7節 米国の航空機 US aircraft
B-17フライング・フォートレス Boeing B-17 Flying Fortress
P-26ピーシューター
Boeing P-26 Peashooter
P-26ピーシューターBoeing P-26
Peashooterはボーイング社Boeing Companyが開発Developmentし、1934年(昭和9年)1月にアメリカ陸軍航空隊US Army
Air Corpsが運用Operationした戦闘機fighter aircraftである。
アメリカ陸軍US Armyの制式戦闘機Formal fighter
aircraftとしては初めてfirstの全金属製all-metal、単葉monoplaneの機体airframeであるとともに、最後lastの固定式主脚Fixed main landing
gear、開放式操縦席Open cockpit、張線式主翼Tension type main wingの構造constructionをとる機体airframeでもある。
愛称NicknameのピーシューターPeashooterは"豆鉄砲"の意meaningであるが、操縦士Pilotsたちによってつけられたとされている。
セバスキーP-35 Seversky P-35
セバスキーP-35 Seversky P-35はセバスキー航空機会社Seversky Aircraft Company製の1936年(昭和11年)6月16日に制式採用Formal adoptionされたアメリカ陸軍航空隊US Army
Air Corpsの戦闘機fighter aircraft。
愛称Nicknameは無い。
全金属製all-metalの構造constructionを持ち、引込脚retractable landing
gearや密閉式操縦席enclosed cockpitを備えた単座戦闘機single-seat fighterとしてはアメリカ陸軍US Army最初firstのものである。
カーチス・ホークIII Curtiss Hawk III
カーチス・ホークIII Curtiss Hawk IIIは、アメリカ海軍US Navyの複葉機Biplaneの艦上戦闘機Carrier-borne
Fighter。
カーチスBF2CゴスホークCurtiss BF2C Goshawk(大鷹)の輸出用モデルExport model。
中国Chinaでは日中戦争Japanese-Chinese War頃から貴重な航空戦力Valuable air powerとして運用が開始Operation startedされ、日本軍Imperial Japanese Armed Forcesと戦火を交えたfought each other
in the war。
カーチスSOCシーガル
Curtiss SOC Seagull
カーチスSOCシーガルCurtiss SOC Seagullは、アメリカ合衆国USAのカーチス・ライト社Curtiss-Wright
Corporationが開発Developmentしアメリカ海軍US Navyなどで運用Operationされた偵察機reconnaissance aircraft兼観測機surveillance aircraftである。
愛称NicknameのシーガルSeagullはウミカモメの意meaning。
カーチスSOCシーガル Curtiss SOC Seagull
カーチスP-36 ホーク Curtiss P-36 Hawk
カーチスP-36 ホークCurtiss P-36 Hawkは、アメリカ合衆国USAのカーチス・ライト社Curtiss-Wright
Corporationが開発Developmentし、1938年(昭和13年)にアメリカ陸軍航空隊US Army
Air Corpsなどで運用Operationされたレシプロ戦闘機Reciprocating fighter aircraft。
愛称NicknameのホークHawkは鷹の意meaning。
全金属製all-metal片持ち式Cantilever type単葉monoplaneの主翼Main wing、引込脚retractable landing
gearなどが採用adoptionされたアメリカ陸軍航空隊US Army Air Corps最初firstの近代的戦闘機Modern fighterの1つである。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破・損傷。
ロッキードP-38ライトニング
Lockheed P-38 Lightning
アメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forces
運用開始Introduction 1939年(昭和14年)
三胴Three-fuselage双発Twin-engine単座Single-Seat戦闘機fighter aircraft
最高速度Top speed 667 km/h
P-38ライトニングLockheed P-38
Lightningは、ロッキード社Lockheed Corporationが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesなどで運用された三胴Three-fuselage設計の双発Twin-engine単座Single-Seat戦闘機fighter aircraft。
愛称Nicknameの「ライトニングLightning」は「稲妻」の意。
ただし、これはでアメリカUSAはなく、イギリス空軍Royal Air Forceが採用した際の機体名Aircraft nameとして「ライトニング I」と命名namingされた物の逆輸入Reimportである。
ヨーロッパ戦線Western Frontにも太平洋戦線Pacific Ocean
theaterでも運用Operationされた機体airframe。
日本軍Imperial Japanese Forces側ではその形状から「メザシdried sardines」と呼んでいた他、太平洋戦争Pacific War初期Earlyには低高度性能が低く格闘戦Dogfightに持ち込みやすかった為「容易に撃墜できる = ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」ということから「ペロハチ」と呼んでいた。
しかし、改良を重ねたことと、速度Speedと武装Armamentと急降下dive性能を生かした一撃離脱戦法Hit-and-run
tacticsに切り替えたことにより撃墜対被撃墜比率(げきつい・たい・ひげきつい・ひりつ)Kill Ratioが逆転、運動性能以外でははるかに劣る日本機Imperial Japanese aircraftを寄せ付けない強さを発揮し、「双胴の悪魔fork-tailed devil」と称されるようになった。
リチャード・ボングRichard
Bongら多くのエース・パイロットFlying Aceを輩出するなど猛威を振るった。
また、太平洋戦争Pacific Warにおける日本軍機Imperial Japanese Military aircraftの撃墜shot down数は3,785機とされており、これはアメリカ軍機US Military
aircraftの中では海軍NavyのF6FヘルキャッGrumman F6F Hellcat、F4UコルセアChance Vought F4U Corsairに次ぐ第3位の撃墜shot down数である。
