13章3節 ファシズム化と侵略の拡大
第3節 ファシズム化と侵略の拡大
南満洲鉄道 South Manchuria Railway
南満洲鉄道 South Manchuria Railway
南満洲鉄道South Manchuria Railway
南満洲鉄道South Manchuria Railwayは、日露戦争Russo-Japanese
War終結後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約Treaty of Portsmouthによって、ロシア帝国Russian
Empireから日本Imperial Japanに譲渡cessionされた東清鉄道Chinese Eastern Railway南満州South
Manchuria支線branch lines(長春Changchun・旅順Lüshun間鉄道Railway)のこと。
また、支線branch linesを含む鉄道事業Railway businessおよび付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)に設立された特殊会社National Policy Company、南満洲鉄道株式会社South Manchuria Railway Companyを指す。
南満州South Manchuriaにおいて鉄道運輸業Railway transportation industryを営み、日本Imperial Japanの満洲Manchuria経略administrationにおける重要拠点Important baseとなった。
略称Abbreviationは満鉄(まんてつ)(滿鐵)。
満州事変Manchurian Incident
満蒙武力占領計画
満州(まんしゅう)Manchuriaに対する軍事的Military・経済的進出Economic advanceの要求requestは、対ソ戦略Japan's strategy toward the Soviet Unionあるいは市場拡大Market expansionのために以前からあった。
浜口雄幸(はまぐち・おさち) Osachi Hamaguchi
恐慌panicの進展は、ますますこの要求を強めさせており、とくに関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyは、浜口雄幸(はまぐち・おさち)内閣Cabinetの協調外交Cooperative diplomacy方針にも反する満州(まんしゅう)Manchuria・内蒙古(ないもうこ)Inner
Mongolia(満蒙(まんもう)Manchuria–Mongolia)での軍事行動military operationsの準備を進め、武力占領Armed
occupationを企てていた。
日本Imperial Japanと満蒙(まんもう)Manchuria–Mongolia
満州(まんしゅう)Manchuriaは、経済的には日本Imperial Japanの海外投資Overseas investmentの過半が集中している資本輸出先、および石炭coal・銑鉄pig iron・大豆soyなどの原料供給地として重要であった。
政治的・軍事的には、対ソ攻撃Attack
against the Soviet Unionと中国侵略Invasion of Chinaの基地であり、朝鮮支配Korean ruleの維持のためにも不可欠と考えられていた。
また、過剰人口surplus populationを送り込む地としても期待された。
関東都督府(かんとう・ととくふ)
関東軍(かんとうぐん) Kwantung Army
補足 関東軍と中国侵略
関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyの前身は、1906年(明治39年)設置の関東都督府(かんとう・ととくふ)の陸軍部Army Department。
1919年(大正8年)、関東庁(かんとうちょう)設立に伴い行政庁と分離、陸軍部が関東軍Kwantung Armyとして独立し、関東軍司令官Kwantung Army Commanderのもと日本Imperial Japanの中国侵略Invasion of Chinaの先鋒となった。
石原莞爾(いしわら・かんじ) Kanji Ishiwara
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎(いたがき・せいしろう)らとともに柳条湖事件Liutiaohu Incident・満州事変Manchurian Incidentを起こした首謀者であるが、後に東條英機(とうじょう・ひでき)との対立から予備役reserve dutyに追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯war crime指定を免れた。
板垣征四郎(いたがき・せいしろう) Seishiro Itagaki
関東軍(かんとうぐん)Kwantung Army高級参謀として石原莞爾(いしわら・かんじ)とともに満州事変Manchurian Incidentを決行し、第二次世界大戦Second World Warにおいては第7方面軍司令官を勤めた。
戦後の極東国際軍事裁判International Military Tribunal for the Far
EastにてA級戦犯class-A war
criminalとして死刑判決Death sentenceを受け処刑された。
731部隊(しちさんいち・ぶたい)Unit 731の前身部隊である関東軍防疫部の設立提案者。
昭和に入って、石原莞爾(いしわら・かんじ)・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)らが参謀Staffとして着任すると、満蒙Manchuria–Mongolia武力占領Armed occupation計画が本格的に進められ、政府の方針と対立してまで軍事行動military operationsを起こし、ついに満州事変Manchurian Incidentを引き起こした。
満州事変Manchurian Incident後、関東軍司令官Kwantung Army Commanderが駐満全権大使・関東州長官を兼ね、満州国State of Manchuriaに絶大な権力を持つに至った。
その後兵力military powerは著しく強化され、対ソ戦War against the Soviet-Japanese Warに備えるようになった。
北伐 Northern Expeditions
蒋介石(しょう・かいせき) Chiang Kai-shek
張作霖(ちょう・さくりん) Chang Tso-lin
張学良(ちょう・がくりょう) Chang Hsueh-liang
中国側の情勢
中国Chinaでは、北伐Northern Expeditions完了後の1928年(昭和3年)10月に、蒋介石(しょう・かいせき)Chiang Kai-shekが中国国民政府the Chinese Nationalist Government主席に就任していた。
しかし、共産党the Communist Party of
Chinaは赤軍Red Armyを編成して政府に抵抗し、いっぽう張作霖(ちょう・さくりん)Chang Tso-linのあとを継いだ張学良(ちょう・がくりょう)Chang Hsueh-liangは、国民政府the
Nationalist Governmentに服しながらも満州Manchuriaを中心に勢力を固め、日本Imperial
Japanの満州進出Advance to Manchuriaに抵抗していた。
のらくろ 田河水泡(たがわ・すいほう) 1931年(昭和6年)~1941年(昭和16年)
若槻礼次郎(わかつき・れいじろう) Reijiro Wakatsuki
幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう) Kijuro Shidehara
幣原外交Shidehara
diplomacyの行き詰まり
1931年(昭和6年)4月、浜口雄幸(はまぐち・おさち)首相Prime Ministerの病状悪化によって内閣Cabinetが総辞職resignation of the entire Cabinetすると、第2次若槻礼次郎内閣Second Reijiro Wakatsuki Cabinetが成立し、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)が引き続き外相Foreign Ministerに留任した。
同1931年(昭和6年)4月、国民政府the
Nationalist Governmentは関東州(かんとうしゅう)Kwantung Leased Territory・満鉄South Manchuria Railwayをも含んだ国権回収の方針を明示した。
