11節 第二次世界大戦 World War II
ハインケルHe
219ウーフー Heinkel He 219 Uhu
ニューヨークNew York・ウォール街Wall
Streetの群衆Crowd
全体主義 Totalitarianism
ナチス独裁制 Nazi dictatorship
世界恐慌 Great Depression
すでに述べたように、1924年(大正13年)以降ドイツ経済German economyは安定と繁栄の時期を迎えていたが、実はそれは見せかけのものにすぎず、表面上の繁栄の蔭には、外資Foreign capital(特にアメリカ資本American capital)への過度の依存・失業unemploymentの慢性化・農業不況Agricultural recessionなどの欠陥defectが隠されていた。
こうした欠陥defectは、1929年(昭和4年)以降の世界恐慌Great
Depressionの波及とともに一挙に表面化し、ドイツ経済German economyは甚だしい混乱を招いた。
世界恐慌Great
Depression初期の取り付け騒ぎbank run時にニューヨークNew Yorkのアメリカ連合銀行American Union Bankに集まった群衆Crowd
工業生産Industrial
productionは1929年(昭和4年)~1932年(昭和7年)の間に4割近く減退し、失業者unemploymentは1929年(昭和4年)に189万人、1930年(昭和5年)に308万人、1932年(昭和7年)に558万人と増加の一途をたどった。
このような状況のもとで、ヴァイマル憲法Weimar constitution第48条の大統領の緊急権President's emergency rightに依拠(いきょ)したいわゆる大統領内閣Presidential Cabinetが出現した。
大統領内閣Presidential
Cabinetは、通常の議会立法による代わりに、大統領Presidentの緊急条例を乱発して統治を行い、デフレ政策deflationary policyによって恐慌Depressionの克服を図ったが、容易に成果を上げ得なかった。
ヴァイマル共和政Weimar
RepublicのハイパーインフレーションHyperinflation
1931年(昭和6年)には恐慌緩和Depression reliefの方策としてドイツGermany・オーストリアAustria間に関税同盟協定Customs union agreementが締結されたが、ドイツGermany・オーストリアAustria両国の合同に通じるものとしてフランスFranceの強い反対に合い、破棄された。
ハーバート・フーヴァー Herbert
Hoover
第31代アメリカ合衆国大統領 31st
president of the United States
1931年(昭和6年)アメリカ大統領US PresidentフーヴァーHerbert Hooverがいわゆるフーヴァー・モラトリアムHoover
Moratoriumを宣言し、また1932年(昭和7年)のローザンヌ会議Lausanne Conferenceでは、ドイツの賠償支払いGerman compensation paymentに事実上の終止符が打たれたけれども、それらの措置もドイツの危機German crisisを救うことはできなかった。
フーヴァー・モラトリアムHoover Moratorium
(1931年(昭和6年))
世界恐慌Great
Depression下の経済危機Economic crisisを救うため、第一次世界大戦World War Iによって生じた各国間の賠償と戦債支払いを1年間延期したが、時期すでに遅く、効果はなかった。
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler
ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)
(国家社会主義ドイツ労働者党National Socialist German Workers Party)
恐慌Great
Depressionによって引き起こされた社会不安social unrestを背景としてナチスNazis(ナチ党Nazi Party)(国家社会主義ドイツ労働者党National Socialist German Workers Party)と共産党Communist
Partyが目覚しい進出を示した。
特にナチスNazis(ナチ党Nazi Party)は、1928年(昭和3年)の選挙では12議席を得たにとどまったのに、1930年(昭和5年)9月の選挙では一挙に107議席を獲得し、更に1932年(昭和7年)7月には、ついに社会民主党Social Democratic Partyをはるかに引き離して第1党にのし上がった。
このようにナチスNazis(ナチ党Nazi Party)が短期間に驚異的な勢力の拡大を遂げ得たのは、ヴェルサイユ体制Versailles
systemやヴァイマル共和政Weimar Republicに対するその激しい反対が、恐慌Great
Depressionに苦しむ選挙民によくアピールしたこと、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)がヒトラーAdolf Hitler(1889年~1945年)を頂点とする極めて機動力に富んだ党組織をもっていたことなどによるものである。
世界恐慌Great
Depressionで国民の生活がどん底に叩き落されたドイツGermanyでは、アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler率いるナチズムNazismの台頭を招く。
ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)を支持した主要な社会的基盤social infrastructureは、農業不況Agricultural recessionにあえいでいた中小農民Small and medium-sized farmersや、すでに1920年(大正9年)代初期のインフレーションinflationによって痛みつけられ、いままた恐慌Great Depressionの被害を受けていた都市の中産階級Middle classであった。
これらの層は、一方では大資本Large capitalを憎悪していたが、他方では労働組合labor unionにも反感を抱いており、それゆえに、既成のブルジョア政党Bourgeois political partyとも労働者政党Workers' Partyとも異なる新しいタイプの政党ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)に引きつけられていった。
しかしまた、ヴァイマル共和国Weimar Republic末期になると、共産党Communist
Partyの進出に不安を覚えた資本家Capitalistたちや軍部military
authoritiesの間にも、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)に支援を与える者が増えてきたことを忘れてはならない。
パウル・フォン・ヒンデンブルク Paul von Hindenburg
ナチス(ナチ党)の一党独裁
1933年(昭和8年)1月、ヒンデンブルクPaul von Hindenburg大統領Presidentおよびその側近は、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)を保守勢力Conservativesのなかに抱き込み得ると信じて、ヒトラーAdolf Hitlerを首相Prime Ministerに任命するに至った。
しかし、いったん政権administrationについたヒトラーAdolf Hitlerは、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)の一党独裁One-party dictatorshipの樹立Establishを目指して、次々と手を打った。
炎上する国会議事堂National Diet Building
まず議会Parliamentを解散し選挙戦中に国会議事堂National Diet Buildingが放火arsonにより炎上するという事件(ドイツ国会議事堂放火事件Reichstag fire)が起こると、これを共産党Communist Partyの陰謀conspiracyとして共産党Communist Partyを弾圧し、次いで新議会で強引に全権委任法(授権法)Enabling Act of 1933を成立させ(1933年(昭和8年)3月)、労働組合labor unionの解散、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)以外の政党Political partyの禁止、国内諸邦の自治権の剥奪による中央集権化などの措置を相次いでとった。
エルンスト・レーム Ernst Röhm
また、レームErnst Röhmを初めとする突撃隊(SA)Sturmabteilung(Storm Detachment)幹部Cadreを殺害し、ナチ運動Nazi movementの粛清purgeも断行した(1934年(昭和9年)6月)。
親衛隊(SS) Schutzstaffel
(シュッツシュタッフェル)(Protection Squadron)
突撃隊(SA)と親衛隊(SS)
いずれもナチ党Nazi Partyに付属する準軍事的組織Paramilitary organization。
突撃隊(SA)Sturmabteilung(Storm Detachment)指導者のレームErnst Röhmは、ヒトラーAdolf Hitlerの意図を越えてナチス革命Nazi
revolutionを推進しようとして国防軍Defense Forceと対立をきたし、ヒトラーAdolf Hitlerによって粛清purgeされた。
この事件を機に突撃隊(SA)の勢力は衰え、代わって親衛隊(SS)Schutzstaffel(シュッツシュタッフェル)(Protection Squadron)が強大化した。
神聖ローマ帝国 Holy Roman Empire(962年~1806年)
更に、1934年(昭和9年)8月にヒンデンブルクPaul von Hindenburg大統領Presidentが死ぬと、自ら大統領Presidentと首相Prime
Ministerを兼ね、総統(フューラーFührer)と呼ばれ、ここに独裁者Dictatorとしての地位を固めるに至った(ドイツ第三帝国Third Reich)。
オットー・フォン・ビスマルク Otto von Bismarck
