersはアメリカ海軍太平洋艦隊United States Pacific Fleetの戦艦Battleship 4隻を含む6隻の艦艇Naval vesselを雷撃Torpedo attack、魚雷Torpedo 36発を命中(米側資料では23本)させている。
なお淵田美津雄(ふちだ・みつお)Mitsuo Fuchida海軍中佐Navy Commanderが放った
「トラ・トラ・トラTora! Tora! Tora!」
(ワレ奇襲ニ成功セリcomplete surprise had been achieved)
はこの機体Aircraftから打電wireされた。
淵田美津雄(ふちだ・みつお) Mitsuo Fuchida
虎(とら) Tiger
九九式艦上爆撃機
Type 99 Carrier Bomber
日本海軍Imperial Japanese
Navy
制式採用Introduction 1939年(昭和14年)(皇紀2599年)
複座艦上爆撃機Two-Seat Carrier
Bomber
最高速度Top speed 381.5 km/h
乗員Crew 2名
九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしき・かんじょう・ばくげきき)Type 99 Carrier Bomberは、1936年(昭和11年)「十一試艦上爆撃機Experimental 11-Shi Carrier Bomber」として試作Prototypeが始まり、愛知航空機(あいち・こうくうき)Aichi
Kokukiが受注receive
an order・生産productionを行い、太平洋戦争Pacific War初期に活躍した、日本海軍Imperial Japanese
Navyの艦上急降下爆撃機Carrier-borne dive bomber。
略称Abbreviationは九九式艦爆、もしくは九九艦爆。
アメリカUSA側コードネームCode
nameはヴァルVal。
九九式艦上爆撃機Type 99
Carrier Bomberは、零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter・九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraftと共に、太平洋戦争Pacific War前期の日本海軍Imperial Japanese
Navyの快進撃steady advanceを支え、真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborやセイロン沖海戦Indian Ocean raidなどで高い急降下爆撃Dive bombing命中率accuracy rateを示した。
続いて、九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier Bomberは南方攻略作戦Southern campaignに投入される。
九九式艦上爆撃機Type 99
Carrier Bomberはこの後も戦場に投入Put on the
battlefieldされ続け、戦歴Battle historyは珊瑚海海戦Battle of the Coral Sea、ミッドウェー海戦Battle of Midway、ソロモン海戦Battle of the Solomon Sea、南太平洋海戦Battle of the South
Pacific、マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea、フィリピン島決戦Battle
of the Philippines、沖縄決戦Battle of Okinawaに至る。
九九式艦上爆撃機 Type 99 Carrier Bomber
零戦二一型 Zero fighter Model 21
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた)Zero fighter Model 21
栄一二型Sakae 12星型エンジンRadial engineを搭載。
零戦二一型Zero fighter Model
21は零戦一一型Zero fighter Model
11を基に空母Aircraft Carrierへの搭載Onboardを前提として本格的に量産された型Full-scale
mass-produced moldである。
零戦一一型Zero fighter Model
11の翼幅Wingspan 12mは空母Aircraft Carrierのエレベーター寸法Elevator
dimensionsを考慮して決められていたが、実際に運用してみると不都合が多く、翼端Wing tipを50cmずつ折り畳める機能Foldable
functionが追加された他、零戦一一型Zero fighter Model 11では省略されていた着艦フックArresting hookや無線帰投方位測定器radio direction finderといった艦上機Carrier-based Aircraft用装備も追加された。
真珠湾攻撃Attack on Pearl
Harborを始めとする太平洋戦争Pacific Warの緒戦The beginning of the warに実戦投入introduced into Actual battleされ、その長大な航続距離very long rangeと卓越した運動性能excellent maneuverability、20mm機関砲20mm Autocannon 2挺の大火力Large firepowerはアメリカ軍US Armed Forcesに衝撃impactを与え、当時at that timeの日本軍Imperial Japanese Forcesの快進撃steady advanceと相まって多くの零戦Zero fighter伝説Legendを生み出すこととなった。
開戦直前に起きた下川事件の対策として主翼強度を増す設計変更が行われた結果、採用当初には509.3km/hだった最高速度Top speedが533.4km/hにまで向上している。
生産数Production numberは三菱製が740機、1944年(昭和19年)春まで生産productionされた中島製(ライセンス生産Licensed production)が2,821機であった。
零戦二一型(ぜろせん・にー・いち・がた) Zero fighter Model 21
マレー沖海戦 Naval Battle of
Malaya
九六式陸上攻撃機
Type 96 Land-based Attack Aircraft
日本海軍Imperial Japanese
Navy
制式採用Introduction 1936年(昭和11年)(皇紀2596年)
双発Twin-engine陸上攻撃機Land-based Attack
Aircraft
最高速度Top speed 373.2 km/h
乗員Crew 7名
九六式陸上攻撃機(きゅうろくしき・りくじょう・こうげきき)は、日本海軍Imperial Japanese
Navyの陸上攻撃機Land-based Attack Aircraft。
九五式陸上攻撃機Type 95 Land-based
Attackerの後継機Successorであり、九六式艦上戦闘機Type 96 Carrier-based Fighterと並んで、日本Imperial Japanの航空技術aeronautical
technologyが欧米Europe
and Americaと同等のレベルEquivalent levelまで進んだことを示した最初の機体Aircraftである。
当時at that timeとしては高い航続性能Long
cruising performanceを有し、支那事変China Incidentから太平洋戦争Pacific Warの初期early yearsまで第一線the forefrontで活躍activeした。
なお海軍Navyの命名法naming schemeによって急降下爆撃Dive bombingができない本機this planeは爆撃機Bomberではなく攻撃機Attack Aircraftとされた。
略称Abbreviationは九六陸攻(きゅうろく・りくこう)。
後継機Successorの一式陸上攻撃機Type 1
Land-based Attack Aircraftとともに、中型攻撃機Medium Attack Aircraftとして作られたことから通称commonly known by「中攻」と呼ばれた。
連合国軍Allied forcesのコードネームCode
nameはネルNell。
開発Development・製造Manufacturingは三菱重工業Mitsubishi Heavy
Industries、中島飛行機Nakajima Aircraft Company。
日中戦争Second
Sino-Japanese Warでは航続性能cruising performanceを生かし、設計本来の目的Original purpose of designではない対地爆撃Ground bombingに多用wide useされた。
まず台湾Taiwanや九州の基地baseを発進し、東シナ海East China Seaを越え、第二次上海事変Battle
of Shanghaiで孤立する現地部隊を支援する爆撃Bombingを行い帰還した。
これは渡洋爆撃(とよう・ばくげき)transoceanic Bombingとして国内に大きく宣伝され名を揚げた一方で、戦闘機Fighter aircraftに撃墜shot downされるなど被害も多かった。
九六式陸上攻撃機 Type 96 Land-based Attack Aircraft
P-26ピーシューター Boeing P-26 Peashooter
1937年(昭和12年)8月20日に南京Nankingを空襲Air-raidした際には迎撃InterceptionしたP-26ピーシューターBoeing P-26
Peashooterに敵損害なしで6機が撃墜shot downされるなど、渡洋爆撃(とよう・ばくげき)transoceanic Bombing初期から損害が続出していたが、随伴できる戦闘機Fighter aircraftは存在しなかった。