ドイツ空軍German Air Forceを相手にしても、戦略爆撃機Strategic Bomberの護衛Escort任務でドイツ軍German Armed Forces迎撃戦闘機Interceptor
aircraft多数を撃墜shot downするなど活躍する一方で、戦闘機fighter aircraft離れした積載能力を活かして戦略爆撃機Strategic Bomberとして多大な戦果を上げて、ドイツ軍German Armed Forcesから「双胴の悪魔fork-tailed devil」と呼ばれて恐れられた。
1943年(昭和18年)5月以降、それまで航続距離cruising rangeがスピットファイアSpitfireと大して変わらなかったP-47サンダーボルトRepublic P-47 Thunderboltに増加燃料タンクDrop
tankが取り付けられ、爆撃機Bomberの護衛EscortにもついていけるようになるとP-38ライトニングLockheed P-38 Lightningは地中海戦線Mediterranean theatre・イタリア戦線Italian Campaignへも送られ、主に戦闘爆撃機Fighter Bomberとして地上攻撃Ground attackに猛威を振るった。
海軍甲事件(かいぐん・こうじけん) Navy A Incident
1943年(昭和18年)4月18日、P-38ライトニングLockheed P-38
Lightning 16機が、山本五十六(やまもと・いそろく)Isoroku Yamamoto連合艦隊Combined
Fleet司令長官Commander-in-Chiefと連合艦隊Combined
Fleet参謀長Chief of Staff宇垣纏(うがき・まとめ)Matome Ugaki中将vice-admiralが乗った一式陸上攻撃機Type 1
Land-based Attack Aircraft 2機、および護衛Escortの零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighter 6機、をブーゲンビル島Bougainville Island上空で発見、攻撃開始。
海軍甲事件(かいぐん・こうじけん) Navy A Incident
山本五十六(やまもと・いそろく)Isoroku Yamamoto司令長官Commander-in-Chief搭乗の一式陸上攻撃機Type 1
Land-based Attack Aircraft被弾、モイラ岬Cape Moiraのジャングルjungleに墜落Crash、戦死War
deadした(海軍甲事件(かいぐん・こうじけん)Navy A Incident)(ヴェンジェンス作戦Operation Vengeance)。
ベルP-39エアラコブラ
Bell
P-39 Airacobra
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 616km/h
P-39エアラコブラBell P-39 Airacobraは、アメリカ合衆国USAのベル社Bell Aircraft Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II初期Earlyにアメリカ陸軍航空軍United States Army Air Forces等で運用Operationされた戦闘機Fighter aircraft。
主に武器貸与法(レンドリース法)Lend-Lease Acts先のソ連Soviet Unionで活躍した。
愛称Nicknameの「エアラコブラAiracobra」は、「空飛ぶコブラ」といったような意味meaningだが、坂井三郎(さかい・さぶろう)によると日本軍Imperial Japanese Forcesの一部では「エア・コブラ」と読んでいたようである。
イギリスBritish Empireへの武器貸与法(レンドリース法)Lend-Lease Actsでの受取拒否機をアメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesが逆輸入Reimportの形で引き取った機体airframeはP-400エアラコブラP-400 Airacobraと呼ばれる。
エンジンengineを胴体の重心付近に配置して慣性モーメントMoment of inertiaの低減と運動性の向上を目指した、いわゆる飛行機Aircraftのミッドシップmidship化を図った革新的な設計Innovative designの戦闘機Fighter aircraftである。
エンジンengineを胴体中央に装備しているため、プロペラpropellerは延長軸で駆動。
また、プロペラpropeller軸には大口径の37mm砲または20mm砲が搭載できた。
機首の空きスペースに前輪nosewheelを収納するため、三車輪式降着装置tricycle undercarriageとなるなど、エアラコブラAiracobra独特のスタイルが生まれた。
また涙滴型風防Teardrop canopyだがスライド式ではなく、操縦席Cockpitへの出入りは前に蝶番のある自動車ドアcar doorsのような側面ドアside doorsから行うと言う変則的なものであった。
しかし設計者の意図とは裏腹に、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Forcesの度重なる要求により重量が増大。
さらに装備したエンジン、アリソンV-1710シリーズの高高度性能の不足から、期待された程の性能を発揮することができなかった。
エアラコブラAiracobraは、イギリス空軍Royal Air Forceやアメリカ陸軍US Armyでは低い評価だが、ソビエト空軍Soviet Air Forceでは地上攻撃用戦闘機Ground attack Fighter aircraftとしてドイツ地上軍German Ground forceを相手に重要な任務を果たしている。
カーチスP-40ウォーホーク
Curtiss P-40 Warhawk
アメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forces
運用開始Introduction 1939年(昭和14年)
液冷戦闘機Liquid-cooled
Fighter aircraft
最高速度Top speed 582.6km/h
P-40ウォーホークCurtiss P-40
Warhawkは、アメリカ合衆国USAのカーチス・ライト社Curtiss-Wright Corporationが開発Developmentしアメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forcesで運用Operationされた戦闘機Fighter aircraft。
性能的には平凡な機体であったIt was a mediocre
aircraft in terms of performanceが実用性が高くHighly practical常に量産体制が整っていたThe mass production system was always in