ドイツ第三帝国Third Reich
中世の神聖ローマ帝国Holy Roman Empire(962年~1806年)、
ビスマルクOtto von
Bismarckによるドイツ帝国German Empire(1871年~1918年)に対して第三帝国Third Reichと呼ぶ。
ドイツ帝国 German Empire(1871年~1918年)
ナチス政権Nazi regimeは、自動車道路・住宅建設などの公共事業Public worksや軍需工業Munitions
industryの拡大によって失業unemploymentの克服に成功し、また、労働者Workerをドイツ労働戦線German Labour Frontに組織するとともに、彼らの人気を得るためにレクリエーション施設の拡充に力を注いだりした。
しかし、その反面、言論・出版などの国民の自由を容赦なく蹂躙し、秘密警察(ゲシュタポGestapo)(Secret State Police)を用いて反対者を強制収容所concentration campに送り込んだ。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 Auschwitz concentration camp
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
また、その人種論Racismに基づいてユダヤ人Jewsに対し組織的な迫害を加えた。
こうしたナチスNazis(ナチ党Nazi Party)の政策のために、多数の社会主義者Socialist・自由主義者liberalist・ユダヤ人Jewsが国外に亡命exileした。
アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein
亡命者Exile
著名な亡命者Exileとしては、物理学者physicistアインシュタインAlbert
Einstein、作家authorのト-マス・マンThomas Mannらがいる。
ト-マス・マン Thomas Mann
1936年(昭和11年)以降、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)は、戦争遂行conduct of the warを目標として自給自足体制Self-sufficiency system(アウタルキーautarchy)を樹立するために、四か年計画Four Year Planにとりかかった。
この計画のもとで、原料や食料の自給が図られ、軍備の拡大Expansion of armamentが推し進められた。
ミュンヘン Munich
ミュンヘン一揆 Munich Putsch (Munich
riot)
ナチス武装集団に拘束される市会議員たち
補足 ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)
1919年(大正8年)ミュンヘンMunichでドイツ労働者党German Workers Partyとして結成され、1920年(大正9年)25か条の党綱領を決め、国家社会主義ドイツ労働者党National Socialist German Workers Partyと改称。
ヒトラーAdolf Hitlerを党首Party leaderとしてしだいに勢力を増し、1923年(大正12年)にはミュンヘンMunichで国民革命National revolutionを企てて失敗した(ミュンヘン一揆Munich
Putsch)(Munich
riot)。
その後、一時勢力は衰えていた。
わが闘争 My Struggle
なお、1925年(大正14年)~1927年(昭和2年)に出版されたヒトラーAdolf Hitler著『わが闘争My Struggle』は、ナチスNazis(ナチ党Nazi Party)の最高の経典Scriptureで、自らの生い立ち、反ユダヤ主義Anti-semitism、東方への侵略計画Invasion planなどが記されている。
ナチス外交Nazi Diplomacyの展開
1933年(昭和8年)秋、ナチス・ドイツNazi Germanyは、ドイツGermanyに軍備平等権が認められないのを不満として軍縮会議Conference on Disarmamentおよび国際連盟League of Nationsを脱退Withdrawalし、次いで翌1934年(昭和9年)には、ポーランドPolandと不可侵条約non-aggression pactを結び、またオーストリアAustria内部のナチスNazis(ナチ党Nazi Party)勢力を支持してこの国を制圧しようとした。
オーストリアAustria制圧の試みは、さし当たり失敗に終わったが、1935年(昭和10年)1月には住民投票によってザール地方Saarを獲得し、更に同1935年(昭和10年)3月には、一般兵役義務General
military service obligationの復活を発表し、再軍備Rearmamentを推し進めることを明らかにした(再軍備宣言Rearmament declaration)。
ザール保護領Saar
Protectorate
ドイツGermany・フランスFrance国境のラインラントRheinlandにあるヨーロッパEurope有数の炭田地帯Coalfield
area。
ヴェルサイユ条約Treaty of Versailles(1919年(大正8年))で15年間国際連盟League of Nationsの管理下に置かれることとなり、フランスFranceが所有権と採炭権を得た。
第二次世界大戦World War II後、フランスFranceの占領地区となったが、1956年(昭和31年)人民投票で再びドイツGermanyに帰属した。
ストレーザ Stresa (イタリアItaly)
このようなナチス・ドイツNazi Germanyの動きに対して、1935年(昭和10年)4月イギリスUK・フランスFrance・イタリアItalyの3国は、ストレーザStresa(イタリアItaly)で会議を開いてドイツGermanyの再軍備宣言Rearmament declarationを非難し、オーストリアAustriaの独立保全を確認した(ストレーザ戦線Stresa Front)。
ストレーザ Stresa (イタリアItaly)
ストレーザ戦線Stresa Front
(1935年(昭和10年)4月)
ドイツGermany・オーストリアAustriaの合併annexationを恐れていたイタリアItalyを中心に結成された。
しかし2か月後にイギリスUKがドイツGermanyと海軍協定(英独海軍協定)(AGNA)Anglo-German Naval
Agreementを結び、また、同1935年(昭和10年)10月にイタリアItalyがエチオピア侵略Italian invasion of Ethiopiaを開始したため、解体した。
そしてその後、イタリアItalyはドイツHitler's Germanyと接近し始める。
英独海軍協定(AGNA) Anglo-German
Naval Agreement
しかし、その2か月後の1935年(昭和10年)6月には、ドイツGermanyはイギリスUKと海軍協定(英独海軍協定)(AGNA)Anglo-German Naval
Agreementを締結し、対英35%の海軍力の保持を認めさせることに成功した。
更に1936年(昭和11年)3月には、ヴェルサイユ条約Treaty of Versailles中のラインラント武装禁止Rhineland armed prohibited条項およびロカルノ条約Locarno Treaties(1925年(大正14年))を一方的に破棄してラインラントへ軍隊を進駐させ(ラインラント進駐Remilitarization of the Rhineland)、ドイツGermanyの戦略的地位を一挙に有利にした。
ドイツの拡大 Expansion of Germany
三国防共協定Tripartite Anti-Comintern Pact
この間、イタリアItalyのエチオピア侵略Italian invasion of Ethiopiaにさいして、ドイツGermanyはイタリアItalyに好意的な態度を示し、スペイン内乱Spanish Civil Warにおいては、イタリアItalyとともにフランコFrancisco Franco側を支援した。
この結果、ドイツGermanyとイタリアItalyは急速に親密化し、1936年(昭和11年)以降、両国の関係はローマ・ベルリン枢軸Berlin-Rome axisと呼ばれるようになった。
日独伊防共協定 Anti-Comintern Pact signed by Japan, Germany,
and Italy
なお、1936年(昭和11年)11月ドイツGermanyは日本Japanと防共協定Anti-Comintern Pact(日独防共協定Japan-Germany
Anti-Comintern Pact)を締結し、翌1937年(昭和12年)にはイタリアItalyもこれに参加して三国防共協定Tripartite Anti-Comintern Pactが成立した。
こうして、ヴェルサイユ体制Versailles system破壊の政策を推し進め、イタリアItaly・日本Japanといった外交上のパートナーを獲得したヒトラーAdolf Hitlerは、1937年(昭和12年)11月ドイツGermanyは戦争Warを賭しても生存圏Lebensraumを獲得しなければならないとの決意を軍部・外交の幹部に披瀝した。
アンシュルス Anschluss
合邦時点における ドイツ国(薄い赤色)と オーストリア(濃い赤色)の国土 (1938年(昭和13年)3月13日)
事実、翌1938年(昭和13年)3月のナチス・ドイツによるオーストリアの併合Annexation of Austria into Nazi Germany(アンシュルスAnschluss)を端緒として、ナチス・ドイツNazi
Germanyの対外侵略計画が実行に移された。
ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini
イタリアの侵略 Italian invasion
イタリアItalyでは、ムッソリーニBenito Mussoliniの独裁Dictatorshipのもとで工業振興・失業救済のための土木事業などが行われたが、やはり世界恐慌Great Depressionの波は1931年(昭和6年)ごろから波及して経済状態を悪化させ、1932年(昭和7年)には失業者unemploymentが100万人を越えるに至った。
このような国内の経済的危機より国民の関心をそらす必要からも、エチオピアの侵略Invasion of Ethiopiaを企てるに至った。