このため長距離飛行Long-distance flightが可能な戦闘機Fighter aircraftの必要性が真剣に検討され、十三試双発陸上戦闘機13-Shi Land-based Twin-engine Fighter、後の月光(げっこう)Moonlight夜間戦闘機Night fighterの誕生につながった。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズ Battleship Prince of Wales
1941年(昭和16年)12月10日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraftと協同In cooperationでイギリスBritish Empireの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulseを撃沈attack and sunkし、戦艦に対する航空優位Aviation advantage over battleshipsを印象付けた。
九六式陸上輸送機 Type 96 Land-based transport aircraft
なお、「空の神兵(そらの・しんぺい)God soldier of the Sky」として国民に広く知られる事となる日本海軍Imperial Japanese
Navy空挺部隊Airborne forcesを運搬したのも、九六式陸上攻撃機Type 96
Land-based Attack Aircraftの輸送機Military transport aircraft版である九六式陸上輸送機Type 96
Land-based transport aircraftである。
月光(げっこう) Moonlight
夜間戦闘機 Night fighter
日本海軍Imperial Japanese Navy
1943年(昭和18年)(皇紀2603年)制式採用Formal adoption
双発Twin-engine複座Two-Seat夜間戦闘機Night fighter
最高速度maximum speed 507.4km/h
月光(げっこう)Moonlightは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの夜間戦闘機Night fighter。
連合軍Allied forcesが本機This aircraftに与えたコードネームCode nameはアーヴィングIrving。
開発Development・製造Manufacturingは中島飛行機Nakajima Aircraft Company。
日中戦争Second
Sino-Japanese Warにおいて、大距離出撃Large range sortieは、航法、通信能力の面で、戦闘機隊単独Fighter corps aloneでは無理であったことから、戦闘機Fighter aircraftとほぼ同じ空中戦闘能力Air combat capabilityを持ち、航法、通信能力、航続力のある飛行機aircraft、いわば誘導戦闘機Guided fighterというようなものが必要になった。
これを受けた中島飛行機Nakajima Aircraft Companyで開発Developmentに当たった。
月光(げっこう)Moonlightに装備Equipmentされた斜銃(しゃじゅう)Oblique gunとは、機軸に対して上方または下方に30度前後の仰角を付けて装備された航空機銃Aircraft artilleryである。
利点はB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressの弱点weak point(後ろ下方からの攻撃に弱い)に対し攻撃占位運動が容易であること、攻撃態勢保持時間が長いことが挙げられる。
月光(げっこう)Moonlightの生産機数Number of
productionは二式陸上偵察機Type 2 Reconnaissance Planeも含めて477機で、この内40機が終戦時に残存していた。
月光(げっこう)の登場により、一時はB-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying
FortressやB-24リベレーターConsolidated B-24
LiberatorによるラバウルRabaulへの夜間爆撃Night bombingを押さえ込むことに成功した。
1944年(昭和19年)10月に開始されたフィリピンの戦いBattle of the
Philippinesにも月光(げっこう)は投入された。
月光(げっこう)は本土防空戦Japanese mainland air defenseにも投入されたが、相手はこれまでのB-17やB-24を遥かに上回る性能のB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressとなり、月光(げっこう)は夜間のみならず昼間も迎撃に出撃したSortie to interceptが苦しい戦いを強いられたforced into a
difficult battle。
一式陸上攻撃機
Type 1 Land-based Attack Aircraft
日本海軍Imperial Japanese
Navy
制式採用Introduction 1941年(昭和16年)(皇紀2601年)
双発Twin-engine陸上攻撃機Land-based Attack
Aircraft
最高速度Top speed 453.7km/h
乗員Crew 7名
一式陸上攻撃機(いっしき・りくじょう・こうげきき)は日本海軍Imperial Japanese
Navyの陸上攻撃機Land-based Attack Aircraftである。
略称Abbreviationは一式陸攻(いっしき・りっこう)。
日本海軍Imperial Japanese
Navyの呼び名Nicknameは中型攻撃機Medium Attack Aircraftの略の、中攻。
連合国軍Allied forcesのコードネームCode
nameはベティーBetty。
三菱重工業Mitsubishi Heavy
Industries株式会社の設計Design・製造Manufacturing。
日中戦争Second
Sino-Japanese War・太平洋戦争Pacific Warで日本海軍Imperial Japanese Navyの主力攻撃機Main Attack Aircraftとして使用された。
機首noseから機尾tailまでほぼ同じ太さSame thicknessのずんぐりした外見Stubby
appearanceと機尾tailの対空砲座Anti aircraft gun seatから、葉巻型Flying Cigarと呼ばれ、日本国民Japanese peopleに親しまれた。
一式陸攻(いっしき・りっこう)の渾名Nicknameとしてフライング・ライターThe Flying Lighterが有名である。
これは翼内の燃料タンクFuel tank容積が大きく、加えて防弾タンクBulletproof tankの採用が進まなかった関係で、被弾に弱く、一掃射で炎上extremely
prone to ignition after a few hitsしたという意味で使われた。
通常7人~8人乗り。
主操縦士pilot、副操縦士co-pilot、搭発員engine mechanic、射爆員gunner、主偵察員reconnoiter、副偵察員co-reconnoiter、電信員radio operator。
それぞれが機銃gunnerや電信radio operatorなどを兼任Concurrent postすることができた。
1941年(昭和16年)12月10日のマレー沖海戦Naval Battle of Malayaでは、九六式陸上攻撃機Type 96 Land-based Attack Aircraftと協同In cooperationして、イギリス海軍Royal
Navyの戦艦プリンス・オブ・ウェールズBattleship Prince of Walesと巡洋戦艦レパルスBattlecruiser Repulseを撃沈attack and sunkするなど、太平洋戦争Pacific War初期early yearsに活躍flourishした。
1943年(昭和18年)1月、レンネル島沖海戦Battle
of Rennell Islandで重巡洋艦シカゴHeavy Cruiser Chicagoを撃沈attack and sunk、他重巡Heavy Cruiser 2隻、駆逐艦Destroyer 1隻に損傷Damageを与え、
1944年(昭和19年)2月、トラック島空襲Airstrike
on Truk Islandの際に空母イントレピッドAircraft Carrier Intrepidを大破destroy、
1944年(昭和19年)10月、台湾沖航空戦Formosa Air Battleでも重巡キャンベラHeavy Cruiser Canberraを大破destroyさせるなどの戦果military achievementsを挙げている。
海軍甲事件 Operation Vengeance
また、1943年(昭和18年)4月18日にソロモン諸島Solomon IslandsブインBuinで連合艦隊司令長官Commander-in-Chief of the Combined Fleet山本五十六(やまもと・いそろく)海軍大将Admiralが戦死Killed in actionした際の乗機Boarding airplaneとしてもよく知られる(海軍甲事件Operation Vengeance)。
太平洋戦争Pacific War終盤Late stageは特攻兵器Suicide weapon「桜花(おうか)Cherry
blossom」の母機Mother planeとしても使用された。
また終戦End-of-war時には白色塗装の上、緑十字Green crossを描いた「緑十字機(みどりじゅうじき)」として、軍使(ぐんし)Parlimentaireの乗機Boarding airplaneに使用された。
後継機Successorとして、Land-based Bomber「銀河(ぎんが)Ginga」が開発Developmentされた。
銀河(ぎんが) Galaxy
陸上爆撃機 Land-based Bomber
日本海軍Imperial Japanese Navy