こうした中国ナショナリズムChinese nationalismの高まりと、日本軍部Japanese militaryの強硬態度に対し、幣原Shidehara協調外交Cooperative
diplomacyは事態を解決できず行き詰まった。
この時期に、日本の反中国感情Anti-Chinese
sentimentを沸騰させる中村大尉事件(なかむら・たいい・じけん) Nakamura
Incident(1931年(昭和6年)6月)と、中国側の排日感情anti‐Japanese
sentimentをあおる万宝山事件(まんぽうざん・じけん) Wanpaoshan
Incident(1931年(昭和6年)7月)とが相次いで起こった。
中村震太郎(なかむら・しんたろう) Shintaro
Nakamura
中村大尉事件(なかむら・たいい・じけん) Nakamura Incident
1931年(昭和6年)6月、参謀本部員中村震太郎(なかむら・しんたろう)大尉が、満州(まんしゅう)Manchuria西北地方をスパイ旅行中、中国軍Chinese Armed
forcesに銃殺gundownされたとする事件。
万宝山事件(まんぽうざん・じけん) Wanpaoshan Incident
1931年(昭和6年)7月、満州(まんしゅう)Manchuriaの長春(ちょうしゅん)郊外万宝山(まんぽうざん)において、移住してきた朝鮮人農民Korean
peasantと中国人Chineseとの間に起こった衝突事件Collision
Incident。
そのため国内では、幣原Shidehara協調外交Cooperative diplomacyを軟弱外交weak‐kneed
diplomacyとして非難する声が高まり、軍部military
authorities・右翼Right wing・政友会(せいゆうかい)は「満蒙の危機Crisis of Manchuria and Mongolia」を叫び、ついに若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)首相Prime
Ministerも対中強硬論Hard-line theory against Chinaを唱えるに至った。
日中戦争 Second Sino-Japanese War
柳条湖事件(りゅうじょうこ・じけん) Liutiaohu
Incident
柳条湖事件(りゅうじょうこ・じけん) Liutiaohu
Incident
満州事変 Manchurian Incident
満州事変Manchurian Incidentの開始
1931年(昭和6年)9月18日の夜に、関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyは満州(まんしゅう)Manchuriaの奉天(ほうてん)Mukden(現瀋陽(しんよう)Shenyang)郊外にある柳条湖(りゅうじょうこ)Liutiaohuで満鉄(まんてつ)South
Manchuria Railwayの線路railway trackを爆破Blastし(柳条湖事件(りゅうじょうこ・じけん)Liutiaohu
Incident)、これを中国側Chinese sideの仕業であるとして、直ちに軍事行動Military actionを起こした。
まず、中国軍Chinese Armed forcesの兵営barracksを攻撃し、さらに奉天(ほうてん)Mukdenを軍政下に置いた。
翌1931年(昭和6年)9月19日、全面攻撃Full attackに出た関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyは、その日のうちに満鉄(まんてつ)South Manchuria Railway沿線都市City along the lineを占領occupationし、軍中央も関東軍(かんとうぐん)のこの行動を追認した。
第2次若槻礼次郎内閣Second Reijiro Wakatsuki Cabinetは、一応不拡大方針nonexpansion policyを決めたものの、関東軍(かんとうぐん)Kwantung Armyの陰謀conspiracyは不問に付して決定的措置をとらなかったため、関東軍(かんとうぐん)はこれを無視し、約4か月半で全満州All Manchuriaの主要都市Major citiesと鉄道沿線Along the railroadを占領occupationした。
第1次上海事変 Shanghai
incident
ヴィッカース・クロスレイ装甲車 Vickers Crossley Armoured Car
十九路軍(じゅうくろ・ぐん) Chinese Nineteenth
Route Army
第1次上海事変 Shanghai incident
満州(まんしゅう)Manchuriaでの軍事行動Military actionは、上海Shanghaiにまで拡大された。
1932年(昭和7年)1月、日本側Japanese sideが買収した中国人Chineseに、上海Shanghaiで托鉢(たくはつ)religious
mendicancy中の日本人僧侶Japanese monkを殺害させ、それを口実に海軍陸戦隊Imperial Japanese Navy Land Forcesを派遣し、上海Shanghaiを占領occupationしようとした。
しかし、市民・学生の支援を受けた十九路軍(じゅうくろ・ぐん)Chinese Nineteenth
Route Armyの抗戦で苦戦を強いられ、さらに、上海Shanghaiは欧米列国Western countriesの権益が複雑に入り組んでいるので、日本Imperial
Japanは厳しい非難を受け、同1932年(昭和7年)5月停戦協定Armistice agreementを結んで撤退した。
この第1次上海事変Shanghai
incidentは、中国Chinaにおける抗日運動Anti-Japanese
movementを抑え、満州(まんしゅう)Manchuriaから列国superpower
countriesの目をそらすために起こされたものであった。
空母加賀(かが) Aircraft carrier Kaga
空母加賀(かが) Aircraft carrier Kaga
空母鳳翔(ほうしょう) Aircraft carrier Hosho
軽巡洋艦那珂(なか) Light cruiser Naka
川内型軽巡洋艦Sendai-class light cruisersの3番艦Third ship
軽巡洋艦由良(ゆら)Light cruiser Yura
長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisersの4番艦Fourth ship
軽巡洋艦阿武隈(あぶくま) Light cruiser Abukuma
長良型軽巡洋艦Nagara-class light cruisersの6番艦Sixth ship
駆逐艦峯風(みねかぜ) Destroyer Minekaze
峯風型駆逐艦Minekaze-class destroyerの1番艦First ship
駆逐艦沢風(さわかぜ) Destroyer Sawakaze
峯風型駆逐艦Minekaze-class destroyerの2番艦Second ship
駆逐艦沖風(おきかぜ) Destroyer Okikaze
峯風型駆逐艦Minekaze-class destroyerの3番艦Third ship
駆逐艦矢風(やかぜ) Destroyer Yakaze
峯風型駆逐艦Minekaze-class destroyerの6番艦Sixth ship
一三式艦上攻撃機(いちさん・しき) Type 13 Carrier-Borne Attack Aircraft
三式艦上戦闘機(さんしき) Type 3 Carrier Fighter
ユンカースK47 Junkers K 47
ブラックバーン・リンコックIII Blackburn Lincock III
V-65Cコルセア Vought V-65C Corsair
ボーイングF4B / P-12 Boeing F4B /
P-12
八九式中戦車 Type 89 medium tank (11.9t)
九二式重装甲車 Type 92 Heavy Armoured Car (3.5t)
爆弾三勇士(ばくだん・さんゆうし) The Three Bomb Heroes
爆弾三勇士 The Three Bomb Heroes
爆弾三勇士(ばくだん・さんゆうし)とは、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二(えした・たけじ)、北川丞(きたがわ・すすむ)、作江伊之助(さくえ・いのすけ)の3名の一等兵(いっとうへい)Private First Classである。