第二次エチオピア戦争 Second Italo-Ethiopian War
出征recruitするイタリア陸軍兵 Italian soldiers
エチオピア侵略 Invasion of Ethiopia
イタリアのエチオピア侵略Italian
invasion of Ethiopia(第二次エチオピア戦争 Second Italo-Ethiopian
War)は、1935年(昭和10年)10月開始され、これに対して国際連盟League of
NationsはイタリアItalyの国際連盟League of Nations規約侵犯を非難し、次いでイタリアItalyに対する経済的制裁措置を実行に移した。
すなわち、国際連盟League of Nationsの全加盟国は、イタリアItalyへの借款・信用の供与や武器その他の重要物資の輸出を行わないことと決められた。
しかし、国際連盟League of Nationsの指導国であるイギリスUK・フランスFranceがあくまでもイタリアItalyの侵略invasionを阻止するという決意を欠き、またイタリアItalyに対する禁輸品目から石油が除外されていたためもあって、この制裁措置は効果を上げ得なかった。
1936年(昭和11年)5月イタリアItalyはエチオピアEthiopiaの侵略invasionを完了し、1937年(昭和12年)12月には国際連盟League of Nationsに脱退Withdrawalを通告した。
戦勝victoryを報じるイタリアItalyの新聞newspaper、1936年(昭和11年)12月27日
補足 エチオピア Ethiopia
アビシニアAbyssiniaともいう。
前11世紀末、エジプトEgyptの支配から独立、4世紀ごろキリスト教化Christianizationし、7世紀ごろ強大となった。
のちイスラム勢力Islamic movementに包囲され、国内は乱れたが独立を維持した。
イタリアItalyに欠乏した鉱物・金属類・綿花に恵まれ、鉄・石炭・銅なども有望とされていた。
植民地獲得Colonial
acquisitionに遅れたイタリアItalyは早く1890年(明治23年)代に侵略invasionを試みたが(第一次エチオピア戦争 First Italo–Ethiopian War)、このときは大敗Great defeatに終わった。
スペイン内乱 Spanish Civil War
人民戦線内閣 Popular Front Cabinet
スペインSpainは20世紀twentieth
centuryに入ってからも工業化が遅れ、人口の圧倒的部分は農業に依存して生活していた。
しかも、農業の内容も北部と地中海沿岸の地域を除いてはきわめて貧困で、大土地所有制のもとに多くの零細な小土地所有農民および農業労働者が、飢餓と文盲の生活を送っていた。
ミゲル・プリモ・デ・リベラ Miguel Primo de Rivera
第一次世界大戦World War I後プリモ・デ・リベラMiguel Primo
de Rivera将軍generalが軍部の支持を得て独裁体制をしいたが(1923年(大正12年))、1930年(昭和5年)世界恐慌Great Depressionによって国内の矛盾が尖鋭化してくると失脚した。
アルフォンソ13世 Alfonso XIII
翌1931年(昭和6年)にはブルボン王朝Bourbon
dynasty(アルフォンソ13世Alfonso XIII)も倒れて(スペイン革命Spanish revolution)スペインSpainは共和国Republicとなり、同1931年(昭和6年)末にはドイツGermanyのヴァイマル憲法Weimar Constitutionを模した民主的内容の憲法Constitutionが制定された。
スペイン革命Spanish revolution
1800年、1830年、1868年(明治元年)、1923年(大正12年)、1931年(昭和6年)の5回にわたって革命revolutionが起こり、1873年(明治6年)までは立憲王国Constitutional Cabinet、1875年(明治8年)までは共和国Republic、1923年(大正12年)までは立憲君主国Constitutional
monarchy、1931年(昭和6年)までは君主政Monarchy下の独裁政治Dictatorship、以後再び共和国Republicとなった。
マヌエル・アサーニャ Manuel Azaña
しかし、この憲法Constitutionの下でスペインSpainの政情は安定せず、左右両勢力の抗争が激化の一途をたどった。
そうしたなかで1936年(昭和11年)2月に行われた議会選挙では、人民戦線協定Popular Front Agreementを結んだ左派諸政党(左派共和党・共和統一党・社会党・共産党)が右派を破って絶対多数を獲得し、アサーニャManuel Azañaを首班とする人民戦線内閣Popular Front Cabinetを組織した。
この内閣Cabinetは、人民戦線協定Popular Front Agreementに盛られた諸規定の実行に着手し、農業改革事業などを推し進め、またファシストfascist的な右翼政党Right wing
partyであるファランヘ党Falange
partyを弾圧し、フランコFrancisco Francoら軍部首脳を左遷したりした。
フランシスコ・フランコ Francisco Franco
カナリア諸島 Canary Islands
スペイン内乱 Spanish Civil War
このため、人民戦線政府Popular front governmentに対する右翼勢力Right wing forcesの反感が強まり、ついに1936年(昭和11年)7月スペインSpain各地で軍隊armyが反乱Rebellionを起こし、カナリア諸島Canary
IslandsにいたフランコFrancisco Franco将軍generalがクーデターCoup d'etatを宣言した。
スペイン本土Spanish Mainlandの反乱軍Rebel armyは武装した労働者の手によりいったん鎮圧されたが、モロッコMoroccoにおける反乱Rebellionは成功し、フランコFrancisco Franco将軍generalはこのモロッコMoroccoの反乱軍Rebel armyを率いて本土Spanish Mainlandに進攻した。
こうして、スペインSpainはフランコFrancisco Franco側と人民戦線政府Popular
front government側に分裂して内乱状態Civil Warに陥った。
アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway
フランコ政権Franco administration
ドイツGermanyとイタリアItalyは、最初から反共Anti-communismの名のもとにフランコFrancisco Franco側に支持を与え、公然と武器や兵員を送り込み、イギリスUK・フランスFranceの両政府は、列国nations of
the worldにスペイン内乱Spanish Civil Warへの不干渉政策Non-interference
policyを呼びかけた。
しかし、ソ連Soviet Unionは、ドイツGermany・イタリアItalyのフランコFrancisco Franco支援に対抗するために、人民戦線政府Popular
front governmentの側を援助するようになり、やはり武器や兵員をスペインSpainに送り込んだ。
また、各国政府governmentの態度とは別に、反ファシズムAnti-fascismの情熱に燃えた労働者や知識人Intellectualが、イギリスUK・フランスFrance・アメリカUSAなど数十か国からスペインSpainに集まり、国際義勇兵International Military Volunteerとして人民戦線政府Popular
front governmentの側に立って戦った。
ジョージ・オーウェル George Orwell イギリスの作家、ジャーナリスト
国際義勇兵International Military Volunteer
国際義勇兵International Military VolunteerにはヘミングウェイErnest
Hemingway・オーウェルGeorge Orwellらが参加した。
特にヘミングウェイErnest Hemingwayは、人民戦線政府Popular front government側につき、その体験をもとにして『誰がために鐘は鳴るFor Whom the Bell Tolls』を著した。
ゲルニカ Guernica パブロ・ピカソ Pablo Picasso
こうして、スペイン内乱Spanish Civil Warは、ファシズムfascism対人民戦線Popular front、全体主義Totalitarianism対民主主義Democracyの国際戦争International
warの性格を呈するようになった。
スペイン内乱Spanish Civil Warは1939年(昭和14年)春、首都マドリードMadridの陥落によってフランコFrancisco Franco側の勝利に帰し、フランコFrancisco Francoを頂点とするファランヘ党Falange
partyの一党独裁One-party
dictatorshipの体制が樹立された。
ドイツGermanyとイタリアItalyは、すでに1936年(昭和11年)10月にフランコ政権Franco administrationに承認を与えていたが、1939年(昭和14年)には、イギリスUK・フランスFrance・アメリカ合衆国USAもフランコFrancisco Franco側の勝利を認めて政権administrationを承認した。
エチオピア侵略 Italian invasion of Ethiopia
枢軸陣営の形成と国際政治の動向
国際政治の動向 Trends in international politics
さきに述べたように、エチオピア侵略Italian invasion of Ethiopiaやスペイン内乱Spanish Civil Warの過程で、ドイツGermany・イタリアItalyの接近が進んで、いわゆる枢軸陣営Axis campが形成された。
他方、1934年(昭和9年)にソ連Soviet Unionは国際連盟League of Nationsに加入し、更に翌1935年(昭和10年)にはソ連Soviet UnionとフランスFrance、ソ連Soviet UnionとチェコスロヴァキアCzechoslovakiaの間で、それぞれナチス・ドイツNazi Germanyの脅威に備えるための相互援助条約mutual assistance treatyが結ばれていた。
ドイツの拡大 Expansion of Germany