1944年(昭和19年)(皇紀2604年)制式採用Formal adoption
双発Twin-engine 三座Three-Seat 陸上爆撃機Land-based Bomber
546.3km/h
銀河(ぎんが)Galaxyは日本海軍Imperial Japanese
Navyが開発Development・実用化making practicalした双発爆撃機Twin-engine bomber。
海軍Navyの航空機関連技術開発Aircraft-related technology developmentを統括する海軍航空技術廠(かいぐん・こうくう・ぎじゅつしょう)Yokosuka Naval Air
Technical Arsenalが大型急降下爆撃機Large Dive Bomberとして開発した機体だが、一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraftの後継機Successorとして太平洋戦争Pacific War後半の戦いに投入Put into the second
half of the battleされた。
連合国軍Allied forcesによるコードネームCode nameはフランシスFrances。
開発Development・製造Manufacturingは中島飛行機Nakajima Aircraft Company。
実戦Operational history
マリアナ沖海戦Battle of the Philippine Sea
ニューギニア戦線New Guinea Campaign
台湾沖航空戦Formosa Air Battle
レイテ島の戦いBattle of Leyte
レイテ沖海戦Battle of Leyte Gulf
九州沖航空戦(きゅうしゅうおき・こうくうせん)
沖縄戦Battle of Okinawa
銀河(ぎんが) Galaxy 陸上爆撃機 Land-based Bomber
銀河(ぎんが) Galaxy 陸上爆撃機 Land-based Bomber
百式司令部偵察機
Type 100 Command Reconnaissance Aircraft
日本陸軍Imperial Japanese
Army
1940年(昭和15年)(皇紀2600年)制式採用Formal adoption
司令部偵察機Command Reconnaissance
Aircraft
双発複座機Twin-engine
Two-Seat aircraft 最高速度maximum speed
百式司令部偵察機(ひゃくしき・しれいぶ・ていさつき)は、第二次世界大戦World
War II時の日本陸軍Imperial Japanese Armyの偵察機Reconnaissance Aircraft(司令部偵察機Command Reconnaissance Aircraft)。
キ番号(試作名称)はキ46。
愛称Nicknameは新司偵(しんしてい)。
略称abbreviation・呼称namingは百式司偵、百偵、百司、ヨンロクなど。
連合軍Allied forcesのコードネームCode
nameはダイナDinah。
開発Development・製造Manufacturingは三菱重工業Mitsubishi Heavy
Industries。
設計主務者Design managerは久保富夫(くぼ・とみお)。
「百式」は1940年(昭和15年)(皇紀2600年)に仮採用provisional appointmentされたことから名づけられた。
余談だが、この年に採用された兵器Weapons adoptedの呼称namingは、海軍Navyでは「零式」、陸軍Armyでは「百式」、となっている。
九七式司令部偵察機 Type 97 Command Reconnaissance aircraft
九七式司令部偵察機Type 97
Command Reconnaissance aircraftの後継機Successorとして1939年(昭和14年)に初飛行maiden flight、太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia War)開戦前の1941年(昭和16年)から配備deploymentが行われ、1945年(昭和20年)の敗戦Defeatに至るまで帝国陸軍Imperial Japanese Armyの主力戦略偵察機Main Strategic Reconnaissance aircraftとして使用された。
百式司令部偵察機は画期的epoch-makingな開発思想Development ideaや高性能High performanceをもつ後の「戦略偵察機Strategic Reconnaissance aircraft」の先駆的存在Pioneerであり、また、そのスタイルの美しさから「第二次大戦で活躍した軍用機のうちで最も美しい機体の一つOne of the most elegant aircraft of World War Two」と評されている。
百式司令部偵察機は、日中戦争Second Sino-Japanese Warを含む太平洋戦争Pacific Warの全戦線All frontsにおいて主力偵察機Main Reconnaissance aircraftとして投入され、北はアリューシャン列島Aleutian
Islands、南はダーウィンDarwin、西はインドIndia、東はマーシャル諸島Marshall Islandsまで、連合軍Allied forces勢力圏Sphere of influenceの奥深く数々の偵察飛行Reconnaissance Flightを敢行した。
マレー作戦Malayan campaign
フィリピンの戦いBattle of the
Philippines
蘭印作戦Dutch East Indies
campaign
ガダルカナル島の戦いBattle
of Guadalcanal
ルンガ沖航空戦Battle of Lunga
Point
ダーウィン空襲Bombing of Darwin
インパール作戦Battle of Imphal
沖縄戦Battle of Okinawa
屠龍(とりゅう) Dragon Slayer
二式複座戦闘機 Type 2 Two-Seat Fighter
二式複座戦闘機(にしき・ふくざ・せんとうき)Type 2 Two-Seat
Fighter
日本陸軍Imperial Japanese Army
1942年(昭和17年)(皇紀2602年)制式採用Formal adoption
二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighterは、第二次世界大戦World War II時の大日本帝国陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter。
キ番号(試作名称)はキ45改。
愛称Nicknameは屠龍(とりゅう)Dragon Slayer。
略称abbreviation・呼称namingは二式複戦、二式双戦など。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはニックNick。
開発Development・製造Manufacturingは川崎航空機(かわさき・こうくうき)Kawasaki Aerospace Company。
名称に複座(ふくざ)Two-Seatとつくのは、同1942年(昭和17年)に採用された二式単座戦闘機(にしき・たんざ・せんとうき)Type 2 Single-Seat Fighter「鍾馗(しょうき)Shoki」と区別するため。
二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighterは、1942年(昭和17年)6月、中国大陸Chinese mainlandの広東方面Guangdong areaにおいて爆撃隊Bomber corpsの護衛escortとして桂林(けいりん)攻撃に参加、アメリカ義勇航空隊American Volunteer Group(AVG)「フライング・タイガースFlying Tigers」のP-40B/C トマホークCurtiss P-40 Tomahawkと対戦したが、この戦いで二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighterは惨敗devastating defeatを喫した。
二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighterは同1942年(昭和17年)9月、ハノイHanoiにおいてもP-40E キティホークCurtiss P-40 Kittyhawkと戦って敗れた。
これらの事実は、二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighterが単発戦闘機Single-engine Fighterとまともに戦えないということを示していた。
P-40B/C トマホーク Curtiss P-40 Tomahawk
天山(てんざん) Heavenly Mountain
艦上攻撃機 Carrier Attack
Aircraft
日本海軍Imperial Japanese Navy
1943年(昭和18年)制式採用Formal adoption
三座艦上攻撃機Three-Seat Carrier-borne Attack Aircraft
最高速度maximum speed 639km/h
天山(てんざん)Tenzan(Heavenly Mountain)は、日本海軍Imperial Japanese Navyが九七式艦上攻撃機Type 97 Carrier Attack Aircraftの後継機Successorとして開発Development・実戦配備Actual battle deploymentした艦上攻撃機Carrier-borne Attack Aircraft。
設計Design・生産productionは中島飛行機(なかじま・ひこうき)Nakajima Aircraft
Company。
連合国軍Allied forcesのコードネームCode nameは「ジルJill」。
もっとも、空母aircraft carrierからおよそ80機の天山(てんざん)が出撃した1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦Battle of the
Philippine Seaでは、米軍US Armed Forcesの重厚な防御体制Profound defense systemに阻まれて戦果は上Battle resultsげられず、5年前の要求仕様では通用しないことが明らかになった。
終戦The end of the warまでの生産数Production numberは1200機を超え、太平洋戦争Pacific Warの終盤Late stageには特攻機Special Attack
Aircraftとしても使用された。
彗星(すいせい) Comet
艦上爆撃機Carrier Bomber
彗星(すいせい)Cometは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの艦上爆撃機Carrier Bomber。
連合国軍Allied forcesのコードネームCode
nameは「Judy」。
九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier
Bomberの後継機Successor。
最大の特徴は日本軍Imperial Japanese Armed Forcesの艦載機Carrier-borne aircraftとしては初めて水冷エンジンWater-cooled engineを搭載。
最大速度maximum speed 552㎞/hの爆撃機Bomberらしからぬ高速性能High speed performanceを保持した。
そのため、太平洋戦争Pacific War後半期Second halfにはその高速性能High speed performanceを活かして夜間戦闘機Night fighterとしても運用されている。
運用開始commencement of
operation:1943年(昭和18年)後半Second half
彗星(すいせい) Comet 艦上爆撃機Carrier Bomber
流星(りゅうせい) meteor
艦上攻撃機 Carrier Attack Aircraft
日本海軍Imperial Japanese Navy
1941年(昭和16年)(皇紀2601年)制式採用Formal adoption
複座艦上攻撃機Two-Seat Carrier-borne Attack Aircraft
艦上攻撃機Carrier-borne Attack Aircraft「流星Ryusei(Shooting Star)」は、太平洋戦争Pacific War末期end stageに登場した日本海軍Imperial Japanese Navyの艦上攻撃機Carrier-borne Attack Aircraftである。
設計Design・開発Developmentは愛知航空機(あいち・こうくうき)Aichi Aircraft。
略符号はB7A。
連合国United NationsによるコードネームCode nameはグレイスGrace。
敗戦当日、木更津海軍航空基地Naval Air Stationから房総半島沖の空母ヨークタウンAircraft carrier Yorktownに特別攻撃Special Attackを行い、海軍公式記録上「最後の特攻Last special attack」となった。
多任務Multitasking艦上攻撃機Carrier-borne Attack Aircraftであり、急降下爆撃Dive bombing・水平爆撃Level bombing・雷撃Torpedo attackを行える。
すなわち艦上爆撃機Carrier-borne Bomberと艦上雷撃機Carrier-borne Torpedo bomberの両機種の役割を兼ねる。
当時の空母Aircraft carrierは対艦攻撃Anti-ship attack用の航空機Aircraftとして艦上爆撃機Carrier-borne Bomberと艦上雷撃機Carrier-borne Torpedo bomberを搭載Onboardしていた。
しかし、両機種は活躍できる状況が異なるため、空母Aircraft carrierの限られた搭載機Onboard Aircraft数を活用することは困難だった。
それを解決するためにつくられたのが流星(りゅうせい)meteorである。
単発Single-engineレシプロReciprocating engine機。
2人乗りTwo-Seatで全金属製Made of all metal、応力外皮Monocoque構造で作られている。
主脚Main landing gearは内側引き込み式Inside retractableで尾輪Tail wheelをもつ。
爆弾倉Bomb bayは胴体内部下部Lower inside of the fuselageに内蔵Built-inする(ただし航空魚雷Aerial torpedoについては外部に懸垂Suspended outsideする)。
主翼Main wingは中翼mid-wing単葉形式Monoplane formatかつ逆ガル翼Inverted gull wingを採用し、外見上の大きな特徴となっている。
日本海軍Imperial Japanese Navyの定義では急降下爆撃Dive bombingが可能な機体は「爆撃機Bomber」、雷撃Torpedo attackが可能な機体は「攻撃機Attack Aircraft」に分類されるが(水平爆撃Level bombingは両機種とも可能)、流星(りゅうせい)meteorは「爆撃機Bomber」に準じた名称を持つ(彗星(すいせい)Cometなど「星Star」が付く名称は単発Single-engine爆撃機Bomber用と定められていた。天山(てんざん)Heavenly Mountainなど攻撃機Attack Aircraftは「山Mountain」が付く名称)が、「B7A」の略符号が示す(愛知航空機製(A)、7番目の艦上攻撃機Carrier Attack
Aircraft(B7))様に機体分類Aircraft
classificationは「攻撃機Attack Aircraft」になっている。
因みに同様に急降下爆撃Dive bombingと雷撃Torpedo attackを兼用する陸上機Land-based Aircraftである銀河(ぎんが)Galaxyは、「爆撃機Bomber」に分類されている。
他の単発Single-engine艦攻Carrier-borne Attack Aircraftや艦爆Carrier-borne Bomberと比較して傑出した性能をもっていたが、流星(りゅうせい)Ryuseiは重量過大Overweightのため艦上機Carrier-borne Aircraftとして運用operationするのは困難Difficultであり、実際は陸上機Land-based Aircraftとして運用operationされた。
彩雲(さいうん) Iridescent Cloud
彩雲(さいうん) Iridescent Cloud
艦上偵察機 Carrier-based Reconnaissance Aircraft
日本海軍Imperial Japanese Navy
1944年(昭和19年)(皇紀2604年)制式採用Formal adoption
三座偵察機Three-Seat Reconnaissance Aircraft
最高速度Top speed 639km/h
彩雲(さいうん)Iridescent Cloudとは、日本海軍Imperial Japanese
Navyが大東亜戦争Greater East Asia War(太平洋戦争Pacific War)中期から運用operationした艦上偵察機Carrier-based Reconnaissance Aircraftである。
第二次世界大戦World War II中では唯一Only、偵察専用For reconnaissance onlyとして開発Developmentされた艦上機Carrier-based Aircraftである。
「彩雲(さいうん)Iridescent Cloud」とは、虹色に輝く雲Rainbow-colored cloudsを意味する吉兆天象(きっちょう・てんしょう)Auspicious celestial eventである。
アメリカ軍US Armed ForcesによるコードネームCode nameは「マートMyrt」。
第二次世界大戦World War IIの開戦前Before the start of the war、艦上偵察機Carrier-based Reconnaissance Aircraftの開発Developmentは世界的に見てもほとんどなされていない分野であったIt was a field that
was rarely done in the worldと言える。
搭載機Onboard Aircraft数が限られた空母Aircraft Carrierに偵察専用For reconnaissance onlyの機体を置く必要は無いと考えられており、各国ともに艦上戦闘機Carrier-based Fighterや艦上攻撃機Carrier-based Attack Aircraftなどが索敵Scoutingや偵察Reconnaissanceを兼務Concurrent postすることがほとんどであった。
日本海軍Imperial Japanese Navyでも真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborやミッドウェー海戦Battle of Midwayでは主に戦艦Battleship、巡洋艦Cruiser搭載Onboardの水上偵察機Reconnaissance Seaplaneが用いられた。
1944年(昭和19年)半ばに、艦上偵察機Carrier-based Reconnaissance Aircraft「彩雲(さいうん)Iridescent Cloud」として制式採用Formal adoptionとなり、量産機は6月から実戦配備Actual battle deploymentされていた。
その後日本海軍Imperial Japanese Navyの空母Aircraft Carrier運用の方針が変更したために、陸上偵察機Land-based Reconnaissance Aircraftとして運用されメジュロ環礁Majuro Atollやサイパン島Saipan、ウルシー環礁Ulithi Atollなどへの状況偵察を行っている。