1932年(昭和7年)に第一次上海事変Shanghai incidentで敵陣enemy's campを突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。
肉弾三勇士(にくだん・さんゆうし)とも言われた。
肉弾三勇士(にくだん・さんゆうし) The Three Bomb Heroes
第一次上海事変Shanghai incident中の1932年(昭和7年)2月22日、日本軍Imperial Japanese Forcesが蔡廷鍇(さい・ていかい)率いる国民革命軍National
Revolutionary Army十九路軍(じゅうくろ・ぐん)Chinese Nineteenth Route Armyが上海Shanghai郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮(びょうこうちん)に築いたトーチカPillboxと鉄条網barbed‐wire
entanglementsとクリークCreekで守られた敵陣enemy's campへ突入するため、鉄条網barbed‐wire
entanglementsを破壊する作戦が決定される。
この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒Bangalore
torpedoを持って敵陣enemy's campに突入爆破。
自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死Killed in actionしたが、鉄条網barbed‐wire
entanglementsの破壊には成功した。
新聞各紙は「まさしく『軍神(ぐんしん)god of war』」と賛辞。
満州国 State of Manchuria
犬養毅(いぬかい・つよし) Tsuyoshi Inukai
満州国State of
Manchuriaの建設
この間、軍部military authoritiesは満州(まんしゅう)Manchuriaを領有possessionすることをあきらめ、傀儡(かいらい)政権Puppet
administrationを組織して独立Independenceさせる方針をとった。
幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)外相Foreign
Ministerはこの方針に反対していたが、この間、内閣Cabinetが民政党(みんせいとう)の第2次若槻礼次郎内閣Second Reijiro Wakatsuki Cabinetから政友会(せいゆうかい)の犬養毅(いぬかい・つよし)内閣Cabinetに代わったこともあって(1931年(昭和6年)12月)、政府Imperial Japanese Governmentも軍部military authoritiesの方針に従った。
こうして1932年(昭和7年)3月1日、清(しん)Qing dynastyの廃帝dethroned emperorであった溥儀(ふぎ)Puyi(宣統帝(せんとうてい)Xuantong
emperor)を執政Consulとして、満州国State of
Manchuriaの独立Independenceが宣言された。
斎藤実(さいとう・まこと) Makoto
Saito
同1932年(昭和7年)9月、犬養毅(いぬかい・つよし)内閣Cabinetに代わった斎藤実(さいとう・まこと)内閣Cabinetは、日満議定書Japan–Manchukuo Protocolを取り交わして満州国State of Manchuriaを承認した。
議定書Protocolの内容は、
①日本の権益の尊重、
②日本軍の無条件駐屯、
③交通機関の掌握、
④日本人官吏の任命
などが規定された。
その後1934年(昭和9年)、溥儀(ふぎ)Puyiが皇帝Emperorになり帝政imperial
governmentをしいたが、世界の大部分が承認せず、実質的には日本Imperial
Japanの軍部military authorities・官僚bureaucratが支配する傀儡(かいらい)国家Puppet stateであった。
愛新覚羅(あいしんかくら) aisin gioro
溥儀(ふぎ) Puyi
補足 満州国State of Manchuria
愛新覚羅(あいしんかくら)aisin gioro溥儀(ふぎ)Puyiが執政Consul(のちに皇帝Emperor)となり、国務総理および各部大臣は満州人Manchurianが就任したが、関東軍司令官Kwantung Army Commanderの指導下にあった日系官吏が実権を握った。
議会は置かれず、関東軍司令官Kwantung Army
Commanderの支配下に中国侵略Invasion of Chinaの前進基地とされた。
経済面では、当初満州建国foundation of Manchukuoに際して「財閥financial combine入るべからず」と主張されていたが、日本Imperial
Japanは中国侵略Invasion of Chinaの兵器廠Weapon
arsenalとするため、交通・通信機関の整備と重工業建設Heavy
industry constructionに全力をあげ、民間資本Private capitalもおおいに歓迎した。
そのため財閥資本が流入し、軍事的Militaryな重工業Heavy industryが急速に建設constructionされ、財閥資本は大きな利潤をあげたが、インフレInflationの急進により満州人民Manchurian Peopleは経済的にも支配されたのである。
リットン調査団 Lytton
Commission
日本Imperial Japanの行動は各国の反発を招いたが、各国とも恐慌panic対策などのため極東Far Eastの事件をかえりみる余裕はなく、中国Chinaも政治的に分裂していて、一致して日本Imperial Japanの侵略Invasionに対することができなかった。
汪兆銘(おう・ちょうめい) Wang
Chao-ming
中国China
1931年(昭和6年)5月から汪兆銘(おう・ちょうめい)ら反蒋派が広東Guangdongに新国民政府New Nationalist governmentを樹立、南京Nanjingの蒋介石(しょう・かいせき)Chiang
Kai-shekの国民政府Nationalist governmentに対抗していた(翌1932年(昭和7年)合作United Front)。
蒋介石(しょう・かいせき)Chiang Kai-shekも同1931年(昭和6年)7月から第3次討共戦を開始して、正面切って日本Imperial Japanと対することはなかった。
国際連盟 League of Nations
中国Chinaは柳条湖事件(りゅうじょうこ・じけん)Liutiaohu
Incidentを国際連盟League of Nationsに提訴し、国際連盟League of Nationsは、事件不拡大と日中両国政府に即時撤退を通告し、さらに1932年(昭和7年)1月、イギリスのリットン卿Earl of Lyttonを団長とする調査団inquiry commissionが現地に派遣されることが決定した。
リットン調査団Lytton Commission
団長以外に、米仏独伊の各国より委員を出し、1932年(昭和7年)3月上海Shanghaiに到着、6月まで調査し、10月2日報告書Reportを公表した。
その調査inquiryの結果、リットン報告書Report of the
Lytton Commissionが提出されたが、これには満州Manchuriaは中国Chinaの一部であり、満州国State of Manchuriaが日本Imperial Japanの傀儡政権Puppet administrationで独立国independent stateでないことが主張され、東三省(とうさんしょう)(奉天(ほうてん)・吉林(きつりん)・黒龍江(こくりゅうこう))に自治的地方政府を設け、日本Imperial
Japanを主とする列強Great Powersの国際管理下に置くことを提案していた。
これは、日本Imperial Japanと列強Great Powersとの妥協を企図したものであり、そこにはソ連Soviet Unionに対する牽制の意図がうかがわれる。
要するに、反共産主義Anti-communismの立場から、日本Imperial Japanが要求する「満州の治安維持・中国の改造」が必要なことを欧米諸国Western
countriesも認めていたが、それを軍事的手段Military