したがって、いまや国際政治International politicsの上で二つの国家グループNational group(一方はドイツGermany・イタリアItaly・日本Japanなどからなるいわゆるファシスト諸国家Fascist nationsのグループgroup、他方はソ連Soviet Union・フランスFranceなどに率いられた反ファシスト諸国家Anti-fascist nationsのグループgroup)が相互に対立し合うようになった。
ファシスト諸国家Fascist
nationsのグループgroupは、いずれも第一次世界大戦World War I後の国際政治International politicsの体制に不満をもち、この体制を打倒して侵略政策を推し進めようとしており、反ファシスト諸国家Anti-fascist
nationsのグループgroupはこうしたファシスト諸国家Fascist nationsの侵略を集団安全保障体制によって阻止しようとしていた。
ネヴィル・チェンバレン Neville Chamberlain イギリスの首相 British Prime Minister
宥和政策(ゆうわ・せいさく) Appeasement policy
この間にあって、イギリスUKはさし当たりファシスト諸国Fascist nationsに対して宥和的な政策Appeasement policyをとって国際対立International conflictが激化するのを防ごうとした。
イギリスUKは、ドイツGermanyのラインラント進駐Remilitarization of the Rhineland(1936年(昭和11年))やオーストリア併合Annexation of Austria into Nazi Germany(1938年(昭和13年))などに際してもこれを黙認connivanceする態度をとった。
このようにイギリスUKが宥和的な政策Appeasement policyをファシスト諸国Fascist nationsに向かってとり続ける限りは、フランスFranceもそれに拘束されてファシスト諸国Fascist nationsに対する断固たる行動に出ることはできず、イギリスUKの政策policyに追従する他はなかった。
クルト・シュシュニック Kurt Schuschnigg
第二次世界大戦 World War II
ドイツの侵略開始German
invasion begins
オーストリア併合 Annexation of Austria
Annexation of Austria
into Nazi Germany
(アンシュルスAnschluss)(独墺合邦(どくおう・がっぽう)Anschluss)
(1938年(昭和13年)3月13日)
ヒトラーAdolf Hitlerの本来の目標は、東方に向かってドイツGermanyの生存圏Lebensraumを拡大し大帝国huge empireを建設することであったが、1938年(昭和13年)3月のオーストリア併合Annexation of Austriaを手始めに、ヒトラーAdolf Hitlerはこの目標に向かって侵略行為act of aggressionを開始した。
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト Arthur Seyss-Inquart
イギリスUK・フランスFranceが介入しないことを見越して、オーストリアAustria首相Prime MinisterシューシュニクKurt Schuschniggに最後通牒ultimatumを突きつけ、首相Prime Ministerの地位をオーストリア・ナチスAustrian Nazi Partyの指導者leaderザイス・インクヴァルトArthur Seyss-Inquartに譲らせた。
次いで、ザイス・インクヴァルトArthur Seyss-Inquartの要請requestによると称してドイツの軍隊German ArmyをオーストリアAustriaに進駐occupationさせ、1938年(昭和13年)3月13日、オーストリアのドイツの併合Annexation of Austria into Nazi Germanyを宣言declarationした(独墺合邦(どくおう・がっぽう)Anschluss)。
ズデーテン併合 Nazi annexation of the
Sudetes
ミュンヘン会談 Munich Conference
ミュンヘン協定 Munich Agreement
(1938年(昭和13年)9月29日~30日)
(ズデーテン併合Nazi annexation of the Sudetes)
(ズデーテン危機Sudeten Crisis)
オーストリアAustriaに次いで、ヒトラーAdolf Hitlerの侵略invasionの鋒先はチェコスロバキアCzecho-Slovakiaのズデーテン地方the Sudetesのドイツ人問題German
problemに向けられた。
すなわち、ズデーテン地方のドイツ人Sudeten Germanは、チェコスロバキアCzecho-Slovakia内の少数民族minority raceとしてかねがねチェコ政府government of Czechoslovakiaに大きな不満を持っていたが、この不満を利用してズデーテン・ドイツ党Sudeten German Partyが勢力を得、チェコ政府government of Czechoslovakiaに向かって高度の自治を要求するようになった。
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler
ヒトラーAdolf Hitlerはこのズデーテン・ドイツ党Sudeten German Partyの運動を積極的に支援し、1938年(昭和13年)9月になると、ズデーテン・ドイツ人Sudeten Germanの問題problemを解決するために実力行使も辞さないことを表明した。
フランスFranceとソ連Soviet Unionは、それぞれ1924年(大正13年)と1935年(昭和10年)の条約によってチェコスロバキアCzecho-Slovakiaに援助を約束していたから、ここにズデーテン・ドイツ人Sudeten Germanの問題problemが大きな戦争warに発展する危険が生まれた。
ミュンヘン会談 Munich Conference
左からチェンバレン、 ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相
イギリス首相British prime ministerネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlainが事態の平和的解決に乗り出したが、ヒトラーAdolf Hitlerの強硬な態度のために一時は戦争warは不可避であるかに見えた。
エドゥアール・ダラディエ Édouard Daladier
しかし、最後の瞬間になって、ムッソリーニMussoliniの仲介により南ドイツSouthern GermanyのミュンヘンMunichでヒトラーAdolf Hitler・ムッソリーニMussolini・ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain・ダラディエDaladierの4首脳会談Four summit conference (ミュンヘン会談Munich Conference)が開かれ(1938年(昭和13年)9月29日~30日)、チェコ政府government of
Czechoslovakiaはズデーテン地方the SudetesをドイツGermanyに割譲すべきことに決められた。
エドヴァルド・ベネシュ Edvard Beneš チェコ大統領Czech President
対独宥和政策policy of appeasement
toward Germanyの頂点をなす事件であった(チェコ大統領Czech
PresidentベネシュEdvard Benešは、この事件を契機にロンドンLondonに亡命exileする)。
ミュンヘン会談 Munich Conference
(1938年(昭和13年)9月29日~30日)
このようなミュンヘン協定Munich Agreementの締結は、イギリスUK・フランスFranceの対独宥和政策policy of appeasement toward Germanyの頂点をなす事件で、ますますナチス・ドイツNazi Germanyの侵略invasionの野望の実行を促す結果となったことは否定できない。
また、ソ連Soviet Unionを排除して結ばれたことも重要である。
チェコスロバキアの解体
Dismantling of Czechoslovakia
チェコスロバキア併合 Nazi annexation of Czechoslovakia
ズデーテン地方the Sudetesを獲得したヒトラーAdolf Hitlerは、次にはチェコスロバキアCzechoslovakiaの全面的な解体Dismantlingを目指し、1939年(昭和14年)3月スロバキアSlovakiaをいったん独立Independenceさせた上でドイツGermanyの保護国protectorateとし、またボヘミアBohemia・モラヴィアMoraviaの両地方をドイツGermanyの保護の下に置くことを承認させ、次いでこの両地方をドイツGermanyの保護領protectorateとする旨宣言proclaimedした。
こうして、第一次世界大戦World War I後に誕生birthしたチェコスロバキアCzechoslovakiaは20年にして崩壊Collapseを遂げてしまった。
ネヴィル・チェンバレン Neville Chamberlain イギリスの首相 British Prime Minister
ポーランド問題 Poland problem
ヒトラーAdolf Hitlerの侵略invasionの鋒先bruntは、チェコスロバキアCzechoslovakiaの次にはポーランドPolandに向けられることが明らかであったから、これまで対独宥和政策policy of appeasement toward Germanyを追求してきたイギリス首相British prime ministerネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlainも、ここに至ってついに態度を硬化させ、1939年(昭和14年)3月末ポーランドの独立Polish independenceを保障British Guaranteeする旨の声明statementを発表した。
イギリス・ポーランド相互援助条約
Agreement of Mutual Assistance between the United Kingdom and Poland