その際、追撃してきたF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シNo Grummans can
catch us.」(「我ニ追イツク敵機無シ」だったという説もある)の電文telegraphは、本機This Aircraftの高速性能High speed performanceを示す有名なエピソードFamous episodeである。
彩雲 Iridescent Cloud 艦上偵察機 Carrier-based Reconnaissance Aircraft
二式飛行艇 Type 2 Flying Boat
日本海軍Imperial Japanese
Navy
1942年(昭和17年)(皇紀2602年)制式採用Formal adoption
四発機Four-engine
aircraft 飛行艇Flying boat
最高速度maximum speed 465km/h
乗員Crew 10~13名
二式飛行艇(にしき・ひこうてい)は、日本海軍Imperial Japanese Navyの飛行艇Flying boat。
初飛行first flewは1941年(昭和16年)。
レシプロ・エンジンReciprocating
engine装備Equipmentの飛行艇Flying boatとしては、当時at that time世界最高の性能を誇る傑作機The most outstanding aircraftとされる。
二式大型飛行艇(にしき・おおがた・ひこうてい)Type 2 Large-sized Flying Boatとも呼ばれ、二式大艇(にしき・だいてい)の通称Known
asも持つ。
なお、輸送型Transport typeは「晴空(せいくう)」と呼ばれていた。
九七式飛行艇(きゅうななしき・ひこうてい) Type 97 Flying Boat
九七式飛行艇Type 97 Flying Boatの後継機Successorとして、同じく川西航空機Kawanishi Aircraft
Companyで生産productionされた。
連合軍Allied forcesにおけるコードネームCode
nameはエミリーEmily。
制式採用Formal adoption直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力long rangeを生かして2機で真珠湾Pearl Harborを再空襲Re-air raidした(K作戦Operation K)。
だが3月7日のミッドウェー島Midway Atoll長距離偵察Long range reconnaissanceで、米軍US Armed Forces戦闘機Fighter aircraftの迎撃Interceptionで撃墜Shoot downされ、二式大艇(にしき・だいてい)最初の戦闘喪失機Battle lost aircraftとなった。
その後も高速high speedと航続力Cruising powerを生かしてエスピリッツサント島Espiritu SantoやオーストラリアAustralia本土main land、セイロン島Ceylon、カルカッタCalcuttaといった長距離long rangeの偵察reconnaissance・爆撃bombingに活躍actionした。
秋津洲(あきつしま) Akitsushima 水上機母艦 Seaplane tender
ソロモン諸島Solomon Islands方面に投入された二式大艇(にしき・だいてい)は、水上機母艦Seaplane tender「秋津洲(あきつしま)」の支援supportを受けて活動している。
1943年(昭和18年)11月には、アメリカ軍US Armed ForcesのロッキードP-38 ライトニングLockheed P-38
Lightningと40分交戦Engagementした。
さらに1944年(昭和19年)以降は日本軍Imperial Japanese Forces多発機Multi-engine aircraftの中にあって、防御defenseが弱かった一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraftなどに比べると遥かに連合軍Allied forcesにとって危険な相手Dangerous opponentだった。
B-25ミッチェルNorth American B-25
MitchellやB-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying
Fortressといったアメリカ軍US Armed Forcesの大型陸上機Large Land-based Aircraftを積極的に追撃pursuitして撃墜Shoot downした記録もある。
また1945年(昭和20年)3月の第二次丹作戦Operation Tan No. 2
(銀河(ぎんが)Land-based
Bomber Gingaによる長距離long range特攻作戦kamikaze attack)に代表される長距離long rangeの索敵scouting・誘導任務Guidance mission、トラックTruk IslandやラバウルRabaulといった孤立した基地Isolated baseへの強行輸送Forced transportation・搭乗員救出Crew rescueなどを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出しているAt the
same time as achieving results, it is also causing damage。
九五式水上偵察機
Type 95 Reconnaissance Seaplane
複座複葉水上偵察機 Two-Seat Biplane reconnaissance seaplane
九五式水上偵察機(きゅうごしき・すいじょうていさつき)は、中島飛行機Nakajima Aircraft
Companyが開発developmentし、1935年(昭和10年)(皇紀2595年)に制式採用Formal adoptionされた日本海軍Imperial Japanese Navyの水上偵察機reconnaissance seaplaneである。
連合国United NationsコードネームCode nameはデイブDave。
実戦部隊operational unitにおいても本機This aircraftの運動性能kinematic
performanceに対する評価は高くHighly rated、九六式艦上戦闘機Type 96
Carrier-based Fighterにも匹敵するComparableと言われるほどだった。
日中戦争Second
Sino-Japanese Warではその運動性能kinematic performanceを活かし、本務Main businessである偵察Reconnaissance以外にも哨戒Patroll・爆撃任務Bombing missionをこなし、戦闘機代用Fighter substituteとして制空任務Air superiority missionに出撃して敵の戦闘機Fighter aircraftとの空中戦Aerial warfareで勝利することさえあった。
この活躍は、その後の日本海軍Imperial Japanese Navyに二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterをはじめとした水上戦闘機Floatplane Fighterの開発Developmentを決意させるきっかけの1つになった。
太平洋戦争Pacific Warの開戦時At the beginning of
the warにおいても艦船Shipや陸上基地Land baseにおいて相当数が使用されていた。
零式水上観測機Type Zero
Observation Seaplaneが配備deploymentされると第一線部隊Frontline unitからは退いたが、哨戒機Patrolling aircraftや練習機training aircraftとして終戦The end of the warまで使用された。
中には特攻隊special attack corpsに配属Assignmentされた機体Airframeもあった。
九八式水上偵察機 Type 98 Reconnaissance Seaplane
零式水上観測機
Type Zero Observation Seaplane
日本海軍Imperial Japanese
Navy
制式採用Introduction 1940年(昭和15年)(皇紀2600年)
複座複葉水上観測機Two-Seat
Biplane Observation Seaplane
最高速度Top speed 370km/h
乗員Crew 2
零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)は、太平洋戦争Pacific War中に運用Operationされた日本海軍Imperial Japanese
Navyの水上観測機Observation Seaplane・偵察機Reconnaissance plane。
略称Abbreviationは零観(ゼロカン、れいかん)、または「観測機Observation plane」。
連合国United NationsコードネームCode nameはピートPete。
また、零式観測機(れいしき・かんそくき)と通称commonly known byされることもある。
太平洋戦争Pacific Warでは、本来の任務Original missionである戦艦Battleshipの着弾観測Artillery observerに活躍flourishする余地がなかったため、ほぼ水上偵察機Reconnaissance
Seaplaneとして使用されていた。
しかし、零式水上観測機(れいしき・すいじょう・かんそくき)は複葉機Biplaneながら補助翼の一部を除き全金属製Made of all metalの近代的な機体Modern
airframeで、無類の安定性Unrivaled stabilityと高い格闘性能High fighting performanceを持っており、二式水上戦闘機Type 2