meansによって、日本Imperial Japanが独占的に行うことに反対しているのであって、経済的手段により国際的な協力を通じて実現することを要請していたのであった。
国際連盟からの脱退
Withdrawal from the League of Nations
(1933年(昭和8年)3月)
リットン報告Report of the Lytton Commissionを受けた国際連盟League of
Nationsは、満州問題Manchurian problemの審議を再開した。
そして1933年(昭和8年)2月の総会で、満州国State of Manchuriaの取り消しと日本軍Imperial Japanese Forcesの撤兵withdrawal of troopsの勧告案Recommendationを42:1で可決した。
松岡洋右(まつおか・ようすけ) Yosuke
Matsuoka
日本Imperial Japanからは松岡洋右(まつおか・ようすけ)が代表として参加したが、日本Imperial Japanの満州国State of Manchuria承認の方針に矛盾するいかなる案にも応じることはできないとかたくなな態度をとり、翌1933年(昭和8年)3月国際連盟脱退Withdrawal from the League of Nationsを通告してしまった。
このため日本Imperial Japanの国際的地位International statusは決定的に悪くなり、孤立化isolationしていくのである。
このあとファシズムFascismの国ドイツGermany・イタリアItalyも脱退Withdrawalし(ドイツGermanyは1933年(昭和8年)10月、イタリアItalyは1937年(昭和12年)12月)、日本Imperial Japanはこれらの国とともに全面戦争Full-scale warへの道を歩むようになった。
ファシズムFascismの台頭
桜会(さくらかい)の結成と民間右翼
浜口雄幸(はまぐち・おさち)内閣Cabinetの協調外交Cooperative diplomacyに不満をもった軍部military
authoritiesのなかには、単なる軍縮反対Against disarmamentだけでなく、腐敗した国内政治の改革まで主張する者が出てきた。
橋本欣五郎(はしもと・きんごろう) Kingoro
Hashimoto
こうして1930年(昭和5年)、橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐Lieutenant Colonelを中心に、中佐以下の陸軍中堅将校Army
mid-level officerが集まって、桜会(さくらかい)という秘密グループを組織するようになった。
桜会(さくらかい)
のちの軍閥(ぐんばつ)Military Factions(特に統制派(とうせいは)Control Faction)の中心には、この桜会(さくらかい)に属していた者が多い
彼らは、恐慌panicによる資本主義capitalismの危機と、相次ぐ政党Political partyや資本家Capitalistの汚職と腐敗のなかで、武力クーデタArmed coupによる「国家改造National remodeling」を主張し、軍部独裁政権Military
dictatorship樹立を目指していたのである。
このような軍部military authoritiesの動きに呼応して、民間privateの右翼(うよく)Right-wing politics・ファッショ団体Fascio groupも活発化し始め、資本家Capitalistや政党Political
partyを攻撃しながら天皇Emperor中心の専制的な政治体制の確立を求めていた。
大川周明(おおかわ・しゅうめい) Shumei
Okawa
北一輝(きた・いっき) Ikki Kita
日本改造法案大綱(にほん・かいぞう・ほうあん・たいこう)
この民間ファシズムPrivate fascismの指導的人物は、大川周明(おおかわ・しゅうめい)や北一輝(きた・いっき)らであった。
特に北一輝(きた・いっき)の『日本改造法案大綱(にほん・かいぞう・ほうあん・たいこう)』は、青年将校Youth officerらに大きな影響を及ぼし、軍部クーデタMilitary coupを起こしたのである。
赤松克磨(あかまつ・かつまろ) Katsumaro
Akamatsu
亀井貫一郎(かめい・かんいちろう) Kanichiro
Kamei
宇垣一成(うがき・かずしげ) Kazushige
Ugaki
三月事件(さんがつ・じけん) March
Incident
1931年(昭和6年)3月、橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)ら桜会(さくらかい)のメンバーが、大川周明(おおかわ・しゅうめい)ら民間右翼Private Right-wingと結んで軍部のクーデタMilitary coupを計画した。
これは、社会民衆党(しゃかい・みんしゅう・とう)の赤松克磨(あかまつ・かつまろ)・亀井貫一郎(かめい・かんいちろう)らを中心に1万人の大衆デモを組織し、その鎮圧を名目に軍隊を出動させて浜口雄幸(はまぐち・おさち)内閣Cabinetに辞職を迫り、宇垣一成(うがき・かずしげ)陸相Minister of the Imperial Japanese Armyを首班とする軍部独裁政権Military dictatorshipを実現させようとするものであった。
この計画は、途中から宇垣一成(うがき・かずしげ)らが脱落したので実現はしなかったが、政府Imperial Japanese Governmentも軍首脳部Military leadersも、この国家の秩序を破壊しようとする計画の中心人物に対してなんの処罰も加えなかった。
荒木貞夫(あらき・さだお) Sadao Araki
十月事件(じゅうがつ・じけん) October incident
(錦旗革命事件(きんき・かくめい・じけん) Imperial Colors incident)
同1931年(昭和6年)10月、満州事変Manchurian Incident勃発の直後、桜会(さくらかい)のメンバーと民間右翼Private Right-wingが結託して、若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)首相Prime
Minister・幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)外相Foreign Ministerらの暗殺と、陸軍大臣Minister of the Imperial Japanese Army荒木貞夫(あらき・さだお)を首相Prime Ministerとする軍部独裁政権Military dictatorship擁立を企図したが、これも失敗に終わった。
このときも処罰はほとんど行われなかったが、こうしたことは、軍部military
authoritiesとそれに結びつく民間右翼Private Right-wingのファシズム化fascistizeの傾向に拍車をかけ、日本Imperial Japanを軍部独裁Military dictatorshipと戦争warへの道へ導くものであった。
頭山満(とうやま・みつる) Toyama Mitsuru
内田良平(うちだ・りょうへい) Ryohei
Uchida
補足 民間の右翼・ファシズム
①明治時代、頭山満(とうやま・みつる)を中心とする玄洋社(げんようしゃ)や内田良平(うちだ・りょうへい)を中心とする黒龍会(こくりゅうかい)があり、ときの政府や軍部の手先となり、選挙干渉や大陸侵略の謀略部隊の役割を果たしていた。
②北一輝(きたいっき)は、国家社会主義者(こっか・しゃかいしゅぎ・しゃ)になり、中国革命Chinese Revolutionに参加し、その後1919年(大正8年)『日本改造法案大綱』を書き、猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成して右翼運動Right wing movementに参加した。
この書物は右翼Right-wingの聖典sacred bookとされ青年将校Youth officerに愛読され、青年将校Youth officerのクーデタに理論的根拠を与えた。
そのため二・二六事件(にい・にいろく・じけん)February 26
Incidentでは黒幕として逮捕され、死刑に処せられた。
猶存社(ゆうぞんしゃ)
国家改造National remodelingを目指した最初のファシズム団体Fascist group。
ファシズム運動Fascist movementの主な人物や団体がここから派生した。
ファシズム運動Fascist movementの源流であったが、北一輝(きたいっき)・大川周明(おおかわしゅうめい)の対立で1923年(大正12年)解散。