placeこともあり、連合国United Nationsが劣勢であった第二次世界大戦World War II初期に重要な使命を担い、各国軍で広く運用Operationされドイツ軍German Armed Forcesや日本軍Imperial Japanese Forcesと戦った。
愛称Nicknameは三種類あるが、イギリス空軍Royal
Air Forceで使用されたものの逆輸入Reimportである。
アメリカUSAでの愛称Nicknameは、A型からC型までは「トマホークTomahawk(インディアンが用いた斧)」、D型とE型は「キティホークKittyhawk(ライト兄弟が初飛行に成功した場所)」、F型以降は「ウォーホークWarhawk(アメリカで「タカ派」を指すスラング)」であるが、イギリスBritish EmpireではF型以降もキティホークKittyhawkと呼ばれた。
1940年(昭和15年)代の第二次世界大戦World War II真っ只中、北アフリカ戦線North African campaignやビルマ戦線Burma Campaignではイギリス空軍Royal Air Forceが、東部戦線Eastern Frontではソ連空軍Soviet Air Forceが、太平洋戦線Pacific Ocean theaterではアメリカ陸軍航空隊US Army Air Forcesやオーストラリア空軍Australian Air Forceが使用して縦横無尽の活躍Inexhaustible activityを見せたP-40ウォーホークCurtiss P-40
Warhawk。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、撃破Defeat・損傷damage。
太平洋戦争Pacific War初期、軽快な日本軍機Imperial Japanese Military aircraftに圧倒されたOverwhelmed印象の強いカーチスP-40 Curtiss P-40だが、中低高度での飛行性能は必ずしも低いわけではなかった。
確かに第二次世界大戦World War II後半に登場し、枢軸軍Axis forces戦闘機Fighter aircraftを圧倒した最新鋭戦闘機Newest Fighter aircraftほどの性能は持たなかったものの、世代差Generational differenceを考えれば当たり前の話で、むしろそれら最新鋭戦闘機Newest
Fighter aircraft登場前は、事実上主力戦闘機Main Fighter aircraftのひとつとして迎撃Interceptionや制空戦闘Air superiority fighter battle、戦闘爆撃機Fighter Bomberとして連合軍戦線Allied Frontを支えた。
そんな活躍ができた理由は、頑丈Sturdyで急降下での離脱など荒っぽい戦闘飛行Battle flightによく耐え、防弾装備Bulletproofingを施せるだけのエンジンパワーEngine powerを持つので生残率が高く、大火力Large Armamentで爆弾Bombを搭載するなど幅広い任務に適応するだけの柔軟性を持っていたからである。
そして何より、『手に入るエンジンEngineや武装Armamentを使ってすぐに大量生産mass productionが可能な完成度Completenessと量産性Mass productivityを持ち、整備もしやすいEasy to maintain』ことが、性能面で尖ったところは無くてもカーチスP-40 Curtiss P-40が広く大量に使われたwidely used in large quantities理由でもあった。
アメリカUSAで大量に生産Mass producedされたカーチスP-40 Curtiss P-40は世界各国で戦闘機Fighter aircraft不足に悩む戦闘機Fighter aircraft隊に配備され、日本Imperial Japan・ドイツNazi Germany・イタリアItalyを中心とした枢軸国Axis powersの航空攻撃Air attackに対して勇敢に立ち向かい、決してひけをとらなかったBravely confronted
and never beatのである。
F2Aバッファロー Brewster F2A Buffalo
アメリカ海軍US Navy
運用開始Introduction 1939年(昭和14年)4月
単葉機Monoplane 艦上戦闘機Carrier-based Fighter
速度 520km/h
F2AバッファローBrewster F2A Buffaloは、ブルースター社Brewster Aeronautical Corporationが開発Developmentし、アメリカ海軍US Navyなどで運用Operationされた艦上戦闘機Carrier-based Fighter。
供与先のイギリス空軍Royal Air Forceでは「バッファローBuffalo」の名で呼ばれた。
アメリカ軍US Armed Forcesではあまり目立った戦闘battleはしていないが、輸出先のフィンランド空軍Finnish Air Forceでソ連Soviet Unionとの戦闘battleにおいて活躍した。
F2AバッファローBrewster F2A Buffaloは1942年(昭和17年)5~6月に行われたミッドウェー海戦Battle of Midwayにも引き続き守備航空隊Defensive Air Corpsとして参加し、6月5日早朝、日本海軍Imperial Japanese Navy機動部隊mobile troopsから発艦taking off from a warshipした第1次攻撃隊をF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatと共に攻撃attackした。
奇襲攻撃Surprise attackには成功し、艦爆隊(九九式艦上爆撃機Type 99 Carrier
Bomber隊corps)に損害damageを与えたものの、護衛escortの艦戦隊(零戦Zero fighter隊corps)との空戦Aerial warfareでは運動性に劣るInferior in motilityことと、機銃が故障Machine gun stoppageする機が相次いだことなどから、大きな損害Great damageを出した。
日本軍Imperial Japanese Forces戦闘機Fighter aircraftにより大損害Great damageを被ったF2AバッファローBrewster F2A
Buffaloには、操縦士Pilots達により空飛ぶ棺桶flying coffinという蔑称disparaging nameを与えられることになった。
F2AバッファローBrewster F2A Buffaloはアメリカ軍US Armed Forcesからは第一線を退くRetreat from the front lineことになる。
グラマンF4Fワイルドキャット
Grumman F4F Wildcat
アメリカ海軍US Navy
運用開始Introduction 1940年(昭和15年)12月
艦上戦闘機Carrier-based
Fighter
最高速度 512km/h
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatは、アメリカ合衆国USAのグラマン社Grumman Aerospace
Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦World
War II中に使用された艦上戦闘機Carrier-based Fighterである。
山猫 Wildcat
愛称Nicknameの「ワイルドキャットWildcat」は山猫・野良猫の意味であるが、スラングslangでは意地悪女という意味も持つ。
グラマン社GrummanではF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcat以降、艦上戦闘機Carrier-based Fighterに『○○キャットcat』という愛称Nicknameを採用している。
グラマン社Grummanだけではなくゼネラルモーターズ社General
Motors Companyでも「FMワイルドキャットFM Wildcat」として製造Manufacturingされた。
生産機数自体はゼネラルモーターズ社General Motors製の機体airframeの方が多い。
また、英海軍Royal Navy航空隊Air unitでも「マートレットMartlet(イワツバメの意)」として運用された。
操縦経験のあるエリック・ブラウンEric Brownは、第二次世界大戦World War II初期に使用された戦闘機Fighter aircraftとしては最優秀の一つと評価している。
アメリカ海軍US Navyは1936年(昭和11年)の新型New model艦上戦闘機Carrier-based
Fighterの開発Developmentを、ブルースター社Brewster、セバスキー社Severskyとともにグラマン社Grummanにも競争試作Prototypeを指示した。
本機の最初の設計案は複葉機Biplane(XF4F-1)であったが、それでは他の案に劣っていたことから単葉機Monoplane(XF4F-2)として再設計され選定試験に応じた。
結果採用されたのはブルースター社Brewsterの提案したF2AバッファローBrewster F2A
Buffaloであり、F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatは落選した。
しかしアメリカ海軍US NavyはF4FワイルドキャットGrumman
F4F Wildcatにも興味を持ち、開発Developmentを続行させた。
第二次世界大戦World War IIの開戦opening of war時アメリカ海軍US Navyの主力艦上戦闘機Main Carrier-based
Fighterとして日本海軍Imperial Japanese Navyの零戦Zero fighterと戦った。
防御力Defense powerよりも運動性能kinematical performanceを重視した零戦Zero fighterとは対照的に、「グラマン鉄工所Grumman Ironworks」と呼ばれる強固な構造と生産性を重視Emphasis on strong structure and
productivityしたグラマン社Grummanの設計思想Design conceptを体現した機体airframeであり、後継機SuccessorのF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatが配備される第二次世界大戦World War II中盤まで主力艦上戦闘機Main Carrier-based
Fighterとして使用された。
太平洋戦争Pacific War初期において、珊瑚海海戦Battle of the Coral
Sea、ミッドウェー海戦Battle of Midwayなどに参加した。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborで、日本軍機動部隊Imperial Japanese Mobile Unit/Force発見のために空母エンタープライズAircraft carrier Enterpriseより発艦したF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatが燃料補給fuel supplyのためにフォード基地Ford Baseに着陸しようとしたところ、日本軍機Imperial Japanese Military aircraftと誤認Misidentifiedした兵士らから集中砲撃を浴びてBeing bombarded by soldiers四機が撃墜されFour planes were shot down三名のパイロットが戦死しているThree
pilots are killed in action。
グラマンF6Fヘルキャット
Grumman
F6F Hellcat
アメリカ海軍US Navy 運用開始Introduction 1943年(昭和18年)
艦上戦闘機Carrier-based Fighter 579km/h
F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatは、アメリカ合衆国USAのグラマン社Grumman Aerospace Corporationが開発Developmentしアメリカ海軍US Navyが第二次世界大戦World War II中盤以降に使用した艦上戦闘機Carrier-based Fighterである。
愛称Nicknameの「ヘルキャットHellcat」は、直訳すれば「地獄の猫」であるが、スラングslangでは「性悪女」や「意地の悪い女」の意味も持つ。
アメリカ海軍US Navyの本命the favoriteは1940年(昭和15年)に初飛行First flightしたF4UコルセアVought F4U Corsairであったが、実際には開発時期Development timeが遅いこちらが艦上戦闘機Carrier-based
Fighterの主力Main forceとなった。
グラマン社Grummanによりアメリカ海軍US Navyの主力艦上戦闘機Main Carrier-based FighterとなったF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatの後継機Successorとして開発Developmentされた。
開発Developmentは1938年(昭和13年)3月から開始startされた。
F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatは新規設計された機体であるが実験的な機構や特殊な構造は採用されず、「グラマン鉄工所Grumman Ironworks」と呼ばれる強固な構造と生産性を重視Emphasis
on strong structure and productivityしたグラマン社Grummanの設計思想Design conceptを体現したF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatの長所meritを強化しつつ、運用中に発覚した問題や不満点を解消することに注力し手堅く纏められている。
