九七式戦闘機(きゅうななしき・せんとうき)Type 97 Fighter
九七式戦闘機(きゅうななしき・せんとうき)Type 97 Fighter
九七式戦闘機 Type 97 Fighter
日本陸軍Imperial Japanese Army
1937年(昭和12年)(皇紀2597年)制式採用
低翼単葉戦闘機Low-wing monoplane Fighter
最高速度 470km/h
九七式戦闘機(きゅうななしき・せんとうき)Type 97 Fighterは、日本陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter aircraft。
略称・呼称は九七戦、九七式戦など。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはネイトNate。
開発Developmentは中島飛行機(なかじま・ひこうき)Nakajima Aircraft
Company、製造Manufacturingは中島飛行機および立川飛行機(たちかわ・ひこうき)Tachikawa Aircraft Company・満州飛行機(まんしゅう・ひこうき)Manchuria Aircraft
Company。
陸軍Army初の低翼単葉戦闘機Low-wing monoplane
Fighterとして、1940年(昭和15年)前後の主力戦闘機Main Fighter
aircraftとして使用された。
旋回性能に非常に優れ、特に水平面での格闘戦Dogfightを得意とした。
1938年(昭和13年)より、日中戦争Second Sino-Japanese War(支那事変China Incident)に九五式戦闘機Type 95 Fighterの後続機Successorとして実戦投入され、中国国民党軍Republic of China Armed Forcesの戦闘機Fighter aircraftを圧倒し活躍している。
1939年(昭和14年)、日本軍Imperial Japanese Forcesとソ連軍Soviet Armed forcesがモンゴルMongolで2度に渡って戦ったノモンハン事件Nomonhan Incidentで活躍。
太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)開戦時、一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter "Peregrine Falcon"の配備の遅れから数の上では九七式戦闘機Type 97 Fighterが陸軍Army主力戦闘機Main Fighter aircraftであった。
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
一式戦闘機 隼I型 Type 1 Fighter Hayabusa Model 1
一式戦闘機 隼II型 Type 1 Fighter Hayabusa
Model 2
一式戦闘機 隼II型 Type 1 Fighter Hayabusa
Model 2
一式戦闘機「隼」
Type 1
Fighter "Peregrine Falcon"
隼(はやぶさ)The Nakajima Ki-43 Hayabusa
日本陸軍Imperial Japanese Army
1941年(昭和16年)(皇紀2601年)制式採用
隼I型 2翅プロペラTwo bladed
propeller
隼II型 3翅プロペラThree bladed
propeller
最大速度 初期型:515km/h 前期型:536km/h 後期型:548km/h
一式戦闘機(いっしき・せんとうき)Type 1 Fighterは、第二次世界大戦World War II時の日本陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter aircraft。
キ番号(試作名称)はキ43。
愛称Nicknameは隼(はやぶさ)Peregrine Falcon。
呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはオスカーOscar。
開発Developmentは中島飛行機Nakajima Aircraft
Company、製造Manufacturingは中島および立川飛行機Tachikawa Aircraft Company。
四式戦闘機Type 4 Fighter「疾風(はやて)」(キ84)とともに帝国陸軍Imperial Japanese Armyを代表する戦闘機Fighter aircraftとして、太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)における事実上の主力機Main Fighter aircraftとして運用された。
総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍Imperial Japanese Forcesの戦闘機Fighter aircraftとしては海軍Navyの零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighterに次いで2番目に多く、陸軍機Army Fighter
aircraftとしては第1位。
1937年(昭和12年)(皇紀2597年)12月に制式採用された中島飛行機の全金属製All-metal低翼単葉機Low-wing monoplane九七式戦闘機Type 97 Fighter(キ27)は、主脚Main Landing gearに固定脚Fixed gearを採用した保守的な設計かつ格闘戦Dogfight向けの戦闘機Fighter aircraftだった。
登場当初の九七式戦闘機Type 97 Fighterは速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機であったが、当時の欧州Europeでは引込脚Retractable gearのメッサーシュミットBf109 Messerschmitt Bf 109(ドイツ)とスピットファイアSupermarine
