マークIV戦車 Mark IV tank マークIV戦車 Mark Four tank
マークIV戦車 Mark IV tank マークIV戦車 Mark Four tank
マーク I 戦車 Mark I tank
突撃戦車A7V A7V heavy tank
突撃戦車A7V A7V heavy tank
マークIV戦車 Mark IV
tank
マークIV戦車 Mark IV tank マークIV戦車 Mark Four tank
イギリス陸軍 British Army
就役 In service 1917年(大正6年)6月7日
全長 Length 8.04m
重量 Mass
雄型 Male tank 28 metric tons
雌型 Female tank 27 metric tons
最大速度 Maximum speed 5.95km/h
乗員数 Crew 8
イギリス British Empireが開発 Developmentした世界初の戦車 world's first tankであるマーク I 戦車 Mark I
tankの問題点 problemを改善・改良 Improvementした戦車 tankである。
世界初の戦車 world's first tankとなったマークI戦車 Mark I tankであったが、開発 Developmentを急ぐあまり乗員 Crewの居住性 Habitabilityや安全性 safetyは考慮されていなかった。
菱形戦車 rhomboidal tankとしてはほぼ完成型 Completed typeの域に達してはいたものの、その構造 structure上サスペンション Suspensionは搭載されず、乗員 Crewの居住性は最悪であった。
特にエンジン・ルーム engine
roomと乗員搭乗室 Crew boarding roomが同じ部屋で仕切り等もなかった為、エンジン engineの発する熱による弊害や振動により乗員 Crewがむき出しのエンジン engineに激突するなど問題があった。
また、車内 Inside the tankに光源 light
sourceが存在せず、小さな銃眼Embrasureから差し込む光が頼みであった。
これも換気扇 Ventilation fanなどがない車内 Inside
the tankでは、エンジンengineの排気 exhaustや発砲煙 powder smokeによって遮られた。
これらの問題点 problemはマークII戦車 Mark II tankやマークIII戦車 Mark
III tank と改良を重ねるごとに改善されていき、乗員 Crewの居住性も含めて前期 early菱形戦車 rhomboidal tankの集大成 culminationとなったのがマークIV戦車 Mark IV
tankである。
マークI戦車 Mark I
tankと同様に砲 Artilleryと機関銃 Machine
gunを備えた雄型 Male tankと、機関銃 Machine
gunのみ装備の雌型 Female tankの2種類が存在し、基本的な形状は変わらないものの若干小型化している。
また、ドイツ軍 German
Armed ForcesのSmK弾(MG17機関銃 MG 17 machine gun)を考慮し、特殊な鋼鉄製装甲 Steel
armorに変更された。
車体 body of tank上には軟弱地脱出用の角材 Square
lumberを載せるレールが設置された。
武装はマークIII Mark IIIからの変更だが、左右砲郭 casemateに1門ずつ装備された6ポンド(57mm)砲が40口径から23口径へと短砲身化されている。
これは不整地走行の際、「長い砲身が地形に引っかかる」との苦情に応えた物で、砲の威力(貫徹力)は当然減少するのだが、対戦車戦闘を考慮に入れない当時は問題にされず、むしろ砲の取り回しが改善されたとして歓迎された。
なお、砲郭 casemate部のスポンソン Sponson(張り出し)はそれまでの菱形戦車rhomboidal tankと違い、鉄道輸送時に取り外すことなく車内へ引き込むことが可能に改良されている。
しかし、マークI戦車 Mark I
tank以来の「操縦に4名の乗員 Crewが必要」という最大の欠点 Disadvantageは依然として存在した。
この欠点は次作のマークV戦車 Mark V tankで解決する。
1917年(大正6年)より製造 Manufacturingが開始され、生産数は1,015輌に上る。
更にマークIV戦車 Mark IV
tankには物資輸送用の補給戦車型や、武装を撤去してクレーンを搭載したタイプなどの派生型 Derived typeが存在する。
1917年(大正6年)7月末から同年11月まで続いた、パッシェンデールの戦い Battle of
Passchendaele(第三次イーペル会戦 Third
Battle of Ypres)に多数のマークIV戦車 Mark IV tankが投入された。
1917年(大正6年)11月20日から12月7日にかけて行われた、カンブレーの戦いBattle of Cambraiで、大量のマークIV戦車 Mark IV tankが投入された。
マークIV戦車 Mark IV
tankは1918年(大正7年)4月24日にフランス Franceのヴィレ=ブルトヌー Villers-Bretonneux(第二次ヴィレ=ブルトヌーの戦い Second Battle of
Villers-Bretonneux)で、ドイツ軍 German
Armed Forcesと史上初の戦車戦 first
tank-to-tank battleを経験している。
この戦闘は偶発的なものであったが、イギリス軍 British
Armed ForcesがマークIV戦車 Mark IV
tank 雄型Male
tank・1輌に雌型 Female tank 2輌、ドイツ軍 German