同じエンジンを採用しつつ工夫を凝らした設計により高性能を示しながら、初期には種々の問題を抱えたことで陸上運用に回され「航空母艦Aircraft Carrierに搭載されるための機体設計をしなかった欠陥機Defective aircraft」とまで称されたF4UコルセアVought F4U Corsairと異なり、早期に艦上戦闘機Carrier-based Fighterとして実戦化された。
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatが操縦士Pilotから頑丈さsturdinessを評価されたことを確認し、F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatも生産性と構造の強さを両立した骨張った形状bony shapeとなった。
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatと同じく後方にスライドして開くレイザーバック型のキャノピーRazorback canopyを装備したため後方視界rearward visibilityは決して良好ではなかったが、広い操縦席Cockpitが優れた前方視界Forward visibilityを操縦士Pilotに提供した。
主翼の折り畳み機構Folding wingはF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatでは改良型のF4F-4からであったが、F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatでは最初から採用された。
F4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatでは主脚Main landing gearを胴体Fuselageに収容するためあえて胴体Fuselageを太くしていたが、主脚Main landing gearを主翼Main wingに収納するF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatにおいても踏襲されている。
しかしF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatと違って主翼Main wingの位置が中翼Mid-wing配置ではなく低翼Low-wing配置になり、脚部の構造にも影響した。
向上したエンジン出力Engine outputによる余裕を防弾装備Bulletproofingに回すことで、防弾フロントガラスBulletproof windshieldの他、総重量96kgに及ぶ防弾装甲Bulletproof armorが計器板の前方と操縦席背面に取り付けられた。
武装Armamentは12.7mm×6と当時としては標準的な火力Firepowerであったが、総合的見れば比較的軽装甲の日本軍機Imperial Japanese Military aircraftを相手にするには十分であった。
F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatは一般的に零戦Zero fighterに対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、開発時期からいっても、新鋭機advanced aircraft F4UコルセアVought F4U Corsairの“保険”としての制式採用経過からも新技術を採用しない保守的・堅実な設計Conservative and solid designだった事から、実際はF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatの発展強化型Development-enhanced
typeのような存在である。
格闘戦Dogfightを得意とし積極的に巻き込もうとする日本Imperial Japanの戦闘機Fighter aircraftを撃破するには最適の機体であり、一撃離脱戦法Hit-and-run tacticsを中心に戦うため格闘戦Dogfightになれば優位に立てるP-38 ライトニングLockheed P-38
LightningやF4UコルセアVought F4U Corsair、P-47サンダーボルトRepublic P-47 Thunderboltなどに比べ、横転が素早くある程度格闘戦DogfightもこなしてみせたF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatを「もっとも嫌な相手」に挙げる日本軍搭乗員Imperial Japanese crewは多い。
折畳み式の主翼Folding wingを備え一隻の航空母艦Aircraft Carrierに多数が搭載可能であったこともあって太平洋戦争Pacific War中盤以降、機動部隊Mobile Unit/Forceの主力戦闘機Main Fighter aircraftとして活躍し、日本Imperial Japanの航空兵力Military air power殲滅Annihilationに最も貢献した戦闘機Fighterとなった。
弱点は2,000馬力級の戦闘機Fighter aircraftとしては低速だった事であるが、それでも零戦Zero fighterや一式戦闘機「隼」Type 1 Fighter Hayabusaなど、日本Imperial Japanの1,000馬力級戦闘機Fighter aircraftより明らかに優速であり、必要にして十分であった。
米軍US Armed Forcesの公式記録によれば、太平洋戦争Pacific WarにおけるF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatと日本軍機Imperial Japanese Military aircraft(零戦Zero fighter並びにその後継機Successor中心)の撃墜対被撃墜比率(げきつい・たい・ひげきつい・ひりつ)Kill Ratioは19:1とされており、圧倒的な戦績Overwhelming battle recordを残している。
海軍部隊Naval forcesが空中戦Aerial warfareで撃墜shot downした6,477機の敵機Enemy aircraftのうち、4,947機はF6Fヘルキャットによって撃墜shot downされたものである。
海兵隊Marine Corpsが運用した陸上基地Land baseのF6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatを加えると、この数は5,156機に達する。
ヴォートF4Uコルセア
Chance Vought
F4U Corsair
アメリカ海軍US Navy 運用開始Introduction 1942年(昭和17年)
艦上戦闘機Carrier-based Fighter 最高速度Top speed 671km/h
F4UコルセアChance Vought F4U Corsairは、アメリカUSAのチャンス・ヴォート社Chance Vought Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦World War IIと朝鮮戦争Korean Warでアメリカ海軍US Navyと海兵隊Marine Corpsが運用したレシプロReciprocating engine単発Single-engine単座Single-Seat戦闘機Fighter aircraft。