③民間右翼Private Right-wingの理論家として知られた大川周明(おおかわしゅうめい)は、猶存社(ゆうぞんしゃ)、ついで行地社(ぎょうちしゃ)を中心に国家主義nationalism思想の宣伝に努めた。
この間軍部military authoritiesとの接触を深め、とくに桜会(さくらかい)のメンバーと接触した。
三月事件(さんがつ・じけん)March Incident・十月事件(じゅうがつ・じけん)October incidentでは首謀者となった。
井上日召(いのうえ・にっしょう) Nissho
Inoue
④血盟団(けつめいだん)League of Bloodの盟主として検挙された井上日召(いのうえ・にっしょう)は、日蓮宗Nichiren sectの僧侶Monkで熱烈な国家主義者Nationalistであった。
1928年(昭和3年)以来、
血盟団事件(けつめいだん・じけん) League of Blood Incident
政党内閣party cabinetの崩壊
血盟団事件(けつめいだん・じけん)
League of Blood Incident
(1932年(昭和7年))
軍部クーデタMilitary coup計画に刺激されて、民間の右翼Private Right-wingも活発に動き始めた。
日蓮宗Nichiren sectに帰依していた井上日召(いのうえ・にっしょう)は、テロterrorismにより支配階級の指導者を倒すことが、国家改造を実現する近道であると考えた。
彼は、一人一殺(いちにん・いっさつ)主義を唱え、血盟団(けつめいだん)League of
Bloodを結成して政・財界の指導者十数人の暗殺assassination計画をたてた。
小沼正(おぬま・しょう) Sho Onuma
井上準之助(いのうえ・じゅんのすけ) Junnosuke
Inoue
菱沼五郎(ひしぬま・ごろう) Goro
Hishinuma
団琢磨(だん・たくま) Takuma
Dan
1932年(昭和7年)2月には、血盟団League of Blood員小沼正(おぬま・しょう)が前蔵相Finance
Minister井上準之助(いのうえ・じゅんのすけ)を射殺し、続いて3月には三井合名理事長団琢磨(だん・たくま)も菱沼五郎(ひしぬま・ごろう)に射殺されたが、そのあと井上日召(いのうえ・にっしょう)も逮捕されたので、この事件は一応落着した。
団琢磨(だん・たくま) Takuma Dan
1871年(明治4年)、岩倉使節とともにアメリカに渡り鉱山学を学んだ。
帰国後、大学教授などを歴任して三井に入り、1914年(大正3年)に三井合名会社理事長となった。
古賀清志(こが・きよし) Kiyoshi
Koga
三上卓(みかみ・たく) Taku Mikami
橘孝三郎(たちばな・こうさぶろう) Kosaburo
Tachibana
五・一五事件(ご・いちご・じけん)May 15
Incident
(1932年(昭和7年)5月15日)
その後、血盟団(けつめいだん)League of
Bloodと関係のあった海軍青年将校Navy youth officer(古賀清志(こが・きよし)・三上卓(みかみ・たく)ら)たちは、愛郷塾(あいきょうじゅく)の橘孝三郎(たちばな・こうさぶろう)や陸軍士官候補生Army Officer
Candidateらとクーデタcoupを計画した。
1932年(昭和7年)5月15日、軍人グループMilitary groupは首相官邸・内相官邸・三菱銀行・政友会本部・警視庁を襲撃し、前1931年(昭和6年)12月、第2次若槻礼次郎内閣Second Reijiro Wakatsuki Cabinetのあとを受けて成立した政友会(せいゆうかい)の犬養毅(いぬかい・つよし)首相Prime Ministerを官邸で射殺した。
橘孝三郎(たちばな・こうさぶろう)らは変電所を襲撃し、東京を暗黒にして戒厳令Martial lawを出させ、国家改造National remodelingの端緒にすることを企図したが失敗に終わり、首謀者は捕らえられた。
これが五・一五事件(ご・いちご・じけん)May 15
Incidentである。
高橋是清(たかはし・これきよ) Korekiyo Takahashi
政党内閣party cabinetの終わり
犬養毅(いぬかい・つよし)内閣Cabinetは、協調外交Cooperative diplomacyの方針を撤回するとともに、高橋是清(たかはし・これきよ)蔵相Finance
Ministerの下で金輸出再禁止reimposition of a gold embargoに踏み切り、さらに軍需生産Munitions productionによるインフレ政策inflationary
policyをとっていた。
このことは満州事変Manchurian Incidentによる軍需景気munitions boomと相まって、独占資本monopoly capitalにとっては恐慌panic克服の重要な手段となった。
与党Ruling party政友会(せいゆうかい)は、1932年(昭和7年)2月の総選挙で絶対多数を占めたが、この間軍部military
authoritiesがその発言権を強化し、また、政党Political
partyや官僚bureaucrat内に軍部military authoritiesと結ぶ勢力が増大し、五・一五事件(ご・いちご・じけん)May 15 Incidentの結果、1924年(大正13年)の護憲三派内閣Cabinet of the Three Guardians以来の政党内閣制Party cabinet
systemは崩れてしまった。
斎藤実(さいとう・まこと) Makoto
Saito
ファッショ化fascistizeと侵略の進行
斎藤実「挙国一致」内閣
犬養毅(いぬかい・つよし)の暗殺assassination後は、海軍大将Admiralで元朝鮮総督Governor-General
of Koreaであった斎藤実(さいとう・まこと)が、1932年(昭和7年)5月、軍部military authorities・政党Political party・官僚bureaucratの妥協によるいわゆる挙国一致内閣national
cabinetを組織した。
対外的には、満州国State of Manchuriaの承認、国際連盟脱退Withdrawal from the League of Nationsなど孤立外交Isolated diplomacy化、熱河作戦(ねっか・さくせん)など侵略拡大Invasion
expansionの方向が進められ、国内においては、労働Labor・農民運動agrarian movementを弾圧suppressionし滝川事件Takigawa incidentを起こすなど、ファッショ化fascistizeの方向を進めた。
岡田啓介(おかだ・けいすけ) Keisuke
Okada
岡田啓介内閣 Keisuke
Okada Cabinet
次いで、1934年(昭和9年)7月、海軍大将Admiral岡田啓介(おかだ・けいすけ)が組閣した。
岡田啓介内閣Keisuke Okada Cabinetは前内閣(斎藤実(さいとう・まこと))の継続的性格を持つとともに、軍部military authoritiesと密接な新官僚New bureaucratの比重が大きくなった。
民政党は準与党となったが、政友会(せいゆうかい)は入閣者を除名して内閣反対を表明した。
ロンドン海軍軍縮会議 London Naval Treaty
岡田啓介内閣Keisuke Okada Cabinetは、ワシントン海軍軍縮条約Washington Naval Treaty・ロンドン海軍軍縮会議London Naval Treatyを廃棄脱退し戦争への道を歩むとともに、天皇機関説問題Emperor
institution theory problemに絡んで「国体明徴(めいちょう)clarification
of national body」を声明statementし、ファッショ的fascisticな思想統制Thought controlを強化した。
この間、陸軍省Ministry of the Armyが「国防の本義と其(その)強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットArmy pamphletを発行し、そこで国防国家建設のために、政治・経済・思想などあらゆるものを総力戦体制のために改造することを提唱し、各方面に大きな衝撃を与えた。
永田鉄山(ながた・てつざん) Tetsuzan Nagata
林銑十郎(はやし・せんじゅうろう) Senjuro
Hayashi
陸軍パンフレット Army pamphlet
1934年(昭和9年)10月、陸軍新聞班が作成・配布。
実際は、統制派(とうせいは)Control