(1939年(昭和14年)8月)
上記の保障声明Guarantee
statementは、1939年(昭和14年)4月双務的なbilateral協定Agreementに改められ、更に8月には相互援助条約Agreement of Mutual Assistanceに発展せしめられた。
フランスFranceもイギリスUKに歩調を合わせてポーランドPolandに保障Guaranteeを与えた。
ポーランド分割 Partitions of Poland
第二次世界大戦World War II前の国際関係
一方、ヒトラーAdolf Hitlerは、すでに前1938年(昭和13年)秋からポーランドPolandに対してダンチヒDanzig(現在のグダニスクGdańsk)の返還、ポーランド回廊(かいろう)Polish Corridorを横断する自動車道路および鉄道の建設を要求していたが、1939年(昭和14年)4月になるといっそう攻撃的調子を強め、ポーランドPolandとの不可侵条約Non-Aggression Pact(1934年(昭和9年)にヒトラーHitler自身が結んだもの)と英独海軍協定(AGNA)Anglo-German Naval
Agreementの破棄を宣言するに至った。
ポーランド回廊(かいろう)Polish Corridor
ポーランド回廊 Polish Corridor
ポーランド回廊(かいろう)Polish Corridorとは、ヴェルサイユ条約Treaty of Versailles(1919年(大正8年))でポーランド領Polish territoryとなった西プロイセンWest PrussiaとポーゼンPosen北部地方を指し、ドイツ系住民German inhabitantsが多かった。
ユーゴスラビア Yugoslavia
そして翌1939年(昭和14年)5月には、独伊軍事同盟German-Italy Military Allianceを締結した(この間イタリアItalyは4月初めにアルバニア併合Italian
invasion of Albaniaの挙に出ていた)。
こうして国際的緊張International
tensionはますます高まっていったが、事態の発展にとって重要な意義をもったのは、ソ連Soviet Unionの態度であった。
というのも、イギリスUK・フランスFranceがポーランドPolandをドイツGermanyの侵略invasionから守ろうとすれば、ポーランドPolandと境を接するソ連Soviet Unionの軍事的協力Military cooperationがぜひとも必要とされたからである。
ヴャチェスラフ・モロトフ Vyacheslav Molotov
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ Joachim von Ribbentrop
そこで1939年(昭和14年)春以降、イギリスUK・フランスFranceとソ連Soviet Unionとの間でポーランドPolandに対する援助Assistanceの問題をめぐって交渉が行われたが、ソ連Soviet Unionは秘かにドイツGermanyに接近して1939年(昭和14年)8月23日独ソ不可侵条約Russo-German Non-Aggression Pact(モロトフ=リッベントロップ協定 Molotov-Ribbentrop Pact)を締結した。
ソ連Soviet Unionとしては、西欧諸国Western
European countriesとの交渉が容易に妥結を見ない以上、自国の安全を守るためには直接ドイツGermanyと不可侵条約Non-Aggression Pactを結ぶ他はないと考えたのである。
ヒトラーAdolf Hitlerは、この条約の締結によって、きたるべきポーランド攻撃German
invasion of Polandに際してのソ連Soviet Unionの中立neutralityを確保することに成功した。
独ソ不可侵条約 Russo-German Non-Aggression Pact
補足 独ソ不可侵条約 Russo-German Non-Aggression Pact
(モロトフ=リッベントロップ協定 Molotov-Ribbentrop Pact)
(1939年(昭和14年)8月23日)
①相互不可侵、
②一方が第三国の戦争行為の対象とされた場合、他方はこの第三国を援助しない、
③いずれの側も、一方を直接・間接の対象とする国際集団に参加しない、
などを主な内容とする。
モスクワ Moscow
この条約には付属秘密議定書Attached
Secret Protocolがあったことは、ほぼ確実視されており、そのなかで、独ソ両国は東ヨーロッパEastern Europeにおける勢力範囲の分割を行った。
この条約をソ連Soviet Unionが締結した背景には、ミュンヘン協定Munich Agreement以来のイギリスUK・フランスFranceの対独宥和政策policy of appeasement
toward Germanyにかんがみ、ソ連Soviet UnionのみがドイツGermanyの侵略invasionの犠牲となる事態を回避しようとする意図があった。
事実、ソ連Soviet Unionはこの条約によって将来のドイツGermanyの攻撃に備える時間を稼ぐことができた。
一方、ヒトラーAdolf Hitlerの側は、これによって、ポーランド攻撃German
invasion of Polandの場合にイギリスUK・フランスFranceとソ連Soviet Unionと同時に戦う事態を避けることに成功した。
ドイツのポーランド進攻 German
invasion of Poland L-R, top to
bottom:
Luftwaffe bombers over Poland;
Schleswig-Holstein attacking the Westerplatte;
Danzig Police destroying the Polish border post;
German tank and armored car formation;
German and Soviet troops shaking hands;
Bombing of Warsaw.
第二次世界大戦 World War II
ドイツのポーランド進攻
German invasion of Poland
かねてポーランド粉砕Polish crushを意図していたヒトラーAdolf Hitlerは、1939年(昭和14年)9月1日に宣戦布告declaring warなしにドイツ軍をポーランドへ進攻German
invasion of Polandさせた。
このドイツGermanyの侵略行為act of
aggressionに対して、英UK仏France両国は宣戦布告declaring
warをもって応じ(9月3日)、ここに第二次世界大戦World War IIが勃発outbreakした。
ドイツのポーランドへの進撃German invasion of Polandは、いわゆる電撃戦lightning war(ブリッツクリークBlitzkrieg)の形で推し進められ、開戦後約2週間でポーランドPolandは軍事的にも政治的にも崩壊Collapseした。
この間、なお戦争warの局地化の望みを捨てなかったイギリスUK・フランスFranceは、宣戦布告declaring warにもかかわらずドイツGermanyへの攻撃を手控えた。
ソ連の進攻 Soviet invasion
ドイツGermanyとソ連Soviet Unionは、すでに独ソ不可侵条約Russo-German Non-Aggression Pactの付属秘密議定書Attached
Secret ProtocolのなかでヨーロッパEuropeにおける両国の利益範囲を画定していたが、事実、1939年(昭和14年)9月半ばにはソ連もポーランドへ進攻Soviet invasion of Polandし、独ソGermany and Soviet Union間でポーランドを分割Partitions of Polandした。
ソ連Soviet Unionは、引き続きバルト3国three Baltic countries(エストニアEstonia・ラトヴィアLatvia・リトアニアLithuania)と相互援助条約Agreement of Mutual Assistanceを結び、これら諸国の軍事的拠点をも掌中に納めた(翌1940年(昭和15年)にバルト3国three Baltic countriesはソ連に併合Annexation to the Soviet Unionされた)。
更に、その後フィンランドFinlandに対して開戦opening of warし(1939年(昭和14年)11月)、翌1940年(昭和15年)3月の講和条約Peace treatyでカレリア地方Karelia regionを獲得し、ここに軍事基地Military baseを置いた。
冬戦争(ふゆせんそう)Winter War (第1次ソ・芬戦争First Soviet-Finnish War)
(1939年(昭和14年)11月)
この戦争Warのため、ソ連Soviet Unionは国際連盟League of Nationsを除名Expulsionされた(1939年(昭和14年)12月)
こうして、ドイツのポーランド進撃German invasion of Polandを契機に、ソ連Soviet Unionも自己の勢力圏の拡大に努め、きたるべきドイツの侵入German invasionに備えた。
北欧 Northern Europe
西部戦線 Western Front
ポーランドPolandに対する作戦を完了したヒトラーAdolf Hitlerは西欧諸国Western European
countriesに和平提案Peace
proposalを行ったが、英UK仏Franceがこれを拒否したため、1940年(昭和15年)春を待って西部戦線Western Frontで攻撃を開始することに決めた。
ドイツ軍German Armed Forces主力main forceを東部Easternから西部戦線Western Frontに配備し終わると、西部戦線Western Frontでの攻撃に先立ってデンマークDenmark・ノルウェーNorwayを侵略invasionしたのち(1940年(昭和15年)4月)、ドイツ軍はオランダNetherlands・ベルギーBelgium・ルクセンブルクLuxembourgの国境を突破Break through
the borderして進撃を始めた(1940年(昭和15年)5月)。
その結果、オランダNetherlandsとベルギーBelgiumがあえなくドイツGermanyに降伏Surrenderした(1940年(昭和15年)5月15日、5月28日)。