愛称Nicknameの「コルセアCorsair(コーセア)」は、バルバリア海賊Barbary corsairsの意。
バルバリア海賊 Barbary corsairs
本機this planeはF2AバッファローBrewster F2A
Buffalo艦上戦闘機Carrier-based Fighterなどの後継Successorとして、チャンス・ヴォート社Chance Vought Corporationにより1938年(昭和13年)2月に開発Developmentが始まった。
太平洋戦争Pacific Warの前半に日本海軍Imperial Japanese Navyの零戦Zero fighterによって大きな打撃を受けたアメリカ軍US Armed Forcesは、太平洋戦争Pacific War中期に入ると圧倒的なパワーと重装備Heavy Armamentで零戦Zero fighterを凌駕する新鋭戦闘機new fightersを次々と前線に送り込んだ。
その中の一つがアメリカ海軍US NavyのコルセアCorsairである。
コルセアCorsairは高速high speedの艦上戦闘機Carrier-based Fighterとして開発Developmentされ、2000馬力2000hp級の大出力エンジンengine、そのパワーを最大限に発揮する直径約4mという巨大なプロペラlargest propeller、そして独特な逆ガル翼Inverted gull wingを備えていた。
1940年(昭和15年)夏には原型機Prototypeが644km/hの速度記録を樹立、そして1942年(昭和17年)6月には最初の量産型production models F4U-1が初飛行maiden flightし、高い戦闘能力を備えた主力艦載機Main Carrier-based Fighterとして大きな期待が寄せられた。
しかし、前方視界の不足restricted forward
field of viewや着艦姿勢での低速飛行時during low speed
landingsに左翼が失速しやすいstall left wing
firstなどの欠点から空母Aircraft Carrierへの搭載は見送られ、陸上landを基地baseとする海兵隊Marine Corpsの主力機Main Fighterとして実力を発揮することとなったのである。
このF4U-1に続いて1943年(昭和18年)夏に登場したのが、視界改善のために約18cm高くした操縦席Cockpit、16.5cm延長した尾輪支柱extended rear wheel landing gear shaft、窓枠を2本減らしたキャノピーslightly modified
glazed canopy、そして失速を防ぐ右翼前縁right leading edge
of the wingのスポイラーの装備など様々な改良が加えられたF4U-1Aである。
しかし主力艦載機Main Carrier-based FighterとしてグラマンF6FヘルキャットThe Grumman F6F Hellcatの配備が広く進められていたこともあり、F4U-1同様F4U-1Aも太平洋の島々South Pacificを基地とする海兵隊US Marine squadronsや海軍飛行隊Navy Air unitに配備された。
海兵隊U.S. MarinesのボイントンBoyington少佐MajorやハンソンHanson中尉2nd Lieutenant、海軍Navyのケプフォード大尉Lt. Kepfordなど多くのエースace-pilotsがソロモン諸島の戦いBattle of the Solomon IslandsでF4U-1Aに搭乗、零戦Zero fighterと激しい空戦fierce air-combatsを繰り広げ、高速力tremendous top
speedと12.7mm機銃6門six 12.7mm heavy
machine gunsという重装備Heavy Armamentを活かして次第に日本軍Imperial Japanese Forcesを圧倒overpoweringしていった。
ダグラスTBDデヴァステイター
Douglas
TBD Devastator
TBDデヴァステイターDouglas TBD Devastatorは、アメリカ海軍US Navyが太平洋戦争Pacific War前期First halfに使用した主力Main雷撃機Torpedo bomber(艦上攻撃機Carrier Attack Aircraft)である。
本機this planeはアメリカUSA初firstの艦載Carrier-borne単葉Monoplane金属機All-metalでもある。
愛称NicknameはデヴァステイターDevastator。
「荒廃させるもの、破壊者」の意meaningである。
1937年(昭和12年)に就役commissionを開始。
1942年(昭和17年)6月7日、ミッドウェー海戦Battle of Midwayに参加。
ダグラスSBDドーントレス
Douglas
SBD Dauntless
アメリカ海軍US Navy
運用開始Introduction 1940年(昭和15年)
単座Single-Seat艦上偵察急降下爆撃機Carrier Scout and Dive bomber
最高速度Top speed 410km/h
SBDドーントレスDouglas SBD Dauntlessは、ダグラス社Douglas Aircraft Companyが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II期にアメリカ海軍US Navyで運用Operationされた偵察爆撃機Reconnaissance Bomber。
海軍型Navy modelの愛称Nicknameの「ドーントレスdauntless」とは、「恐れを知らない、勇敢な、不敵な、がまん強い、不撓不屈の」などを意味する形容詞である。
1941年(昭和16年)12月に開始した太平洋戦争Pacific Warで、最初にSBDドーントレスを使用したのは、アメリカ陸軍US Armyであった。
SBDドーントレスの空母Aircraft carrier用装備を取り外したA-24バンシーDouglas A-24
BansheeがフィリピンPhilippines・オーストラリアAustralia・ニューギニアNew Guineaの航空基地Air baseに配備され、南進Southern Expansionする日本軍Imperial Japanese Forcesと戦闘を繰り広げた。
珊瑚海海戦 Battle of the Coral Sea
1942年(昭和17年)5月、珊瑚海海戦Battle of the Coral
Seaでアメリカ海軍US Navyは初めてSBDドーントレスDouglas SBD
Dauntlessを使用した。
SBD-3は、共同で運用された雷撃機Torpedo bomber TBDデヴァステイターDouglas TBD
Devastatorの性能が貧弱Poor performanceで、日本艦隊Imperial Japanese Fleetに有効な打撃を与えられない中、空母祥鳳Aircraft carrier Shohoを撃沈attack and sinkし、空母翔鶴Aircraft carrier Shokakuを中破half damageさせた。