Floatplane Fighterよりも軽快だったという。
君川丸(きみかわまる) Kimikawa Maru 水上機母艦 Seaplane tender
ソロモン諸島 Solomon Islands
特設水上機母艦Seaplane tender「神川丸(かみかわまる)」や「國川丸(くにかわまる)」にも配備deploymentされ、アリューシャンAleutian Islands方面やソロモンSolomon Islands方面ショートランドShortland Islandsなどに展開。
船団護衛(せんだん・ごえい)Convoy escort、対潜哨戒(たいせん・しょうかい)Maritime patrol、敵施設Enemy facilityの爆撃bombing、さらにはその卓越したOutstanding空戦Aerial warfare性能Performanceを生かしての離島の基地Remote island baseにおける防空Air defenseなど、時として二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterと肩を並べcompare with、様々な任務Various missionsで幅広くWidely活躍flourishした。
その他、バリクパパンBalikpapan方面やアンボンAmbon方面にも進出Advanceしている。
零式小型水上機 Type Zero Small Seaplane
零式小型水上偵察機 Type Zero Small Reconnaissance Seaplane
零式水上偵察機
Type Zero Reconnaissance Seaplane
三座単葉水上偵察機Three-Seat Monoplane reconnaissance seaplane
零式水上偵察機(れいしき・すいじょう・ていさつき)Type Zero Reconnaissance Seaplaneは、愛知航空機Aichi Aircraftにより開発Developmentされ、1940年(昭和15年)(皇紀2600年)12月に日本海軍Imperial Japanese
Navyに兵器採用Weapon adoptionされた水上偵察機Reconnaissance Seaplane。
略称Abbreviationとして零式水偵(れいしき・すいてい)、零水(れいすい)とも呼ばれ、零式小型水上機(れいしき・こがた・すいじょうき)Type Zero Small Seaplaneとの違いを明確にするため零式三座水上偵察機Type Zero Three-Seat reconnaissance seaplaneとも表記される。
連合国United Nationsが名づけたコードネームCode
nameはジェークJake。
日本海軍Imperial Japanese
Navyは初期の空母aircraft carrier・戦艦Battleship・巡洋艦cruiser・潜水艦submarineに水上偵察機Reconnaissance Seaplaneを搭載on boardし、偵察reconnaissanceの要として運用Operationすべく準備を重ねていた。
その仕上げとも言えるのが本機This aircraftの配備deploymentであり、1941年(昭和16年)から艦船Shipや基地baseへの配備deploymentが本格化したbegin in earnest。
太平洋戦争Pacific War開戦時At the beginning of
the warには日本海軍Imperial Japanese Navyの主力艦船Main shipには本機This aircraftが搭載on boardされており、艦隊fleetや外地の基地Outer baseの目として盛んに活動した。
二式水上戦闘機
Type 2 Floatplane Fighter
日本海軍Imperial Japanese
Navy
1942年(昭和17年)(皇紀2602年)制式採用Formal adoption
単座水上戦闘機Single-Seat
Floatplane Fighter
最大速度maximum speed 437 km/h
二式水上戦闘機(にしき・すいじょう・せんとうき)Type 2 Floatplane Fighterとは、日本海軍Imperial Japanese
Navyが第二次世界大戦World War II中に使用した水上戦闘機Floatplane Fighter。
略して二式水戦(にしき・すいせん)とも呼ばれる。
開発Development・製造Manufacturingは中島飛行機(なかじま・ひこうき)Nakajima
Aircraft Company。
連合国United NationsコードネームCode nameは、「ルーフRufe」。
日中戦争Second
Sino-Japanese Warで九五式水上偵察機Type 95 Reconnaissance Seaplane等の水上観測機Observation
Seaplaneが搭載機銃On-board machine gunで敵機enemy planesを撃墜Shoot downするなどの意外な活躍Unexpected activityをしたことから、1939年(昭和14年)に日本海軍Imperial Japanese Navyは本格的な水上戦闘機Floatplane Fighterの開発Developmentを決定し、十五試水上戦闘機(後の「強風(きょうふう)Strong
Wind」)が試作Trial productionされることになった。
しかし開発Developmentが難航Difficultしたため、太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)開戦The
beginning of the warによる南方侵攻作戦Southern campaignに新型New model水上戦闘機Floatplane Fighterは間に合わないcannot be in timeことが明白になってきた。
そこで、短期間でIn a short period of time高性能High performanceの水上戦闘機Floatplane Fighterを製作Productionするために、当時at that time高性能High performanceが話題となっていた零戦一一型Zero fighter Model 11をベースに水上戦闘機Floatplane Fighter化することを臨時に計画Temporary planし、1941年(昭和16年)に中島飛行機に対して、「仮称一号水上戦闘機」の試作Trial productionを命じた。
零戦Zero fighterを開発Developmentした三菱重工業Mitsubishi Heavy
Industriesに対して改造を命じなかったのは、三菱が零戦Zero fighterや一式陸上攻撃機Type 1 Land-based
Attack Aircraftなどの生産productionに手一杯だったことと、中島の方が小型水上機Small Seaplaneの生産productionに関して経験豊富well experiencedだったためであった。
1942年(昭和17年)7月6日に二式水上戦闘機Type 2 Floatplane Fighterとして制式採用Formal adoptionされた。
零戦一一型(ぜろせん・いち・いち・がた) Zero fighter Model 11
量産Mass productionされた二式水上戦闘機Type 2
Floatplane Fighterは、戦線拡大Front expansionにより太平洋Pacific Ocean各地に展開した海軍航空隊Naval Air unitに配備Deployされた。
特に第四五二海軍航空隊と第八〇二海軍航空隊の二式水戦Type 2 Floatplane Fighterは、アリューシャン諸島攻略Aleutian
Islands campaignで米軍US
Armed Forces基地攻撃Base attackに活躍し、前者はアッツ島Attu Islandに、後者は転進してマーシャル諸島Marshall
Islands(ヤルート環礁Jaluit Atollイミエジ・マキン環礁Makin Atoll)に展開して、船団護衛Convoy escortや基地防空Base air defenseに活躍した。
強風(きょうふう) Strong Wind
水上戦闘機 Floatplane Fighter
日本海軍Imperial Japanese
Navy
1943年(昭和18年)(皇紀2603年)制式採用Formal adoption
水上戦闘機Floatplane Fighter 最大速度maximum speed 488.9 km/h
強風(きょうふう)は川西航空機(かわにし・こうくうき)Kawanishi Aircraft Companyが太平洋戦争Pacific War時に開発Developmentした日本海軍Imperial Japanese
Navyの水上戦闘機Floatplane Fighterである。
連合国United Nations側のコードネームCode
nameはレックスRexであった。
主任設計技師Chief Design
Engineerは二式飛行艇Type 2 Flying Boatも手がけた菊原静男(きくはら・しずお)。
本機This Aircraftは水上機Seaplaneでありながら空戦Aerial warfareを主目的main purposeとした機体Airframeとして設計Designされたが、開発Developmentが難航delayしたことで活躍の時期を失いLost
the time of activity、性能も期待外れでPerformance is also disappointing操縦も難しかったIt was difficult to
maneuverことから、生産数Production numberは100機に満たない。
本機This Aircraft登場までのつなぎとして、零戦Zero fighter Model
11を水上機Seaplane化した二式水上戦闘機Type 2
Floatplane Fighterが開発Developmentされたが、こちらの方が生産数Production numberも多くそれなりに戦果も残しているThe
result of the battle is also left。