フランスFranceに対してもマジノ線Maginot Lineを突破して機甲部隊armored cavalryによるすさまじい進撃が繰り広げられ、北フランスNorthern
Franceを横断して大西洋岸Atlantic
coastのブーローニュBoulogne-sur-Mer・カレーCalaisなどの都市Cityを占領occupationした。
マジノ線 Maginot Line
マジノ線Maginot Lineとジークフリート線Siegfried
Line
1930年(昭和5年)からフランスFranceが、東部国境線Eastern borderに作った地下都市Underground city的要塞線Fortress lineがマジノ線Maginot Lineで、ライン川Rhine river沿いにイタリアItalyに至る。
これに対抗してドイツGermanyが作ったのがジークフリート線Siegfried Lineである。
この結果、ダンケルクの撤退作戦Dunkirk
evacuation(ダイナモ作戦Operation
Dynamo)によって約35万の英仏軍British and French armyがかろうじてイギリスUKに逃げ延びた。
その後、ドイツ軍German Armed Forcesの攻撃は南方に向けられ、1940年(昭和15年)6月14日にはパリParisが戦闘Battleなしに占領occupationされた(フランスの戦いBattle of
France)。
フィリップ・ペタン Philippe Pétain
ペタンPhilippe Pétain元帥Marshalを首班として組織されたフランスFranceの新政府New governmentは、6月17日にドイツGermanyに降伏Surrenderし、6月22日かつて第一次世界大戦World War Iの休戦Armisticeが成立したコンピエーニュCompiègneでドイツGermanyと休戦協定Armistice agreementを締結した。
それによれば、北部フランスNorthern Franceおよび中部フランスCentral Franceの全域がドイツGermanyの占領地域Occupied areaとされ、フランスFranceのペタン政権Pétain administrationはヴィシーVichyに首都を置いて南部フランスSouthern Franceを統治することとなった(ヴィシー政権Vichy France)。
ヴィシー政権 Vichy France
(1940年(昭和15年)~1944年(昭和19年))
南フランスSouthern FranceのヴィシーVichyに政府governmentを置いたペタンPhilippe Pétainは、ドイツGermanyとの協力を積極的に進めるとともに、第3共和国憲法Third Republic Constitutionを廃止して、国会National Assemblyを無期停会とし、自らフランスFranceの国家主席chief of stateとなった。
1944年(昭和19年)連合軍Allied forcesの反攻Counterattackとともに対独協力的policy of collaboration with Nazi Germanyだったヴィシー政権Vichy Franceは崩壊した。
シャルル・ド・ゴール Charles de Gaulle
ここに、フランスの第3共和政French Third Republicは終わった。
このとき、ド・ゴールCharles de
Gaulle将軍generalはロンドンLondonに飛んで対独抗戦Battle
against Germanyを叫び、その後自由フランスFree France政府governmentを組織してドイツGermanyと戦った。
また、フランス国内In FranceでもドイツGermanyに対するレジスタンス(抵抗運動)Resistanceが起こった。
なお、イタリアItalyは、フランスFranceにおける戦闘Battleの帰趨が明白になった1940年(昭和15年)6月になって、初めてドイツGermany側に立って参戦Participation in the warした。
英国空中戦 Battle of Britain
イギリスの抗戦と独ソ戦の開始
イギリス本土攻撃
以上のようにして北ヨーロッパNorthern
EuropeからフランスFranceに至る広大な地域を占領occupationしたヒトラーAdolf Hitlerは、イギリス上陸作戦British landing operation(アシカ作戦Operation Sea
Lion)をもくろみ、まず制空権Air supremacyを握るために、1940年(昭和15年)の夏から秋にかけてイギリス本土British Mainlandへの大規模な空爆Air strikeを試みたが、初期の目的を達することはできなかった。
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill
すなわち、イギリスUKは1940年(昭和15年)5月にネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlainに代わってチャーチルWinston Churchillのもとに徹底的な抗戦の姿勢を示し、ドイツ空軍German air forcesの大規模な攻勢にもかかわらず、その防衛力Defense powerは本質的な衰えを示さなかった。
そのため、ヒトラーAdolf Hitlerはイギリス上陸作戦British landing operationを断念せざるを得なかった。
これは、勝ち誇るドイツ軍German Armed Forcesの進撃にストップがかけられた最初であり、第二次世界大戦World War IIの勝敗の一つの分かれ目となった。
独ソ戦 German-Soviet War
東部戦線 Eastern Front
(1941年(昭和16年)6月22日)
イギリスUKへの攻撃が行き詰まったとき、ヒトラーAdolf Hitlerは、次にはソ連Soviet Unionへの攻撃を考えるようになった。
ヒトラーAdolf Hitlerの本来の目標は、東方に生存圏を拡げることであり、したがって、彼はソ連Soviet Unionとの戦争Warを早晩不可避と見ていた。
しかし、ヒトラーAdolf Hitlerの対ソ攻撃の直接の動機となったのは、バルカンBalkansにおける独ソGermany and Soviet Unionの利害の衝突であった。
すなわち、ドイツGermanyが西部戦線Western Frontに専念している間に、ソ連Soviet UnionはルーマニアRomaniaからベッサラヴィアBessarabiaと北部ブコヴィナNorthern Bukovinaの二地方を奪取した(1940年(昭和15年)6月)。
ルーマニアRomaniaの石油資源oil resourcesはドイツGermanyにとって死活的重要性をもっていたので、ヒトラーAdolf Hitlerはこうしたソ連Soviet Unionの進出に脅威を感じた。
独ソ戦 German-Soviet War
こうして1940年(昭和15年)末までにヒトラーAdolf Hitlerは対ソ開戦War against the Soviet Unionを決意するに至り、まずユーゴスラヴィアYugoslavia・ギリシアGreeceを占領して側面を固めたのち(1941年(昭和16年)4月)、1941年(昭和16年)6月22日ソ連への攻撃German invasion of USSRを開始した。
ヒトラーAdolf Hitlerは電撃戦lightning warによって短期間でソ連Soviet Unionを片付け得ると信じ、事実、ルーマニアRomania・ハンガリーHungary・フィンランドFinlandに支持された緒戦におけるドイツ軍German Armed Forcesの進撃ぶりは目覚しかった。
独ソ戦 German-Soviet War
しかし、間もなくレニングラードLeningradとモスクワMoscowの前面でソ連軍Soviet Armed forcesの頑強な抵抗にあってドイツ軍German
Armed Forcesの進撃はストップし、戦争Warは冬を越えて長期戦に持ち込まれた。
独ソ戦German-Soviet Warが開始されると、英ソBritish Soviet Union間に相互援助条約mutual assistance treatyが結ばれ、またアメリカUSAもソ連Soviet Unionに必要な物資を提供するなどして、積極的なソ連Soviet Union援助assistanceに乗り出した。
こうして第二次世界大戦World War IIにおける米英ソUS-UK-Sovietの協力関係が始まり、ソ連Soviet Unionはその過程でコミンテルンComintern解散dismissの措置もとった(1943年(昭和18年))。
孤立主義 Isolationism
太平洋戦争 Pacific War
アメリカの態度 American attitude
1930年(昭和5年)代のアメリカ合衆国USAでは孤立主義Isolationism的傾向が強かった。
しかし、ヒトラーAdolf Hitlerのポーランド攻撃German invasion of PolandによってヨーロッパEuropeでの戦争Warが勃発outbreakすると、アメリカUSAは最初から英仏UK and France側に好意的態度を示した。
1939年(昭和14年)11月には、中立法Neutrality Actを改正して英仏UK and France側への武器weaponsの供与Donationを図り、特にフランスFranceの降伏Surrender後は、窮地に立たされたイギリスUKへの援助assistanceを強めた。
フランクリン・ルーズベルト Franklin D. Roosevelt
1940年(昭和15年)12月の演説でローズヴェルトFranklin Roosevelt大統領PresidentがアメリカUSAを民主主義の兵器廠Arsenal of
Democracyと呼んだのは、有名である。
その後アメリカUSAは、1941年(昭和16年)3月には画期的な武器貸与法(レンドリース法Lend-Lease Acts)を制定して対英援助Assistance to the UKを更に強化し、次いで、ドイツGermanyの潜水艦戦Submarine warfareに対抗するために、大西洋Atlantic ocean上の海軍US Navyのパトロールpatrolを強化してヨーロッパEuropeへの軍需物資の輸送の安全確保に努めた。
イギリスと中国に援助を与えるレンドリース法案Lend-Lease
Actsに署名する
フランクリン・ルーズベルトFranklin D.