Spitfire(イギリス)が出現しており、設計面で将来性が乏しい九七式戦闘機Type 97 Fighter自体に限界を感じていた陸軍Imperial Japanese Armyは新型New model戦闘機Fighter
aircraftの開発Developmentを模索するようになった。
隼(はやぶさ) Peregrine Falcon
加藤隼戦闘隊 Colonel Kato's Falcon Squadron
加藤建夫(かとう・たてお)陸軍中佐 Army
Lieutenant colonel Tateo Kato
大空のちかい 九里一平 1962年(昭和37年)(9<10歳)(小3<4)
二式戦闘機「鍾馗」 Type 2 Fighter Shoki (Demon)
二式戦闘機「鍾馗」 Type 2 Fighter Shoki (Demon)
二式戦闘機「鍾馗」 Type 2 Fighter Shoki (Demon)
二式戦闘機「鍾馗」
Type 2
Fighter Shoki (Demon)
日本陸軍Imperial Japanese Army
1942年(昭和17年)(皇紀2602年)制式採用
二式単座戦闘機Type 2 Single-Seat Fighter
最高速度 605km/h
二式戦闘機(にしき・せんとうき)Type 2 Fighterは、第二次世界大戦World War II時の日本陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter aircraft。
キ番号(試作名称)はキ44。
愛称Nicknameは鍾馗(しょうき)Demon。
略称・呼称は二式戦、二式単戦、二戦、二単、ヨンヨンなど。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはトージョーTojo。
開発Development・製造Manufacturingは中島飛行機Nakajima Aircraft Company。
制式名称は単に「二式戦闘機Type 2 Fighter」であるが、「二式複座戦闘機Type 2 Two-Seat Fighter(屠龍(とりゅう))」との混同を避けるため便宜上「二式単座戦闘機Type 2 Single-Seat Fighter」と呼ばれることがある。
従来の陸海軍Imperial Japanese Forces戦闘機Fighter
aircraftとは異なり旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能をも備えた新時代の優秀機であったが、反面、(日本の闘機Fighter aircraftとしては)旋回性能と航続距離Rangeには劣り、翼面荷重Wing loadingが大きい。
これらは欧米Europe and Americaの戦闘機Fighter aircraftと比べると標準的な値であったが、格闘戦Dogfightに秀でて操縦も容易な従来機に慣れていた操縦者Aircraft pilotには、離着陸Takeoff and Landingの難しさ、航続距離Rangeの不足などを理由に嫌われる傾向にあった。
二式戦闘機「鍾馗」Type 2 Fighter
Shokiは太平洋戦争Pacific War緒戦の南方作戦Southern campaignに従軍し、インドシナIndochina、マレーMalay、ビルマBurmaと転戦したが、補助タンクを装備しても航続距離Rangeが短く、敵地深くへの侵攻ができなかった。
そのため、各方面に投入されて数々の戦果を挙げた一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter
Hayabusaにくらべて戦闘の機会に恵まれず、あまり目立った活躍ができなかった。
1942年(昭和17年)5月に二式戦闘機「鍾馗」Type 2 Fighter
Shokiが内地に呼び戻された理由は九七式戦闘機Type 97 Fighterではドーリットル空襲Doolittle Raidを阻止できず、本土の防空力強化の為の移動とされている。
1944年(昭和19年)末より、日本本土Japanese mainlandにB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressが飛来するようになると、二式戦闘機「鍾馗」Type 2 Fighter Shokiは本土決戦用の兵力温存の処置がなされるまでは邀撃部隊迎撃戦闘機Interceptor aircraftとして活動を行った。
二式戦闘機「鍾馗」Type 2 Fighter
Shokiは四式戦闘機「疾風」Type 4 Fighter
Hayateが出揃うまでは三式戦闘機「飛燕」Type 3 Fighter HienとともにB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressには比較的有力な機体であったのは変わりなく、残存機は迎撃戦闘機Interceptor
aircraftとして本土防空Air defenseの任務に就き敗戦Defeatまで活躍した。
鍾馗(しょうき) Zhong Kui
主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。
日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。
また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
三式戦闘機「飛燕」 Type 3 Fighter Hien
(flying swallow)
三式戦闘機「飛燕」
Type 3
Fighter Hien (flying swallow)
日本陸軍Imperial Japanese Army
1943年(昭和18年)(皇紀2603年)制式採用
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度 590km/h 610km/h