Armed Forcesが突撃戦車A7V A7V heavy tank・3輌と車輌の数では互角であった。
遭遇した両軍はほぼ同時に互いに気づいたが、機銃 Machine
gunしか持たない雌型 Female tank 2輌は突撃戦車A7V A7V heavy tankにより撃破 Defeatされた。
ミッチェル少尉指揮の雄型 Male
tankはすかさず反撃 Counterattackし、ビルツ少尉搭乗の突撃戦車A7V A7V heavy tankに直撃弾を与えた。
イギリス戦車 British tankはドイツ戦車 German
tankと違い、戦車戦 tank-to-tank battleの発生を想定していなかったために徹甲弾 Armor-piercing
shellを積載しておらず、搭載していた榴弾 High Explosiveでは突撃戦車A7V A7V heavy tankの装甲を貫通できなかった。
しかし突撃戦車A7V A7V heavy tankの乗員 Crewは誘爆を恐れて車輌から脱出し、戦闘は終わった。
フォッカーDr.I Fokker Dr.I
第一次世界大戦 World War I中の1917年(大正6年)に、ドイツ帝国 German Empireのフォッカー社 Fokkerが製作した三枚翼 three wingの戦闘機 Fighter aircraft(三葉機 Triplane)で、かの撃墜王 Flying ace「レッドバロン Red Baron」(赤い男爵)ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン Manfred von Richthofenも愛用していたことで知られる。
ドレッドノート Battleship Dreadnought
160.6m 18,110metric tons
イギリス海軍 British Navy の戦艦 Battleship。
同型艦 Same type ship なし。
“Dreadnought”は『Dread:恐怖、不安』『Nought:ゼロ』の合成語であり、「勇敢な」「恐れを知らない」「恐怖心が無い」を意味するが、本艦がそれまでの戦艦 Battleship に比べてはるかに大きかったので「(それまでに比べて)格段に大きい」「(非常に)大型である」を意味するようにもなる。
「ドレッドノート戦艦 Battleship
Dreadnought」⇒「弩級戦艦 Dreadnought」⇒「超弩級戦艦 Super-dreadnought」のように言葉が変化したと考えられている。
サラエボ事件 Assassination of Archduke Franz Ferdinand
塹壕 Trench とガスマスク Gas
mask
塹壕戦 Trench warfare
第一次世界大戦 World
War I
第一次世界大戦 World War Iは、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけて、連合国 Allies対中央同盟国 Central
Powersの戦闘 Battleにより繰り広げられた世界大戦 global warである。
7千万以上 more than 70 millionの軍人 Military
personnel(うちヨーロッパ人Europeansは6千万 60 million)が動員 mobilisationされ、史上最大の戦争the largest wars in historyの一つとなった。
第二次産業革命 Second Industrial Revolutionによる技術革新 technological innovationと塹壕戦 Trench
warfareによる戦線 battlefrontの膠着 deadlockで死亡率 Death rateが大幅に上昇し、集団殺害 Genocideの犠牲者 casualtiesを含めた戦闘員 Combatant 900万人以上と非戦闘員 Non-combatant
700万人以上が死亡 Killed in actionした。
史上死亡者数の最も多い戦争 the deadliest
conflicts in historyの一つであり、この戦争 Warは多くの参戦国 Participantsにおいて革命 Revolutionや帝国 Empireの解体 Dismantlingといった政治変革 Political changeを引き起こした。
終戦後 After the end of the war(戦間期 Interwar
period)も参戦国Participantsの間に対立関係 Conflictが残り、その結果わずか21年後の1939年(昭和14年)には第二次世界大戦 World War IIが勃発 outbreakした。
戦争 Warは世界全ての経済大国 Economic
powerを巻き込み、それらを連合国Allies(ロシア帝国 Russian
Empire、フランス第三共和政 French
Third Republic、イギリス British
Empireの三国協商 Triple
Ententeに基づく)と中央同盟国 Central
Powers(主にドイツ帝国 German
Empireとオーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empire)の両陣営 Both campsに二分した。
イタリア王国 Kingdom of Italyはドイツ帝国 German
Empireおよびオーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireと三国同盟 Triple
Allianceを締結していたが、オーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireが同盟 Allianceの規定に違反して防衛 defenseではなく侵略 Invasionに出たため、イタリア王国 Kingdom of Italyは中央同盟国 Central Powersに加入しなかった。