Faction幕僚(ばくりょう)staffが執筆して永田鉄山(ながた・てつざん)軍務局長Adjutant General・林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)陸相Minister of the Imperial Japanese Armyの決裁を受け、新聞班が体裁を整えたものであった。
「戦いは創造の父であり文化の母である」に始まり、国防国家建設の必要を強調したものであり、また、陸軍Imperial
Japanese Armyの主導権を握った統制派(とうせいは)Control
Factionの基本的方針を示したものでもあった。
斎藤実(さいとう・まこと) Makoto
Saito
高橋是清(たかはし・これきよ) Korekiyo Takahashi
渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう) Jotaro
Watanabe
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう) Kantaro
Suzuki
北一輝(きた・いっき) Ikki Kita
西田税(にしだ・みつぎ) Mitsugi
Nishida
二・二六事件(にい・にいろく・じけん)
February 26 Incident
(1936年(昭和11年)2月26日)
発言力を増してきた陸軍Imperial Japanese Armyでは、統制派(とうせいは)Control Factionと皇道派(こうどうは)Imperial Way Factionという内部の主導権争いも絡んで、岡田啓介内閣Keisuke Okada
Cabinetの下でクーデタ事件Coup caseを起こした。
1936年(昭和11年)2月26日、皇道派(こうどうは)の青年将校Youth officerが、近衛歩兵連隊Imperial Guard Infantry
Regimentの約1400名を動かして首相官邸・陸軍省・警視庁などを襲い、斎藤実(さいとう・まこと)内大臣Inner Minister・高橋是清(たかはし・これきよ)蔵相Finance
Minister・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)教育総監Inspectorate General of Educationらを殺害、鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)侍従長Grand Chamberlainに重傷を負わせた。
当初、軍中央は動揺して反乱を許容するかの態度を示したが、結局戒厳令下に反乱軍討伐の方針となり、首謀者全員と、皇道派(こうどうは)の理論的指導者だった北一輝(きた・いっき)・西田税(にしだ・みつぎ)が死刑となった。
この後、統制派(とうせいは)は皇道派(こうどうは)を一掃して陸軍Imperial Japanese Armyの主導権を掌握し、支配層内への政治的圧力をいっそう強めていった。
荒木貞夫(あらき・さだお) Sadao Araki
真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう) Jinzaburo
Masaki
永田鉄山(ながた・てつざん) Tetsuzan
Nagata
相沢三郎(あいざわ・さぶろう) Saburo
Aizawa
東条英機(とうじょう・ひでき) Hideki Tojo
補足 統制派と皇道派
軍部military authoritiesが政治支配を確立していく過程において、軍部military
authoritiesに統制派(とうせいは)Control Factionと皇道派(こうどうは)Imperial Way Factionの派閥対立が見られた。
十月事件(じゅうがつ・じけん)October incidentの失敗後、荒木貞夫(あらき・さだお)・真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)を中心とする皇道派(こうどうは)Imperial Way Factionは、直接行動を主張する青年将校Youth officerと結びつき、軍Armyの主導権を握って天皇親政Emperor pro-governmentと対ソ主戦論war advocate against the Soviet Unionを唱えた。
一方、直接行動主義を捨て、政財界と結んでいわば合法的に政権獲得の道を選んだ、陸軍省Ministry of
the Army事務局長bureau chief永田鉄山(ながた・てつざん)を中心とした統制派(とうせいは)Control
Factionは、皇道派(こうどうは)Imperial Way Factionを排除し、青年将校Youth officerのクーデタCoup計画を抑圧していった。
相沢事件(あいざわ・じけん) Aizawa Incident
そのため、1935年(昭和10年)、真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)教育総監Inspectorate General of Education罷免問題から、皇道派(こうどうは)Imperial Way
Factionの相沢三郎(あいざわ・さぶろう)中佐によって永田鉄山(ながた・てつざん)が殺害され(相沢事件(あいざわ・じけん)Aizawa
Incident)、さらに二・二六事件(にい・にいろく・じけん)February 26
Incidentが起こされたが、統制派(とうせいは)Control
Factionは皇道派(こうどうは)Imperial Way Factionの策謀を退け、二・二六事件(にい・にいろく・じけん)February 26
Incidentの首謀者を厳罰に処した。
その後、統制派(とうせいは)Control
Factionが軍Armyの主導権を握り、官僚や財界と結びつき戦争体制を確立していった。
日米戦争に踏み切った東条英機(とうじょう・ひでき)もこの統制派(とうせいは)Control Factionの中心メンバーであった。
斎藤実(さいとう・まこと) Makoto
Saito
中国への侵略Invasion of
China拡大
この間、中国侵略Invasion of Chinaの拡大Expansionをはかり、斎藤実(さいとう・まこと)内閣Cabinetのとき、熱河省(ねっかしょう)・河北省(かほくしょう)に侵入Invasion(熱河作戦(ねっか・さくせん))して塘沽停戦協定(タンクー・ていせん・きょうてい)を結び(1935年(昭和10年)5月)、河北省(かほくしょう)東部の冀東(きとう)地域を非武装地帯Demilitarized
zoneとし、「満州国State of Manchuria」支配を国民政府Nationalist
governmentに黙認させた。
岡田啓介(おかだ・けいすけ) Keisuke
Okada
梅津美治郎(うめづ・よしじろう) Yoshijiro
Umezu
何応欽(か・おうきん) He Yingqin
冀東防共自治政府(きとう・ぼうきょう・じちせいふ)
East Hebei Autonomous Anti-Communist Government
冀東防共自治政府庁舎 East Hebei Autonomous Government building
これによって華北分離工作の拠点を得た日本Imperial Japanは、さらに岡田啓介内閣Keisuke Okada Cabinetのとき、駐屯軍司令官梅津美治郎(うめづ・よしじろう)と国民政府Nationalist
governmentの華北代表何応欽(か・おうきん)との間に、河北省(かほくしょう)からの国民党機関と軍隊の撤退・排日運動の禁止などを内容とする梅津・何応欽協定(うめづ・かおうきん・きょうてい)He–Umezu Agreementを結ばせ(1935年(昭和10年)6月)、さらに河北省(かほくしょう)北部(冀東(きとう)地区)に冀東防共自治政府(きとう・ぼうきょう・じちせいふ)East Hebei
Autonomous Anti-Communist Governmentという傀儡政権Puppet
administrationを作らせた。
Japanese propaganda, unarmed zone in East Hebei
梅津・何応欽協定(うめづ・かおうきん・きょうてい) He–Umezu Agreement
(1935年(昭和10年)6月)
華北侵略を狙っていた日本Imperial Japanが、天津(てんしん)での親日派新聞社社長の暗殺を口実に結ばせたもの。
土肥原賢二(どひはら・けんじ) Kenji
Doihara
秦徳純(しん・とくじゅん) Qin Dechun
この協定のすぐあと、土肥原・秦徳純協定(どいはら・しんとくじゅん・きょうてい)Chin–Doihara