三式戦闘機(さんしき・せんとうき)Type 3 Fighterは第二次世界大戦World War II時に日本陸軍Imperial Japanese Armyが開発Developmentし、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機Fighter aircraftである。
愛称Nicknameは飛燕(ひえん)flying swallow。
1945年(昭和20年)1月16日付の朝日新聞の記事で「その軽妙俊敏さは、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕(ひえん)」と呼ぶことになった」としている。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはトニーTony。
開発Development・製造Manufacturingは川崎航空機Kawasaki Aircraft Industriesにより行われた。
設計Design主務者は土井武夫(どい・たけお)、副主任は大和田信(おおわだ・しん)である。
ドイツのGerman液冷航空エンジンLiquid-cooled Aircraft engine DB601
Daimler-Benz DB 601を国産化したハ40 Kawasaki Ha40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraftである。
防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では鈍重な戦闘機になり下がり、アメリカ軍US Armed Forcesに「もっとも食いやすい(つまりアメリカ軍US Armed Forcesにとっては攻撃し易い)戦闘機Fighter aircraft」という印象を与えている。
基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷航空エンジンLiquid-cooled
Aircraft engineハ40 Kawasaki Ha40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機Fighter aircraftとしても知られる。
ハ40 Kawasaki Ha40の性能向上型であるハ140 Kawasaki Ha140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型Type 3 Fighter Model 2はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機(さんしき・せんとうき)Type 3 Fighterが大量に並ぶ異常事態が発生した。
そこで星型空冷エンジンRadial Air-cooled
Aircraft engineを急遽搭載した日本陸軍Imperial Japanese
Army最後の制式戦闘機、五式戦闘機Type 5 Fighterが生産された。
三式戦闘機「飛燕」Type 3 Fighter HienはフィリピンPhilippinesやニューギニアNew Guinea、そして本土防空戦Mainland air defenseで戦果をあげている。
特に本土防空戦Mainland air defenseでは、他の日本機に比べ高空性能が良かったため、対B-29スーパーフォートレスBoeing B-29 Superfortress戦闘に奮戦している。
燕(ツバメ) swallow
四式戦闘機「疾風」 Type 4 Fighter Hayate
(Gale)
四式戦闘機「疾風」 Type 4 Fighter Hayate
(Gale)
四式戦闘機「疾風」
Type 4
Fighter Hayate (Gale)
日本陸軍Imperial Japanese Army
1944年(昭和19年)(皇紀2604年)制式採用
4翅プロペラFour bladed propeller
最高速度 624km/h
四式戦闘機(よんしき・せんとうき)Type 4 Fighterは、第二次世界大戦World War II時の日本陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter aircraft。
キ番号(試作名称)はキ84。
愛称Nicknameは疾風(はやて)Gale。
呼称・略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機、決戦機など。
連合軍Allied forcesのコードネームCode nameはフランクFrank。
開発Development・製造Manufacturingは中島飛行機Nakajima Aircraft Company。
基本設計はオーソドックスな構成ながら、速度Velocity、武装Armament、防弾Bulletproofing、航続距離Range、運動性Motility、操縦性Maneuverabilityをバランス良く纏め、設計段階で生産性も考慮された機体である。
九七式戦闘機Type 97 Fighter、一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter
Hayabusa、二式戦闘機「鍾馗」Type 2 Fighter
Shokiと続いた、小山悌(こやま・やすし)技師長を設計主務者とする中島製戦闘機Nakajima Fighter
aircraftの集大成とも言える機体である。
特に624km/h/5,000mという最高速度は第二次世界大戦World War II中に実用化された日本製戦闘機Japanese Fighter
aircraftの中では最速Fastestである。
四式重爆撃機「飛龍」Type 4 Heavy Bomber Hiryuとともに重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争Pacific War(大東亜戦争Greater East Asia
War)後期登場の機体ながらも、日本軍Imperial Japanese Forces戦闘機Fighter