諸国 Countriesが参戦 Participation
in the warするにつれて両陣営 Both
campsの同盟関係 Allianceは拡大されていき、例えば日本 Imperial
Japanとアメリカ合衆国 USAは連合国 Allies側に、オスマン帝国 Ottoman
Empireとブルガリア王国 Kingdom
of Bulgariaは中央同盟国 Central
Powers 側について参戦 Participation
in the warした。
参戦国 Participantsや戦争 Warに巻き込まれた地域 areaは、2018年(大正7年)時点の国家 Stateに当てはめると約50カ国に達する。
戦争 Warの引き金となったのは1914年(大正3年)6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者 Bosnian Serb
Yugoslav nationalistの青年ガヴリロ・プリンツィプ Gavrilo
Principが、サラエボ Sarajevoへの視察 Inspectionに訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireの帝位継承者 Succession
to the throneフランツ・フェルディナント大公 Archduke Franz
Ferdinandを暗殺 Assassinationした事件 Incident(サラエボ事件 Assassination of Archduke Franz Ferdinand)だった。
これにより、オーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireはセルビア王国 Kingdom
of Serbiaに最後通牒 Ultimatumを発する issuedという七月危機 July Crisisが起こった。
各国政府 Governments of each countryおよび君主 Monarchは開戦 opening of warを避けるため力を尽くしたが、戦争計画 War planの連鎖的発動 Chain
activationを止めることができず、瞬く間に世界大戦 World
Warへと発展したとされる。
そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国 European
countries間の同盟網 network
of interlocking alliancesが一気に発動 Activateされた結果、数週間で主要な欧州 European 列強 Great
Powersが全て参戦 Participation
in the warすることとなった。
まず7月24日から25日にはロシア帝国 Russian Empireが一部動員 Partial
mobilizationを行い、28日にオーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireがセルビア王国 Kingdom
of Serbiaに宣戦布告 Declaration
of warすると、ロシア帝国 Russian
Empireは30日に総動員 Total mobilizationを命じた。
ドイツ帝国 German Empireはロシア帝国 Russian
Empireに最後通牒Ultimatumを突き付けて動員 Mobilizationを解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシア帝国 Russian Empireに宣戦布告 Declaration
of warした。
東部戦線 Eastern Frontで人数的に不利だったロシア帝国 Russian
Empireは三国協商 Triple
Ententeを通じて、同盟関係 Allianceにあるフランス第三共和政 French Third
Republicに西部で第二の戦線(西部戦線 Western
Front)を開くよう要請した。
1870年(明治3年)の普仏戦争 Franco-Prussian Warの復讐に燃えていたフランス第三共和政 French
Third Republicはロシア帝国 Russian
Empireの要請を受け入れて、8月1日に総動員 Total mobilizationを開始、3日にはドイツ帝国 German
Empireがフランス第三共和政 French
Third Republicに宣戦布告 Declaration of warした。
独仏国境 France-Germany borderは両側とも要塞 Fortification化されていたため、ドイツ帝国 German Empireはシュリーフェン・プラン Schlieffen
Planに基づきベルギー Belgiumとルクセンブルク Luxembourgに侵攻 Invasion、続いて南下してフランス第三共和政 French
Third Republicに進軍 Advanceした。
しかしその結果ドイツ帝国 German Empireがベルギー Belgiumの中立neutralityを侵害 infringementしたため、8月4日にはイギリス British Empireがドイツ帝国 German
Empireに宣戦布告 Declaration
of warした。
イギリス British Empireと同盟 Allianceを結んでいた日本 Imperial Japanも8月23日にドイツ帝国 German Empireに宣戦布告 Declaration
of warした。
ドイツ陸軍 Imperial German Armyのパリ進軍 Paris
marchが1914年(大正3年)9月の第一次マルヌ会戦 First Battle of the