Roosevelt大統領President
武器貸与法(レンドリース法Lend-Lease Acts)
(1941年(昭和16年)3月)
元来、アメリカUSAは伝統的孤立政策Isolationismに基づく中立法Neutrality Actが古くからあり、特に1935年(昭和10年)には交戦国への武器・軍需品の輸出や借款を禁じたが、1939年(昭和14年)第二次世界大戦World War IIが勃発outbreakすると、その武器禁輸条項を撤廃して連合国United
Nationsへの加担を明確化にした。
武器貸与法(レンドリース法Lend-Lease Acts)はこれを一歩進めて、大統領Presidentがアメリカ防衛American defenseに必要と考える諸国に軍需品を貸与する権限を持つことを認めたもので、事実上の参戦Participation in the warを意味する。
これによって総計500億ドル以上の物資が連合国United Nationsに送られた(うち、イギリスUKが60%以上、ソ連Soviet Unionが22%を受け取った)。
ハリー・S・トルーマン Harry S.
Truman
1945年(昭和20年)トルーマンHarry S. Trumanによって適用中止が宣言され、以後は借款形式をとることとなった。
独ソ戦German-Soviet Warが開始されると、武器貸与法(レンドリース法Lend-Lease Acts)はソ連Soviet Unionにも適用され、また、グリーンランドGreenlandやアイスランドIcelandに海軍基地Naval baseが設けられるなど、アメリカ海軍US Navyの行動半径も一段とひろがった。
こうしてすでに1941年(昭和16年)末以前において、アメリカUSAは事実上中立国neutral nationであることをやめていた。
大西洋憲章 Atlantic Charter
1941年(昭和16年)8月には、アメリカ大統領US PresidentローズヴェルトFranklin Rooseveltとイギリス首相British Prime MinisterチャーチルWinston Churchillが大西洋Atlantic ocean上で会見し、いわゆる大西洋憲章Atlantic Charterを発表して民主主義諸国Democratic countriesの戦争目標War goalを明らかにした。
そして1941年(昭和16年)12月、日本の対米宣戦を機会に、アメリカUSAも第二次世界大戦World War IIに本格的に突入することとなった。
スターリングラード Stalingrad
(現在のヴォルゴグラードVolgograd)
スターリングラードの戦い Battle
of Stalingrad
連合軍の勝利 Allied victory
ロシア戦線 Russian front
ヨーロッパEuropeでも、1942年(昭和17年)末から1943年(昭和18年)にかけて、戦局war situationは明らかに枢軸国Axis powers側に不利に傾き始めた。
まずロシア戦線Russian frontでは、1942年(昭和17年)夏以降ドイツGermanyがスターリングラードStalingrad(現在のヴォルゴグラードVolgograd)とコーカサスCaucasusに向かって新しい攻撃を開始したが、ソ連軍Soviet Armed forcesの反撃によってスターリングラードStalingradを包囲していたドイツ軍German Armed Forcesは孤立に陥り、結局約30万にのぼる犠牲者を出して1943年(昭和18年)1月降伏Surrenderした。
このスターリングラードをめぐる戦いBattle of Stalingradを転換点Turning pointとして、それ以後はソ連軍Soviet Armed forcesが西方への進撃を続け、ポーランドPoland・チェコスロヴァキアCzecho-Slovakia・ハンガリーHungary・オーストリアAustriaを解放し、1945年(昭和20年)にはドイツ領内German territoryに突入した。
エルヴィン・ロンメル Erwin Rommel
エル・アラメインの戦い Battle of El Alamein
北アフリカ戦線 North African campaign
1942年(昭和17年)8月末、イタリア軍Italian
Armed forcesに支援されたロンメルErwin Rommel指揮下のドイツ・アフリカ軍団German-African CorpsがエジプトEgyptの門戸doorエル・アラメインEl Alameinへの攻撃を開始した(第一次エル・アラメインの戦いFirst Battle
of El Alamein)。
しかし、ロンメルRommelはエル・アラメインEl Alameinの前面で足踏みし、同1942年(昭和17年)10月には、イギリス軍British Armed forcesの反撃が開始され、ドイツ軍German
Armed forcesは大きな損害をこうむって後退しなければならなかった(第二次エル・アラメインの戦いSecond
Battle of El Alamein)。
ドワイト・D・アイゼンハワー Dwight D.
Eisenhower
トーチ作戦Operation Torchの上陸計画。
しかも、同1942年(昭和17年)11月アイゼンハウアーEisenhower(1890年~1969年)指揮下の米・英軍US-UK Armed forcesがモロッコMoroccoとアルジェリアAlgeriaに上陸landingしたため(トーチ作戦Operation Torch)、アフリカAfricaの独・伊軍German and Italian Armed forcesは東西から挟撃されることになり、1943年(昭和18年)5月ついに降伏surrenderせざるを得なかった。
こうして、北アフリカの戦争North African
campaignは終了を告げたのである。
連合国軍のイタリア侵攻 Allied invasion of Italy
(1943年(昭和18年)9月8日)
北アフリカNorth
Africaを制圧した米・英軍US-UK Armed forcesは、次いで1943年(昭和18年)7月シチリア島Sicily islandを占領occupationし、更に南イタリアSouthern Italyに進攻した(連合国軍のイタリア侵攻Allied
invasion of Italy)(1943年(昭和18年)9月)。
ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini
ピエトロ・バドリオ Pietro Badoglio
イタリアItaly国内では、王室・軍部・ファシストの一部などがムッソリーニMussolini打倒のために結集し、7月25日ムッソリーニMussoliniは失脚し、新たにバドリオPietro
Badoglio元帥Marshalを首班とする政権administrationが成立した。
このイタリアItalyの新政権New
administrationは、9月連合軍Allied forcesと単独休戦協定Armistice agreementを結び、次いで10月には連合国United
Nations側に立ってドイツGermanyに宣戦した。
カサブランカ Casablanca
カサブランカ会談 Casablanca Conference
戦後処理の会談 Postwar processing Conference
連合国United Nationsが北アフリカNorth
Africaで反攻を開始していた1943年(昭和18年)1月、モロッコMoroccoのカサブランカCasablancaで米英首脳会談US-UK Summit
Meetingが行われ(カサブランカ会談Casablanca Conference)、ドイツGermanyに対する作戦・無条件降伏Unconditional
surrenderなどが議せられたが、一方ソ連Soviet Unionは米・英両国US-UK both
countriesに対して第2戦線Second frontの形成を要求し、そのためコミンテルンCominternを解散した(1943年(昭和18年)5月)。
カイロ Cairo
カイロ会談 Cairo Conference
また、1943年(昭和18年)11月にはカイロCairoでローズヴェルトFranklin Roosevelt・チャーチルWinston Churchill・蒋介石(しょう・かいせき)Chiang Kai-shekの三国首脳会談Three States Summit Meetingが行われ(カイロ会談Cairo Conference)、日本領土の処置・無条件降伏の要求など対日諸条件が決定された(カイロ宣言Cairo
Declaration)(これはポツダム宣言Potsdam Declarationの基礎となった)。
テヘラン Tehran
テヘラン会談 Tehran Conference
更にその直後、ローズヴェルトFranklin Roosevelt・チャーチルWinston Churchill・スターリンJoseph Stalin 三巨頭Big threeによるテヘラン会談Tehran
Conferenceが行われ(1943年(昭和18年)11月~12月)、対ドイツ作戦Operation
against Germany・第2戦線Second frontの形成などが議せられた。
スターリングラードの戦い Battle
of Stalingrad
補足 第2戦線Second front
スターリングラードの戦いBattle of Stalingrad(1942年(昭和17年)夏~1943年(昭和18年)1月)を契機にソ連軍Soviet Armed forcesはドイツGermanyへの反攻に転じたが、東部戦線Eastern Frontの犠牲は非常に大きく、ソ連Soviet Unionは連合軍Allied forcesのヨーロッパ本土European mainland上陸作戦Landing operationを強く要求した。
結局、1944年(昭和19年)6月に至って連合軍Allied forcesはノルマンディーNormandyに上陸Landingして、西方からの反撃が開始された。
広くアフリカAfrica・イタリアItaly作戦をも含めていうが、問題となったのは、この上陸作戦Landing operationである。
ドワイト・D・アイゼンハワー Dwight D.