Agreementを結んで察哈爾省(チャハルしょう)を勢力下に置き、華北侵略North China invasionをいっそう強めた。
犬養毅(いぬかい・つよし) Tsuyoshi Inukai
高橋是清(たかはし・これきよ) Korekiyo Takahashi
経済の軍事化
militarization of economics
金輸出再禁止reimposition
of a gold embargo
1931年(昭和6年)12月、犬養毅(いぬかい・つよし)内閣Cabinet成立の当日、高橋是清(たかはし・これきよ)蔵相Finance Ministerは金輸出の再禁止reimposition of a gold embargoを声明し、円の金兌換conversion to
goldを停止して、日本Imperial Japanは管理通貨制度Managed currency systemに移行した。
管理通貨制度Managed currency system
1931年(昭和6年)~1936年(昭和11年)の間に、独英米伊仏など列強は金本位制Gold standardを放棄して、管理通貨制度Managed currency systemに移っていた。
軍需インフレ政策Military inflation
policy
高橋財政Takahashi Financeの当面する問題は、恐慌panic対策およびその脱出と、満州事変Manchurian Incident後に激増していく軍事費Military budgetの充当であった。
そのため高橋是清(たかはし・これきよ)は、膨大な赤字公債deficit-financing bondsを発行し、さらに低金利政策Low interest rate policyをとったが、こうしたインフレ政策inflationary policyによって景気を刺激し、景気回復Economic recoveryをはかって軍事費Military
budgetの増大にも対処しようとしたのである。
八幡製鉄所(やはた・せいてつしょ) Yahata Steel Works
軍事生産の増大
①産業と軍事生産の基礎となる鉄鋼業では、日本製鉄会社法制定(1934年(昭和9年))によって、八幡製鉄所(やはた・せいてつしょ) Yahata Steel Worksを中心に民間企業5社が合同、鉄鋼大トラストが成立したが、アメリカからの屑鉄Scrap輸入が増えた。
②機械器具工業では、自動車工業や航空機工業が国の援助を受けて急成長を遂げた。
③化学工業では、硫安(硫酸アンモニウム)・染色・ソーダ工業が発展し、新興財閥によって化学コンビナートが形成された。
④こうした軍需生産を中心にした重化学工業の発展によって、1935年(昭和10年)、生産額において重化学工業部門Heavy chemical industry sectorが52%と軽工業light industryを上回った。
鮎川義介(あいかわ・よしすけ) Yoshisuke
Aikawa
野口遵(のぐち・したがう) Shitagau
Noguch
森矗昶(もり・のぶてる) Nobuteru
Mori
中野友礼(なかの・とものり) Tomonori
Nakano
大河内正敏(おおこうち・まさとし) Masatoshi
Okoch
新興財閥Emerging
conglomerate
軍需インフレMunitions inflationの波に乗じ、軍部military
authoritiesと結び、植民地Colonyにも乗り出した新興財閥Emerging
conglomerateが重化学工業部門Heavy chemical industry sectorに進出した。
満州Manchuriaに進出して三井・三菱に次ぐ第3位の財閥Financial cliqueとなった最大の新興財閥Emerging conglomerateである
鮎川義介(あいかわ・よしすけ)の日産コンツェルンNissan
Concern、
朝鮮に進出して水力発電と窒素工業とで一大コンツェルンを形成した
野口遵(のぐち・したがう)の日窒コンツェルンNichitsu
Concern、
昭和電工を母体とした森コンツェルンMori Concern(森矗昶(もり・のぶてる))、
あるいは中野友礼(なかの・とものり)の日曹コンツェルンNisso Concern、
大河内正敏(おおこうち・まさとし)の理研コンツェルンRiken Concernなどがある。
輸出の拡大
金輸出再禁止reimposition of a gold embargoを契機に円為替相場Yen exchange
rateが急落したが、これと従来からの低賃金Low wagesを武器として、日本Imperial Japanの輸出exportは急速に伸びた。
円相場の下落Yen exchange rate decline
これに対して高橋是清(たかはし・これきよ)蔵相Finance Ministerは、円安weak yenになれば輸出exportしやすく輸入Importが減少するとして、これを放任することを表明した。
綿織物cotton fabricsの輸出exportは拡大し、イギリスBritish
Empireに代わって第1位となった。
貿易Tradeの発展は目覚しく、1934年(昭和9年)には日本Imperial Japanだけが恐慌panic前の1929年(昭和4年)の規模をこえた。
しかし、ブロック経済圏Block economyを形成して、恐慌panicからの脱出をはかっている列強Great Powersとの間に競争が激化して、各国から「ソーシャル・ダンピングSocial dumping」と非難された。
ソーシャル・ダンピングSocial dumping
低賃金Low wagesやその他の劣悪な労働条件を利用して行う安値貿易Low price
tradeのこと。
これは自由貿易Free tradeを破綻させ、ひいては資本主義諸国Capitalist
countries間の貿易Tradeを縮小させる一因となる。
ダンピングDumping
海外市場にくいこむために、計画的に、国内市場より大幅に安い価格で売る不当廉売Dumpingをいう。
三・一五事件(さん・いちご・じけん) March 15 incident
1928年(昭和3年)3月15日に発生した、マルクス主義Marxismを忠実に実践するため非合法illegalの無産政党(むさん・せいとう)Proletarian partiesの設立および第三インターナショナルThird International(国際共産党Communist International(コミンテルンComintern))の日本支部を目的として設立された日本共産党Japanese Communist Party等の活動員数千名を検束、検挙された者が約300名、治安維持法に問われただちに市ヶ谷刑務所に収監された者が30名にのぼった事件である。
弾圧と抵抗
満州事変と無産政党Proletarian
parties
国民Japanese peopleの多くは満州事変Manchurian Incidentを契機に、権力と新聞の宣伝に乗ぜられて排外主義Nativismにとらわれ、満蒙侵略Invasion of Manchuria–Mongoliaを支持した。
社会民衆党(しゃかい・みんしゅう・とう)(社民党)は、満州事変Manchurian Incidentを是認・支持し、全国労農大衆党(ぜんこく・ろうのう・たいしゅう・とう)(労大党)も、最初は戦争反対Against warの態度を表明したが、党内に戦争支持勢力が生まれ、結局わずかに出兵反対の演説会とビラまきだけに終わった。
全国労農大衆党(ぜんこく・ろうのう・たいしゅう・とう)(労大党)
満州事変Manchurian Incident直前の1931年(昭和6年)7月、全国大衆党(ぜんこく・たいしゅう・とう)・労農党(ろうのう・とう)・社民党(しゃみんとう)の一部が合同して結成。
1931年(昭和6年)1月に、党中央を再建して地下活動を行っていた共産党(きょうさんとう)Communist
partyも反戦Anti-warを呼びかけ続けたが、大衆的な運動の展開には成功しなかった。
赤松克磨(あかまつ・かつまろ) Katsumaro
Akamatsu
無産政党Proletarian
partiesの右傾化
排外主義Nativism的・軍国主義Militarism的風潮Trendの強まるなかで、無産政党Proletarian partyはさらに右翼化lean to the
rightし、あるいはファッショ化become fascistしていった。
社民党(社会民衆党)では、赤松克磨(あかまつ・かつまろ)書記長らが国家社会主義state socialismに転向Conversion、労大党(全国労農大衆党)の国家社会主義派と合流して脱党し、1932年(昭和7年)に日本国家社会党(にほん・こっか・しゃかいとう)を結成した。