aircraftとしては零戦Zero fighter、一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter
Hayabusaに次ぐ約3,500機に及んだ。
帝国陸軍Imperial Japanese Army からは戦局を覆す「大東亜決戦機(大東亜決戦号・決戦機)」として大いに期待され、第二次世界大戦World War II後期の主力戦闘機Main Fighter
aircraftとして多数機が各飛行戦隊Air unitといった第一級線の実戦部隊に配備された。
当時の主要戦線の全て(中国戦線Second
Sino-Japanese War、フィリピン戦線Philippines campaign、ビルマ戦線Burma campaign)および日本本土防空戦Japanese mainland air defenseに従軍し、対戦したアメリカ軍US Armed Forcesからも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された機体だった。
五式戦闘機一型甲Type 5 Fighter Model 1A
ファストバック型キャノピーFastback canopy
五式戦闘機一型甲Type 5 Fighter Model 1A
ファストバック型キャノピーFastback canopy
五式戦闘機一型乙Type 5 Fighter Model 1B
涙滴型キャノピーTeardrop canopy
五式戦闘機一型乙Type 5 Fighter Model 1B
涙滴型キャノピーTeardrop canopy
五式戦闘機 Type 5 Fighter
日本陸軍Imperial Japanese Army
1945年(昭和20年)(皇紀2605年)制式採用
三式戦闘機「飛燕」Type 3 Fighter Hienの後継機Successor
最大速度 580km/h
五式戦闘機(ごしき・せんとうき)Type 5 Fighterは第二次世界大戦World War II時の日本陸軍Imperial Japanese Armyの戦闘機Fighter aircraftである。
キ番号(試作名称)はキ100。
略称・呼称は五式戦。
他陸軍機Army aircraftに用いられた公式愛称Nickname、また本機固有の連合軍Allied forcesコードネームCode nameも存在しない。
ただし書類上などでは便宜上「Tony II」とされたことがあったという。
川崎内では「きのひゃく」または「ひゃく」、陸軍航空敞では「きひゃく」または「ひゃく」と呼ばれていた。
開発Development・製造Manufacturingは川崎航空機Kawasaki Aircraft Industries、設計主務者は土井武夫(どい・たけお)。
帝国陸軍Imperial Japanese Army最後の制式戦闘機Fighter aircraftとされる軍用機Military aircraftである。
製作不良・整備困難などから液冷エンジンLiquid-cooled
Aircraft engine、ハ140 Kawasaki Ha140の供給不足に陥り、機体のみが余っていた三式戦闘機二型Type 3 Fighter Model 2に急遽空冷エンジンAir-cooled Aircraft
engine、ハ112II(金星(きんせい)Mitsubishi Kinsei)を搭載し戦力化したものであるが、時間的猶予の無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮、整備性や信頼性も比較にならないほど向上した。
五式戦闘機Type 5 Fighterは第二次世界大戦World War II末期に登場し、また生産数も少ないために実戦での活躍は少ないが、末期の日本陸軍Imperial Japanese Armyにとり相応の戦力となった。
離昇出力は1500馬力と四式戦闘機「疾風」Type 4 Fighter
Hayateには及ばないものの空戦能力・信頼性とも当時の操縦士Aircraft pilotには好評で、アメリカ軍US Armed Forcesの新鋭戦闘機Newer Fighterと十分に渡り合えたと証言する元操縦士Aircraft pilotも多い。
五式戦闘機一型甲Type 5 Fighter Model 1A
ファストバック型キャノピーFastback canopy
五式戦闘機一型乙Type 5 Fighter Model 1B
涙滴型キャノピーTeardrop canopy
1945年(昭和20年)6月5日、五式戦闘機Type 5 Fighterの13機はB-29爆撃機Boeing B-29 Superfortressを攻撃した。
1945年(昭和20年)7月16日、24機の五式戦闘機Type 5 Fighterが、硫黄島Iwo Jimaを出撃したアメリカ陸軍航空軍US Army Air ForcesのP-51マスタングNorth American P-51
Mustang 96機と三重県松阪市上空にて交戦した。
1945年(昭和20年)7月25日、滋賀県神崎郡(現・東近江市)付近上空で、アメリカ海軍US Navyの18機のF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatに対して、五式戦闘機Type 5 Fighterの16機で挑んだ。
1945年(昭和20年)7月28日には18機の五式戦闘機Type 5 Fighterで24機のF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatと交戦した。
五式戦闘機Type 5 Fighterは1500馬力クラスであり、アメリカUSAのP-51マスタングNorth American P-51 Mustang(1700馬力クラス)に及ばぬまでも接近する出力性能は持っていた。
しかしながらP-51マスタングNorth American P-51
Mustangは空気力学的洗練により最高で700km/h以上の速度性能を発揮していた。
九七式中戦車チハ Type 97 Chi Ha
medium tank