ミッドウェー海戦 Battle of Midway
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦Battle of Midwayにおいては、TBDデヴァステイター、およびこれが初陣first battleとなる新型New model雷撃機Torpedo bomber TBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerが戦果を挙げられずに日本機動部隊Imperial Japanese Mobile Unit/Forceの直掩戦闘機Direct cover Fighter aircraftに低空で撃墜shot downされ、全滅に近い損害を受ける中、クラレンス・マクラスキーClarence McCluskyおよびマックス・レズリーの率いる本機SBDドーントレスDouglas SBD Dauntlessで構成された部隊が、高空から防空の隙を突いて同ミッドウェー海戦Battle of Midwayに参加した日本機動部隊Imperial Japanese Mobile Unit/Forceの4空母Aircraft Carrierのうち空母赤城(あかぎ)Aircraft carrier Akagi、空母加賀(かが)Aircraft carrier Kaga、空母蒼龍(そうりゅう)Aircraft carrier Soryuの3隻を同時に攻撃して撃沈attack and sinkし、残った空母飛龍(ひりゅう)Aircraft carrier
Hiryuも別に出撃した本機SBDドーントレスDouglas SBD
Dauntlessの部隊が撃沈attack and sinkして日本機動部隊Imperial Japanese Mobile Unit/Force主力Main forceの撃滅Destroyに貢献した。
ミッドウェー海戦 Battle of Midway
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島Guadalcanalのアメリカ軍US Armed Forces上陸部隊Landing forceへの攻撃に向かった台南海軍航空隊Tainan Air Groupの零戦Zero fighterと第四航空隊の一式陸上攻撃機Type 1 Land-based Attack Aircraftをアメリカ海軍US Navyの艦載機Carrier-borne aircraft が迎撃した。
SBDドーントレスDouglas SBD Dauntlessもこの戦闘に参加しており、後方旋回機銃で、SBDドーントレスをF4FワイルドキャットGrumman F4F Wildcatと誤認して後方に回った坂井三郎(さかい・さぶろう)の零戦Zero fighterを撃破している。
1942年(昭和17年)8月24日、第二次ソロモン海戦Second Battle of the Solomon Seaでは、日本Imperial Japaneseの空母龍驤Aircraft carrier
Ryujoを撃沈attack and sinkする戦果を挙げた。
空母エンタープライズAircraft carrier Enterpriseの索敵機Spotter aircraftとして日本Imperial Japaneseの機動部隊Mobile Unit/Forceを発見した。
そのまま空母翔鶴Aircraft carrier Shokakuに対して急降下爆撃Dive bombingを行うが、命中しなかった。
1942年(昭和17年)10月、南太平洋海戦Battle of the South
Pacificでは索敵機Spotter aircraftとして日本Imperial Japanより先に敵Enemy機動部隊Mobile Unit/Forceを発見する。
そのまま急降下爆撃Dive bombingを行い、空母瑞鳳Aircraft carrier Zuihoの甲板に命中し戦線離脱させた
その後、攻撃隊として空母翔鶴Aircraft carrier Shokakuと重巡筑摩(ちくま)Heavy Cruiser Chikumaを大破させた。
カーチスSB2C ヘルダイヴァー
Curtiss SB2C Helldiver
SB2C ヘルダイヴァーCurtiss SB2C
Helldiverは、カーチス・ライト社Curtiss-Wright Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦期後半Second
half of World War IIにアメリカ海軍US Navyで運用Operationされた偵察爆撃機Reconnaissance
Bomber。
ダグラス社Douglas Aircraft Companyが製造ManufacturingしたSBDドーントレスDouglas SBD Dauntless偵察爆撃機Reconnaissance Bomberの後継機Successorとして開発Developmentされた。
1943年(昭和18年)11月11日に運用開始Introduction。
愛称NicknameのヘルダイヴァーHelldiverは、英語圏English-speaking
worldにおける帯嘴鳰(オビハシカイツブリ)Pied-billed grebeの別名alias。
ヴォートSB2Uヴィンディケイター
Vought
SB2U Vindicator
SB2UヴィンディケイターChance Vought SB2U Vindicatorはヴォート社Vought Aircraft Industriesが開発Developmentした艦上爆撃機Carrier-borne bomberである。
アメリカUSAでの愛称Nicknameの「ヴィンディケイターVindicator」は、擁護者の意である。
また、イギリスBritish Empireでの愛称Nicknameの「チェサピークChesapeake」は、ヴァージニア州Commonwealth of Virginiaの原住民Aboriginalのこと。
1937年(昭和12年)12月より運用開始Introductionされ、ダグラス社Douglas Aircraft
Company製SBDドーントレスDouglas SBD
Dauntlessが配備deploymentされるまでの主力艦上爆撃機Main
Carrier-borne Bomberとして使用された。
1942年(昭和17年)6月7日、ミッドウェー海戦Battle of Midwayに参加。
グラマンTBFアヴェンジャー
Grumman
TBF Avenger
アメリカ海軍US Navy
運用開始Introduction 1942年(昭和17年)
三座Three-Seat雷撃機Torpedo bomber
最高速度Top speed 414km/h
乗員Crew 3名Three crew
操縦士pilot 無線士radioman 砲塔射撃手turret gunner
TBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerは、アメリカ合衆国USAのグラマン社Grumman Aerospace Corporationが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II中にアメリカ海軍US Navyなどで運用Operationされた主力雷撃機Main Torpedo bomber。
