戦艦大和 Japanese battleship Yamato 72,809トン 263.0m 1941年(昭和16年)
同型艦 武蔵 信濃 艦名は、奈良県の旧国名の大和国に由来
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零戦五二型 Zero fighter Model 52 1943年(昭和18年)
零式艦上戦闘機五二型 Type 0 carrier fighter Model
52
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M4A3シャーマン M4A3
Sherman
米陸軍U.S. Army 中戦車Medium Tank 30t
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平田弘史さんの模倣 小学五年生?
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平田弘史さんの模倣 小学五年生?
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「さいとう・たかを」さんの模倣 小学五年生?
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宍戸錠さんの当時の月刊誌の写真より模倣 小学五年生?
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「ビートルズ物語?」の挿絵より模倣 中学二年生?
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中学二年生時の美術の授業での版画
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Norimaki Sembeeの四方山話
私こと、Norimaki Sembeeは、現在、満68歳のオッサンです。
あえて、ジイサンとは言わない。
3、4歳の男の孫が仮面ライダーの武器やベルト、仮面で遊ぶのを見て、
自分もその年の頃、玩具のサングラスと、風呂敷をマント代わりにして、
「月光仮面」の真似事をして遊んでいたことを思い出しました。
Norimaki Sembeeは小学一年生から中学一年生の春まで、「プラモ少年」でした。
進学のための勉強をするため、その後はやめてしまいました。
64歳の5月に、当時2歳だった、先ほどの男の孫に、作って見せるために、
プラモ造りを再開しました。
プラモ少年にとって、「戦艦大和」と「零戦」は最大のテーマでした。
が、小遣いの乏しい少年にとって、容易に作れる代物ではなかった。
1959年(昭和34年)4月に、小学一年生になったNorimaki Sembee。
この年に、『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』が創刊される。
一部30~40円だったように思う。
表紙やグラビアは、小松崎茂氏などのイラストレイターによる、
軍艦・戦闘機・戦車などであった。
戦記ブームの到来である。
同時にプラモデル・ブームの到来でもあった。
そしてNorimaki Sembeeのような「プラモ少年」が多く生まれた。
当時のプラモ・キットには粗悪品も多かった。
1キット30~40円で、3~4パーツしかない代物もあった。
現在のガシャポンの景品みたいなものである。
小学三年生(だったように思う)の時に、
350円もの大枚をはたいて、本格的なキットを買った。
某社の「走る零戦」である。
プロペラと尾輪がモーターで駆動し、
増加タンクに単3乾電池を入れるという発想はよかった。
しかし、個々の部品が粗悪で、当時のNorimaki Sembeeには完成できなかった。
また、当時のNorimaki Sembeeは小松崎茂氏などを模倣した
軍艦・戦闘機・戦車などの絵も描いていた。
またその頃、貸本屋ブームでもあった。
Norimaki Sembeeは「水木しげる」さん、「さいとう・たかを」さん、
「平田弘史」さんなどの漫画をコピーしていた。
しかし、コピーは上手にできるけども、オリジナルな絵を描くことができないと悟って、
漫画家になることは断念しました。
中学一年生の春に、「田宮模型」の「シャーマン戦車」と出会う。
電動式のキットである。
清水の舞台から飛び降りる思いで、大枚1,300円をはたいて買いました。
他社のとは違う、非常に優良なキットであった。
作製中は、期待と不安で、ワクワクしていたのを、覚えています。
完成したときには、大いに感動したことを、覚えています。
数万円のキットも、無理なく買える現在の境遇では、その感動は、もう味わえません。
何故でしょうか?
小学校の何年生頃だったか、忘れてしまいましたが、
学校帰りの途中で、プラモ屋さんに立ち寄って、ショウ・ウィンドウに展示された
プラモ(おそらく、プラモのプロの製作者の手によるものと思われる)を、
1時間近く、羨望の眼差しで観ていたことを、覚えています。
64歳の5月に、プラモ造りを再開。
2年8か月で、普通のプラモ造りを終える。
以後、10か月で、レゴも終えました。
せっかく造ったので、多くの方々に観ていただきたく、このブログを投稿しました。
短時間で撮り、狭い場所に沢山のプラモを並べていたために、
ピントを合わせるスペースもなく、ピンボケ写真が多くなったことは、
大目に見てください。
なお、1つのプラモを数か月もかけて作るのは、性に合わないので、
ほとんどが、手抜き作製ですので、そこんとこ、宜しくお願い致します。
今後、個別に撮った写真を投稿したいと、思っています。