Marneで食い止められると、この西部戦線 Western Frontは消耗戦 Attrition
warfareの様相を呈し、1917年(大正6年)まで塹壕線 Trench lineがほとんど動かない状況となった。
東部戦線 Eastern Frontではロシア帝国 Russian
Empireがオーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireに勝利したが、ドイツ帝国 German
Empireはタンネンベルクの戦い Battle
of Tannenbergと第一次マズーリ湖攻勢 First
Battle of the Masurian Lakesでロシア帝国 Russian
Empireによる東プロイセン侵攻 East
Prussian Offensiveを食い止めた。
1914年(大正3年)11月にオスマン帝国 Ottoman Empireが中央同盟国 Central Powersに加入すると、コーカサス Caucasusと中東 Middle East(メソポタミア Mesopotamiaやシナイ半島 Sinai Peninsula)の戦線 battlefrontが開かれた。
1915年(大正4年)にはイタリア王国 Kingdom of Italyが連合国 Alliesに、ブルガリア王国 Kingdom
of Bulgariaが中央同盟国 Central
Powersに加入した。
ルーマニア王国 Kingdom of Romaniaとアメリカ USAはそれぞれ1916年(大正5年)と1917年(大正6年)に連合国 Alliesに加入した。
ロシア Russiaでは1917年(大正6年)3月に二月革命 February Revolutionによって帝政が崩壊 collapse
of the empireし、代わって成立したロシア臨時政府 Russian
Provisional Governmentも十月革命 October
Revolutionで打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシア Russiaは中央同盟国 Central Powersとブレスト=リトフスク条約 Treaty
of Brest-Litovskを締結 Conclusionして大戦 great warから離脱 Withdrawalした。
1918年(大正7年)春にはドイツ帝国 German Empireが西部戦線 Western
Frontで春季攻勢 Spring Offensiveを仕掛けたが、連合国軍 Allied
forcesは百日攻勢 Hundred
Days Offensiveでドイツ軍 Imperial
German Armyを押し返した。
1918年(大正7年)11月4日、オーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empireはヴィラ・ジュスティ休戦協定 Armistice
of Villa Giustiを締結 Conclusion。
ドイツ帝国 German Empireもドイツ革命 German
Revolution of 1918–1919が起こったため休戦協定 Armistice
of 11 November 1918を締結 Conclusionし、戦争は連合国 Alliesの勝利となった。
戦争終結 End of war前後にはドイツ帝国 German
Empire、ロシア帝国 Russian
Empire、オーストリア=ハンガリー帝国 Austro-Hungarian
Empire、オスマン帝国 Ottoman
Empireなどのいくつかの帝国が消滅 Empires
cease to existした。
国境線 Border lineが引き直され、独立国 independent
stateとして9つの国家Stateが建国 Founding of the
countryされるかあるいは復活 Resurrectionした。
また、ドイツ植民地帝国 German
colonial empireは戦勝国 Victorious countryの間で分割 partitionされた。
1919年(大正8年)のパリ講和会議 Paris Peace Conferenceにおいては「五大国the Big Five」(イギリス British Empire、フランス French
Third Republic、日本 Imperial Japan、アメリカ USA、イタリア Kingdom
of Italy)が会議を主導し、一連の講和条約 Peace
treatyを敗戦国 Defeated countryに押し付け、敗戦国の領土 territoryを分割した。
大戦後 post-world War Iには、再び世界大戦 World
Warが起こらないことを願って国際連盟 League of Nationsが設立されたが、この取り組みは失敗した。
世界恐慌 Great Depression、民族主義 Ethnic
nationalismの復活Resurrection、後継国家 Succession
of statesの弱体化、敗戦国 Defeated
country 側(特にドイツ Germany)の屈辱感 sense of humiliationは、やがて第二次世界大戦 World War IIを引き起こすこととなった。
軍事的 Militaryには列強 Great Powersが人員 personnelや経済力 economic
power、工業技術 Industrial technologyを大規模 Large
scaleに動員 mobilizationする国家総力戦 Total
warであった。
航空機 aircraftや化学兵器 Chemical
weapon(毒ガス Poisonous gas)、潜水艦 Submarine、戦車 Tankといった新兵器 New weaponが大規模または史上初めて使われた。