九七式中戦車チハ Type 97 Chi Ha
medium tank
小松崎茂(こまつざき・しげる) 1959年(昭和34年)(6<7歳)~
九七式中戦車チハ
Type 97
Chi Ha medium tank
日本陸軍Imperial Japanese Army
1937年(昭和12年)(皇紀2597年)制式採用
全長Length 5.55m
重量Mass 14.8metric tons
最大速度Maximum speed 38km/h
乗員数Crew 4
九七式中戦車チハ(きゅうななしき・ちゅうせんしゃ・チハ)は、1930年(昭和5年)代中後期に開発Development・採用された日本陸軍Imperial Japanese
Armyの主力中戦車Main Medium tankである。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車ハ号Type 95 Ha-Go light tankとともに第二次世界大戦World War IIにおける日本軍Imperial Japanese Forcesの主力戦車Main battle tankとして使用された。
「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネームCode name(計画名称・秘匿名称)である。
このカタカナ2文字の命名法は本車の開発時から適用されたものであり、八九式中戦車Type 89 I-Go medium
tankにもさかのぼって命名されている(甲型「チイ」、乙型「チロ」)。
そのため「チハ車(ちはしゃ)」とも表記・呼称された。
九七式中戦車チハType 97 Chi Ha medium tankは、1939年(昭和14年)5月のノモンハン事件Nomonhan Incidentに投入された。
ノモンハン事件Nomonhan Incident
ノモンハン事件Nomonhan Incident
九五式軽戦車Type 95 light tank
BT戦車BT tank ソ連Soviet Union
ノモンハン事件Nomonhan Incident
ノモンハン事件Nomonhan Incidentは、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国State of Manchuriaとモンゴル人民共和国Mongolian People's
Republicの間の国境線Border lineをめぐって発生した紛争Conflictのこと。
1930年(昭和5年)代に、満州国State of Manchuriaを実質的に支配していた日本Imperial Japanと、満州国State of Manchuriaと国境Borderを接し、モンゴルMongoliaを衛星国Satellite stateとしたソビエト連邦Soviet Unionの間で断続的に発生した日ソ国境紛争Soviet–Japanese border conflicts(満蒙国境紛争Manchuria-Mongolia border conflicts)のひとつ。
満州国軍Manchukuo Imperial Armyとモンゴル軍Mongolian Armed
Forcesの衝突conflictに端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍Imperial Japanese
Armyとソビエト赤軍Workers' and Peasants' Red Armyが戦闘Battleを展開し、一連の日ソ国境紛争Soviet–Japanese
border conflictsのなかでも最大規模の軍事衝突Military conflictとなった。
清朝Qing dynastyが1734年(雍正12年)に定めたハルハKhalkha東端部(外蒙古(がいもうこ)Outer Mongolia)とフルンボイルHulunbuir平原Plain南部の新バルガ(内蒙古(ないもうこ)Inner Mongolia)との境界Borderは、モンゴルの独立宣言Mongolia declared
independence(1913年(大正2年))以後も、モンゴルMongoliaと中華民国Republic of Chinaの間で踏襲されてきた。
しかし、1932年(昭和7年)に成立した満州国State of Manchuriaは、フルンボイルHulunbuirの南方境界Southern Borderについて従来の境界Borderから10~20 kmほど南方southに位置するハルハ川Khalkha Riverを境界Borderと新たに主張し、以後この地を国境Border係争地debatable
groundとした。
1939年(昭和14年)5月、フルンボイルHulunbuir平原PlainのノモンハンNomonhan周辺でモンゴル軍Mongolian Armed
Forcesと満州国軍Manchukuo Imperial Armyの国境警備隊Border guardの交戦Engagementをきっかけに、日本軍Imperial Japanese Forcesとソ連軍Soviet Armed forcesがそれぞれ兵力military forceを派遣し、大規模な戦闘Battleに発展した。
結果は、日本軍Imperial Japanese Forces側が航空戦Aerial warfareでは数に劣りながらも常に優勢であったが、地上戦Ground battleは戦車火砲Tank gunの力の差が甚だしく、敗退に終わり、ソ連Soviet Unionとモンゴル人民共和国Mongolian People's
Republicの主張する国境線Border lineはほぼ維持された。
ソビエト連邦によるポーランド侵攻Soviet invasion of Poland直前、ソ連政府Soviet Governmentが所在する首都モスクワのクレムリンMoscow Kremlinで「日ソ両軍の現在地を停戦Ceasefireラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」との事件の停戦Ceasefireの合意が、9月15日深夜に成立した。