Eisenhower
ノルマンディー Normandy
パリ解放 Liberation of Paris
解放後シャンゼリゼ通りChamps-Élyséesを行進する自由フランスFree French軍第2機甲師団の車輌と沿道に集まったパリ市民。(1944年(昭和19年)8月25日)
1944年(昭和19年)に入って東部戦線Eastern Frontではソ連軍Soviet Armed forcesの進撃が続いていたが、これに呼応して同1944年(昭和19年)6月アイゼンハウアーEisenhower指揮下の米・英軍US-UK Armed forcesは圧倒的な優勢な兵力をもってフランスFranceのノルマンディーNormandyに上陸Landingし、北フランスNorthern
Franceを瞬く間に解放し、8月25日ド・ゴールde Gaulle将軍を先頭に自由フランス軍Free French Forcesを含むアメリカ軍US Armed ForcesがパリParisに入った(パリ解放Liberation of Paris)。
9月初めには、ブリュッセルBrussels・アントワープAntwerpなどもイギリス軍British Armed Forcesの手に落ち、こうしてドイツ軍German Armed Forcesは東西の両戦線で後退を重ねた。
ヤルタ Yalta クリミア半島 Crimean Peninsula
ヤルタ会談 Yalta
Conference
第二次世界大戦World War IIの最後の年である1945年(昭和20年)2月になると、米・英・ソUS / UK /
Sovietの三巨頭Big threeは再びクリミア半島Crimean
PeninsulaのヤルタYaltaで会談し(ヤルタ会談Yalta Conference)、対独作戦Operation against Germany・ドイツの処理・ソ連の対日参戦と領土利権の回復などを決めた(ヤルタ協定Yalta
Agreement)。
西方連合軍western
Alliesの空軍Air Forceは完全に制空権Air supremacyを握り、ドイツGermanyの主な都市を次々に空襲Air raidによって破壊した。
米・英軍US-UK Armed forcesは3月ライン川Rhine riverの渡河に成功し、4月中に西ドイツWest Germanyの大部分を占領occupationした。
一方、ソ連軍Soviet Armed
forcesも1945年(昭和20年)1月ワルシャワWarsawに入り、3月初めにはオーデル・ナイセ線Oder–Neisse
lineに達した。
4月には更にドイツGermanyへの進攻を続け、同4月25日にはエルベ川Elbe riverで初めてアメリカ軍US Armed Forcesと出会った。
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler
ベルリン陥落 Fall of Berlin
ソ連軍Soviet Armed forcesに包囲されたベルリンBerlinで4月30日ヒトラーAdolf Hitlerは自殺suicideを遂げ、5月2日にはベルリン陥落Fall of Berlinした。
5月7日、ドイツGermanyはアイゼンハウアーEisenhowerの司令部HeadquartersのあるフランスFranceで連合国United Nationsに対して無条件降伏Unconditional surrenderし(ドイツの降伏Surrender
of Germany)、ヨーロッパEuropeに関する限り、第二次世界大戦World War IIはここに5年8か月をもって終わりを告げた。
ミッドウェー海戦 Battle of Midway
ポツダム宣言と日本の降伏
Potsdam Declaration Surrender of Japan
太平洋Pacific Oceanではなお戦争Warが続いていたが、日本Japanの劣勢Inferiorはおおいがたかった。
1942年(昭和17年)8月以降行われたソロモン諸島Solomon Islandsのガダルカナル島をめぐる攻防戦Battle of Guadalcanalは、結局日本軍Japanese Armed Forcesの撤退Withdrawalに終わり(1943年(昭和18年)2月)、ミッドウェー海戦Battle of
Midwayに次ぐ戦局war situationの大きな転機major turning pointとなった。
戦艦扶桑(ふそう) Battleship Fuso
1944年(昭和19年)10月25日、スリガオ海峡海戦Battle
of Surigao Straitで、雷撃torpedo attackされ沈没sunk
1943年(昭和18年)以降、東南太平洋Southeast Pacificおよび中部太平洋Central Pacificにおいてアメリカ軍US Armed
Forcesは飛石作戦Island
Hoppingを着実に進め、1944年(昭和19年)7月にはサイパン島Saipan islandを占領occupationし、同1944年(昭和19年)10月にはフィリピンPhilippinesに上陸landingした。
翌1945年(昭和20年)に入って硫黄島(いおう・じま)Iwo Jima・沖縄Okinawaも米軍US Armed
Forcesの手に帰し、また日本本土Japanese
mainlandの主な都市principal
citiesがほとんど連日Every day空襲Air raidにさらされた。
ポツダム Potsdam
ポツダム会談 Potsdam Conference
1945年(昭和20年)7月、トルーマンTruman(米USA)・チャーチルChurchill(英UK)・スターリンStalin(ソ連Soviet Union)はベルリン郊外suburb of BerlinのポツダムPotsdamで会談して(ポツダム会談Potsdam Conference)ドイツGermanyの戦後処理問題Postwar processing problemなどを協議したが(ポツダム協定Potsdam
Agreement)、この会談中の7月26日に米USA・英UK・中華民国Republic of Chinaの3国の名で日本Japanに無条件降伏Unconditional surrenderを要求するポツダム宣言Potsdam Declarationが発表された。
広島市への原子爆弾投下 Atomic bombings of Hiroshima
しかし、日本政府Japanese Governmentがこれを黙殺する態度をとったため、アメリカUSAは8月6日広島Hiroshimaに、次いで8月9日長崎Nagasakiに原子爆弾atomic bombを投下Droppingした。
また8月8日に、ソ連the Soviet Unionがヤルタ会談the Yalta Conference(1945年(昭和20年)2月)の決定に基づいて日本Japanに宣戦declaring warし、ソ連国境Soviet borderを越えて満州Manchuriaになだれこんだ。
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう) Kantaro Suzuki
ここに至って日本Japanはついに8月14日ポツダム宣言Potsdam
Declarationを受諾acceptanceして連合国United Nationsに無条件降伏Unconditional surrenderした(日本Japanの首相Prime
Ministerは鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)Kantaro
Suzuki)(日本の降伏Surrender of Japan)。
9月2日、東京湾Tokyo Bay内の戦艦ミズーリBattleship Missouri艦上aboardで降伏文書Instrument
of surrenderの正式調印formal signingが行われた。
こうして、第二次世界大戦World War IIは終了endingした。