残った社民党と労大党は合同して社会大衆党(しゃかい・たいしゅうとう)(社大党)を結成したが、やがて親軍的傾向Pro-military tendenciesを強めていった。
佐野学(さの・まなぶ) Manabu
Sano
鍋山貞親(なべやま・さだちか) Sadachika
Nabeyama
転向Conversionの続出
1933年(昭和8年)には、共産党(きょうさんとう)Communist
partyの最高幹部佐野学(さの・まなぶ)・鍋山貞親(なべやま・さだちか)らが獄中In prisonから転向声明Conversion statementを出し、以後転向Conversionする者が続出し、さらに弾圧suppressionなどにより、共産党(きょうさんとう)Communist partyは1935年(昭和10年)にはほとんどその活動を停止してしまった。
滝川幸辰(たきがわ・ゆきとき) Yukitoki
Takigawa
鳩山一郎(はとやま・いちろう) Ichiro
Hatoyama
佐々木惣一(ささき・そういち) Soichi
Sasaki
末川博(すえかわ・ひろし) Hiroshi
Suekawa
滝川事件(たきがわ・じけん) Takigawa
incident
滝川事件(たきがわ・じけん) Takigawa
incident
1933年(昭和8年)、自由主義的刑法学説を唱えていた京大教授Professor of
Kyoto University滝川幸辰(たきがわ・ゆきとき)の『刑法講義』・『刑法読本』が、国体structure of
state破壊の危険のある赤化(共産主義)思想Communist thoughtであるとして、内務省Home Ministryによって発売禁止され、ときの鳩山一郎(はとやま・いちろう)文相Minister of
Educationは滝川幸辰(たきがわ・ゆきとき)教授Professorの辞職を要求した。
これは、学問の自由Academic freedom・大学の自治autonomy in a universityに対する不当な処置であるとして、京大法学部全教授39名が辞表を提出し、学生や文化人・学者の反対運動が盛り上がったが、結局、休職が発令された。
これに抗議して、法学部長はじめ、佐々木惣一(ささき・そういち)・末川博(すえかわ・ひろし)らが辞職し、以後自由主義の弾圧が強められていった。
美濃部達吉(みのべ・たつきち) Tatsukichi
Minobe
蓑田胸喜(みのだ・むねき) Muneki
Minoda
菊池武夫(きくち・たけお) Takeo
Kikuchi
天皇機関説問題と国体明徴
自由主義的憲法学者・貴族院議員美濃部達吉(みのべ・たつきち)の天皇機関説(てんのう・きかんせつ)theory of the Emperor as an organ of
governmentは、すでに主流的な学説となっていたが、1935年(昭和10年)、超国家主義者ultranationalist蓑田胸喜(みのだ・むねき)らは、それを反国体Anti-national body学説として非難し始め、貴族院本会議で菊池武夫(きくち・たけお)は天皇機関説(てんのう・きかんせつ)theory of the Emperor as an organ of
governmentを反国体Anti-national body危険説と攻撃した。
これに対して美濃部達吉(みのべ・たつきち)は自説を譲らなかったが、その著書『憲法撮要』は発禁処分とされた。
さらに、政友会(せいゆうかい)・軍部military
authorities・右翼Right-wing politicsなどは国体明徴運動(こくたい・めいちょう・うんどう)clarification of national bodyを展開し、政府攻撃にこれを利用したため、政府Imperial Japanese Government(岡田啓介(おかだ・けいすけ)内閣Cabinet)も同調するに至り、美濃部達吉(みのべ・たつきち)はついに貴族院議員を辞職した(1935年(昭和10年)9月)。
国体明徴運動(こくたい・めいちょう・うんどう)clarification of national body
日本Imperial Japanの国体structure of state(万世一系の天皇が統治する君民一体の家族国家)をはっきりさせ、天皇機関説(てんのう・きかんせつ)theory of the Emperor as an organ of
governmentを排撃しようとする運動。
貴族院・衆議院ともに国体明徴clarification
of national body決議案を満場一致で可決した。
院外でも、右翼Right-wing politics・在郷軍人会Hometown Military Associationが天皇機関説排撃・国体明徴運動を展開し、急速に全国にひろがっていった。
政府Imperial Japanese Government(岡田啓介(おかだ・けいすけ)内閣Cabinet)は、1935年(昭和10年)8月と10月の2度にわたって国体明徴声明(こくたい・めいちょう・せいめい)clarification
of national bodyを発表し、国体明徴運動はやっとおさまった。
美濃部達吉(みのべ・たつきち)は、このあとさらに右翼青年Right-wing
youthにピストルで狙撃され、自由な学問に対する圧迫はますます暴力的なかたちをとると同時に、自由主義Liberalismは反国体Anti-national bodyとして排除される段階に至った。
林銑十郎(はやし・せんじゅうろう) Senjuro
Hayashi
野坂参三(のさか・さんぞう) Sanzo
Nosaka
ファシズムへの抵抗Resistance to fascism
1937年(昭和12年)4月の林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)内閣Cabinetの下で行われた総選挙general
electionで、野党anti-administration partyの政友会・民政党が多数を占めると同時に、社会大衆党(しゃかい・たいしゅうとう)が37名の当選者を出し、総投票数の10%を獲得した。
これは、軍部の横暴Military domineeringやファシズムfascismと戦争warへの国民Japanese
peopleの不安・反感がいかに強いかを示すものであった。
これより先1936年(昭和11年)2月、国外にいた共産主義者Communist野坂参三(のさか・さんぞう)は、モスクワMoscowで『日本の共産主義者への手紙』を発表し、日本Imperial
Japanを戦争warとファシズムfascismの危険から救う道は、反ファッショAnti-fascism人民戦線Popular frontを基礎とする国民運動のみだと訴えた。
これに対し、日本労働組合全国評議会(全評)などが、関係団体に戦争warとファシズムfascismに反対する共同闘争を呼びかけていたが、社会大衆党(しゃかい・たいしゅうとう)はこれを拒否し、さらに人民戦線Popular front排撃を決定した。
人民戦線事件(じんみん・せんせん・じけん) Popular Front Incident(第1次)
これらの動きを恐れた政府Imperial Japanese Governmentは、1937年(昭和12年)12月日本無産党・全評の結社禁止とともに、関係者400名を検挙した。
これが人民戦線事件(じんみん・せんせん・じけん)Popular Front
Incident(第1次)である。
全評(ぜんひょう)(日本労働組合全国評議会)
1934年(昭和9年)11月に結成された合法的な左翼労働組合Left wing
unionの統一組織。
結成後、反ファッショAnti-fascism統一戦線United frontの結成を目指すが、人民戦線事件(じんみん・せんせん・じけん) Popular Front Incidentで解散。
社会大衆党(しゃかい・たいしゅうとう)
ファシズムfascismの進展とともに右翼化lean to the rightし、軍armyと結び、人民戦線(じんみん・せんせん)Popular frontには熱意を示さなかった。
加藤勘十(かとう・かんじゅう) Kanju Katou
鈴木茂三郎(すずき・もさぶろう) Mosaburo Suzuki
日本無産党(にほん・むさんとう) Japan Proletarian Party
左翼的労働団体Left-wing labor organizationが社会大衆党(しゃかい・たいしゅうとう)に対する統一戦線United front結成の申し入れを拒否されて結成。
委員長加藤勘十(かとう・かんじゅう)、書記長鈴木茂三郎(すずき・もさぶろう)。
しかし、わずか9か月で解散dismissさせられた。