紫電改(しでんかい) Violet Lightning improved version
本機This Aircraftをベースとして局地戦闘機Interceptor
aircraft(陸上機)紫電(しでん)Violet Lightningが開発Developmentされ、さらにその改良発展型Improved development typeである紫電改(しでんかい)Violet Lightning
improved versionは太平洋戦争Pacific War末期に日本本土Japanese mainlandに襲来したB-29スーパーフォートレスBoeing
B-29 Superfortressや米航空母艦US Aircraft Carrier艦載機Onboard Aircraftの邀撃(ようげき)Interceptionに活躍した。
紫電(しでん) Violet
Lightning
局地戦闘機 Interceptor Aircraft
紫電一一型Violet Lightning Model 11
日本海軍Imperial Japanese Navy
1942年(昭和17年)(皇紀2602年)制式採用Formal adoption
局地戦闘機Interceptor Aircraft 最高速度maximum speed 583km/h
紫電(しでん)Violet Lightningは、日本海軍Imperial Japanese
Navyの水上戦闘機「強風(きょうふう)」Floatplane Fighter
Kyofuから改造Remodelingされた局地戦闘機Interceptor Aircraft。
1942年(昭和17年)、川西航空機(かわにし・こうくうき)Kawanishi Aircraft Companyが試作機Prototypeを製作Production,紫電一一型Interceptor Aircraft Shiden Model 11として制式採用Formal adoptionされた。
連合国United Nations側のコードネームCode nameは"ジョージGeorge"。
自動空戦フラップAutomatically combat flapsの採用により、空戦Aerial warfare性能Performanceは優秀であった。
紫電改(しでんかい) Violet Lightning improved version
しかし故障breakdownsが多かったため、中翼Mid-wing型の紫電(しでん)を低翼Low-wingに改造Remodeling,また脚柱Main landing gearを短くして、1943年(昭和18年)に紫電(しでん)二一型Interceptor Aircraft Shiden Model 21、いわゆる紫電改(しでんかい)Violet Lightning improved versionがつくられ、アメリカ軍US Armed Forcesの日本本土Japanese mainland空襲Air-raidに対する迎撃機Interceptor Aircraftとして使われた。
1944年(昭和19年)10月12日、紫電(しでん)Violet
Lightningと米軍機US Military aircraftが交戦Engagementした。
1944年(昭和19年)10月15日まで紫電(しでん)Violet
Lightningは台湾沖航空戦Formosa Air Battleを戦った。
1944年(昭和19年)11月、紫電(しでん)Violet LightningはフィリピンPhilippinesに進出してレイテ沖海戦Battle of Leyte Gulfに参加する。
1945年(昭和20年)1月7日、341空から特攻機Special Attack
aircraft・直掩機(ちょくえんき)Direct cover aircraftともに紫電(しでん)Violet Lightningで編成された特攻隊Special Attack
Unitsが出撃した。
宮崎勇(みやざき・いさむ)は、零戦(ぜろせん)Zero fighterに比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重Dullで空戦Aerial warfare性能Performanceは零戦(ぜろせん)Zero fighterより遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機Fighter aircraftであったと評する。
341空飛行隊長だった岩本邦雄や201空搭乗員だった笠井智一は、紫電(しでん)Violet LightningはF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatには手も足も出なかったcannot do anythingという。
紫電改(しでんかい)
Violet Lightning improved version
局地戦闘機 Interceptor Aircraft
紫電改(しでんかい) Violet Lightning
improved version
紫電二一型Violet Lightning Model 21
日本海軍Imperial Japanese Navy
1945年(昭和20年)(皇紀2605年)制式採用Formal adoption
局地戦闘機Interceptor Aircraft 最高速度Top speed 644km/h
紫電改(しでんかい)Violet Lightning improved versionは、第二次世界大戦World War II期における日本海軍Imperial Japanese Navyの戦闘機Fighter aircraftである。
紫電(しでん)Violet Lightningの二一型Model 21以降が紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionと呼称される。
局地戦闘機「紫電(しでん)」Interceptor Aircraft Shidenは、水上戦闘機「強風(きょうふう)」Floatplane Fighter Kyofuを陸上戦闘機Land-based Fighter aircraft化したもので、紫電(しでん)二一型Interceptor
Aircraft Shiden Model 21は強風(きょうふう)Strong
Windと同じく中翼Mid-wing配置の紫電(しでん)Violet
Lightningを低翼Low-wingに再設計redesignした機体であり、紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionは新機軸の設計(自動空戦フラップAutomatically combat flaps、層流翼Airfoil)が特徴であった。
この紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionは後述するように日本海軍Imperial Japanese Navy、ひいては日本軍Imperial Japanese Forcesの戦闘機Fighter aircraftの中で屈指の能力outstanding abilityを誇る。
連合国United Nations側のコードネームCode nameは"ジョージGeorge"。
紫電改(しでんかい)Violet Lightning improved versionは正面から見ると低翼Low-wingであることがわかるため、紫電(しでん)一一型Model 11とは別機と認識され、さらに戦時中には情報不足から、四式戦闘機「疾風」Type 4 Fighter Hayateや零戦Zero fighterなどの他機種と誤認報告されており、戦後になってから紫電(しでん)Violet
Lightningがジョージ11 George11、紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionがジョージ21 George21と分類されて呼ばれた。
1944年(昭和19年)12月10日、紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionが、紫電(しでん)Violet
Lightning 6機と共に、F-13(B-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressの写真偵察型)の迎撃Interceptionに出動した。
これが紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionの初陣first battleとされる。
紫電改のタカ ちばてつや 1963年(昭和38年)
1945年(昭和20年)2月17日、硫黄島攻略戦Battle of Iwo Jimaの前哨戦skirmishとして米航空母艦US Aircraft Carrier艦載機Onboard Aircraftが関東地方Kanto regionに侵入Invasion(ジャンボリー作戦Operation Jamboree)。
試作Prototype紫電改(しでんかい)Violet Lightning improved versionが零戦(ぜろせん)Zero
fighter 48機、雷電(らいでん)Lightning Bolt、紫電(しでん)Violet
Lightning 11機と共に迎撃Interception。
雷電(らいでん) Lightning Bolt
局地戦闘機 Local-defense interceptor
日本海軍Imperial Japanese Navy
1944年(昭和19年)(皇紀2604年)制式採用Formal adoption
局地戦闘機Local-defense interceptor(乙戦(おつせん)(重戦闘機Heavy fighter))
最高速度maximum speed 596.3 km/h 614.5 km/h
雷電(らいでん)Lightning Boltは、太平洋戦争Pacific War末期end stageに日本海軍Imperial Japanese
Navyが運用Operationした局地戦闘機Local-defense interceptor(乙戦(おつせん)(重戦闘機Heavy fighter))。
「雷電(らいでん)Lightning Bolt」という名称は愛称Nicknameではなく制式名称Formal nameであり、乙戦(おつせん)(重戦闘機Heavy fighter)の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはジャックJack。
支那事変China Incidentの戦訓combat lessonにより陸上基地Land base防空Air defenseのため、速度speed、上昇力climb performance、火力armamentを重視Emphasisして開発Developmentされたが、初飛行後after the first flightの不具合解消Resolve problemsに手間取りtake time実用化practical useが遅れたdelayedため、生産は縮小されProduction is reduced生産数Production numberは比較的少数Relatively fewにとどまった。
しかし南方southernや本土Japanese mainlandにおける防空Air defense戦闘Battleに投入put intoされ、一定の戦果certain level of
battle resultsを挙げているachieved。
大型爆撃機Large bomberの迎撃Interceptionを主任務Chief missionとする局地戦闘機Local-defense interceptorに要求される性能Performanceは、爆撃機Bomberが飛行している高度high-altitude in flightに短時間で到達するReach in a short time上昇力climb performance、敵爆撃機Enemy bomberに追い付く速力speed、そして一瞬のチャンスにFor a momentary chance敵爆撃機Enemy bomberへ致命傷を与え得るstrike home火力armamentの三つである。
これらを重視Emphasisして開発Developmentされたのが雷電(らいでん)Lightning
Boltである。
一式陸上攻撃機 Type 1 Land-based Attack Aircraft
速度speedと上昇力climb performanceを確保するSecureためには大馬力エンジンLarge horsepower engineが必要needだが、当時の日本にはIn Japan at that time戦闘機に適したSuitable for fighters小型軽量Small and lightweightの大馬力エンジンLarge horsepower engineが存在しなかった。
そのため、一式陸上攻撃機Type 1
Land-based Attack Aircraft等の大型機large aircraft用に開発Developmentされた大直径Large diameterではあるが当時の日本でIn Japan at that
time最大馬力Maximum horsepowerを発揮する「火星(かせい)Mars」が選定されている。
火星(かせい)Marsの直径diameterは1,340mmと、零戦Zero fighterに搭載された栄(さかえ)Sakaeと比べて200mm近く大きい。
そこで、空気抵抗Air resistanceを可能な限り減少させるために機首the nose of an aircraftを絞り込みNarrow down、全長の40パーセントで最も太くなる紡錘形(ぼうすいけい)Fusiformの胴体Fuselageが採用された。
雷電(らいでん)Lightning Boltの開発Developmentは困難Difficultで時間がかかり、任務に就いた後でも全ての技術的な問題が解決されたわけではなかった。
戦歴を通してThroughout the battle historyエンジンに起因する問題Problems caused by the engineを終始抱えており、三菱重工業Mitsubishi Heavy Industriesで476機、高座海軍工廠(こうざ・かいぐん・こうしょう)および日本建鉄(にほん・けんてつ)で若干数が生産productionされたのみである。
雷電(らいでん)Lightning Boltはほぼ同時期にAt about the same time実用実験Practical experimentが行われていた紫電改(しでんかい)Violet
Lightning improved versionと比較され、特に紫電改(しでんかい)に比べ対戦闘機Anti-fighter
aircraft戦闘能力Combat abilityが低いことが指摘された。
最初に部隊配備Troop deploymentされたのはバリクパパンBalikpapan油田Oil fieldの第三八一海軍航空隊Naval Air Corpsで、油田攻撃Oil field attackに飛来する連合国軍機Allied forces aircraft相手に少なからぬ戦果を挙げた。
その後、第三〇二航空隊(厚木)、第三三二航空隊(岩国、鳴尾)、第三五二航空隊(大村)、台湾の台南航空隊(台南)などの本土防空Mainland air defense専任部隊Dedicated unitに配備deploymentされた。
特に第三〇二航空隊(厚木)のエース・パイロットFlying ace赤松貞明(あかまつ・さだあき)中尉は巴戦(ともえせん)に拘(こだわ)ることなく、雷電(らいでん)Lightning Boltの特性を活かす機動を研究し、B-29スーパーフォートレスBoeing B-29 Superfortress爆撃機Bomberと、それを護衛escortするアメリカ軍戦闘機US Fighter aircraft相手にも戦果を挙げた。
伊号第400潜水艦 Submarine I-400
伊号第400潜水艦 Submarine I-400
晴嵐(せいらん) Clear Sky Storm
水上攻撃機 Attack floatplane
日本海軍Imperial Japanese Navy
1944年(昭和19年)(皇紀2604年)制式採用Formal adoption
複座Two-Seat水上攻撃機Attack floatplane
液冷航空エンジンLiquid-cooled aircraft engine
最大速度maximum speed 474 km/h
晴嵐(せいらん)Clear Sky Stormは、日本海軍Imperial Japanese
Navyが第二次世界大戦World War II中に開発Developmentした水上攻撃機Attack floatplane。
設計生産Design and productionは愛知航空機(あいち・こうくうき)Aichi Aircraft Company、略符号はM6A1。
伊四百型潜水艦(い・よんひゃくがた・せんすいかん)I-400-class
submarineによる戦略爆撃Strategic bombingの目的で開発Developmentされた、小型軽量Small and lightweightの急降下爆撃Dive bombingが可能な潜水艦搭載submarine-launched用の水上攻撃機Attack Floatplane(海軍Navyでの分類は特殊攻撃機Special attack aircraft)。
1943年(昭和18年)11月に初号機完成Completion of the
first aircraft。
だが1944年(昭和19年)9月でも実験飛行の段階Experimental flight stageだった。
第六三一海軍航空隊(だい631・かいぐん・こうくうたい)(1944年(昭和19年)12月15日編制)で運用Operationされた。
しかし、晴嵐(せいらん)は日本Imperial Japanの戦局悪化aggravation of the
war situationもあって、活躍の場が殆ど無かったThere was almost no place to play an active part。
南山(なんざん) South
Mountain
晴嵐改(せいらんかい) Clear Sky Storm improved
version
晴嵐(せいらん)Clear Sky Stormの陸上練習機Land-based training
aircraft型。
瑞雲(ずいうん)
Auspicious Cloud
水上偵察機 Reconnaissance Seaplane
瑞雲(ずいうん)Auspicious
Cloud(縁起の良い雲)は、愛知航空機Aichi Aircraftが生産productionした日本海軍Imperial Japanese Navyの水上偵察機Reconnaissance Seaplaneである。
複座水上偵察機 Two-Seat Reconnaissance Seaplane
連合国コードネームAllied
reporting nameはポールPaul。
瑞雲(ずいうん) Auspicious Cloud 水上偵察機 Reconnaissance Seaplane
震電(しんでん) Magnificent Lightning
局地戦闘機 Interceptor aircraft
震電(しんでん)Magnificent
Lightningは第二次世界大戦末期End stage of World War IIに日本海軍Imperial Japanese
Navyが試作trial
manufactureした局地戦闘機Interceptor aircraftである。
前翼型Canardの独特な機体形状を持つ、最高速度maximum speed 400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機High speed fighterの計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機prototypeが完成、同年8月に試験飛行Test flightを行い終戦The end of the warを迎えた。
前翼型飛行機Canardとは、水平尾翼horizontal
stabilizerを廃し主翼Main wingの前に水平小翼Horizontal wingletを設置した形態の飛行機aircraftである。
震電(しんでん) Magnificent Lightning 局地戦闘機 Interceptor aircraft