愛称Nicknameの「アヴェンジャーAvenger」は、「復讐者、報復者」の意。
アメリカ海軍US Navyとアメリカ海兵隊US Marine Corpsで運用Operationが開始され、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦Battle of Midwayを初陣first battleにイギリス海軍Royal Navyなど他国でも運用Operationされた雷撃機Torpedo bomber。
日本海軍Imperial Japanese Navyで言う艦上攻撃機Carrier Attack Aircraftにあたる(ただし、日本での「艦攻」は流星Carrier Attack Aircraft Ryuseiを除き急降下爆撃Dive bombingができないが、TBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerには急降下爆撃Dive bombing可能な種類もあった)。
生産productionの途中からTBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerはグラマン社Grummanに代わってジェネラル・モーターズ社General Motors Companyが量産Mass productionするようになり、ジェネラル・モーターズ社General Motorsで生産productionされた機体airframeはTBMの制式番号が付けられ、TBMアヴェンジャーの呼称で呼ばれた。
TBFアヴェンジャーGrumman TBF Avengerは雷撃機Torpedo bomberとして当時の世界水準を越えたBeyond the world standard at that time高性能High performanceを持ち、日本海軍Imperial Japanese
Navyの零式艦上戦闘機Type 0 carrier fighterによって太平洋戦争Pacific War初期に大損害Great damageを出したTBDデヴァステイターDouglas TBD
Devastatorの後継機Successorとして運用Operationされた。
零戦Zero fighterがアメリカ海軍US Navyの新鋭戦闘機Newer Fighter aircraft F6FヘルキャットGrumman F6F Hellcatによって劣勢に追い込まれたDriven into
inferiority 1943年(昭和18年)以降活躍し、戦艦「大和」Battleship Yamato、戦艦「武蔵」Battleship Musashiや空母「瑞鶴」Aircraft carrier
Zuikakuを撃沈attack and sinkするなど、日本艦隊Imperial Japanese Fleetに甚大な損害を与えたCaused enormous damage。
リパブリックP-47サンダーボルト
Republic
P-47 Thunderbolt
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
運用開始Introduction 1943年(昭和18年)
戦闘爆撃機Fighter-bomber 最高速度Top speed 735km/h
P-47サンダーボルトRepublic P-47 Thunderboltは、アメリカUSAのリパブリック社Republic Aviation Companyが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesなどで運用OperationされたレシプロReciprocating単発Single-engine戦闘機Fighter aircraft。
愛称Nicknameの「サンダーボルトThunderbolt」は、雷(いかづち・かみなり)(特に聴覚的な感覚の面でのかみなり)のこと。
第二次世界大戦末期End of World War IIに、P-51マスタングNorth American P-51
Mustangと並んでアメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesおよびその後身のアメリカ空軍US Air Forceの主力戦闘機Main Fighter aircraftとして活躍した。
ジャグJug(取っ手付きの水差し)の愛称Nicknameでも知られた。
戦闘機Fighter aircraftとしての空戦能力Air combat abilityも優れていたが、その圧倒的な馬力Horsepowerと兵装搭載量Load of weaponsによって特に戦闘爆撃機Fighter-bomberとして大いに活躍し、アメリカUSA以外の連合国United Nationsの空軍Air Forceでも使用された。
1941年(昭和16年)5月、アメリカUSAでは自重4トン以上という巨大な単発機Single-engine aircraftが初飛行maiden flightに成功した。
後に15,683機という総生産数を記録し、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Forcesを代表する重量級戦闘機Heavy Fighter
aircraftとなったリパブリックP-47サンダーボルトThe Republic P-47 Thunderboltの原型機Prototype、XP-47Bである。
その設計思想は、2,000馬力Horsepower級のP&W R-2800星型空冷エンジンPratt & Whitney R-2800 Double Waspと排気タービン過給器Turbochargerを組み合わせて高速力high speedと高高度high-altitude性能を追及し、さらに12.7mm機銃8挺を備えるという革新的なものであった。
XP-47Bは期待通り633km/hという高速力high speedを発揮。
1942年(昭和17年)1月に完成した初の量産型P-47BやP-47Cを経て、主要量産型となったP-47Dの生産が1943年(昭和18年)4月に開始された。
P-47Dは基本的にR-2800-59エンジンを搭載し、戦闘緊急出力は2300馬力Horsepower。
英国British Empireに基地を置く第8空軍各部隊に配備されたP-47Dは、ドイツ本土German mainland爆撃Airstrikeに向かう爆撃機Bomberの長距離護衛long-range escortに出撃。
そして1944年(昭和19年)に入り、さらに優れた航続性能と運動性能を備える新鋭戦闘機Newer Fighter aircraftノースアメリカンP-51マスタングNorth American P-51 Mustangが登場すると、P-47Dは制空任務をP-51マスタングP-51 Mustangに譲り、頑丈な構造と被弾に強い空冷エンジンAir-cooled Aircraft engine、そして1トン以上という搭載能力を活かして地上攻撃ground attack任務に活躍の場を移したのである。
このP-47DはD-1から最終型のD-40まで、機体各部に改良を加えながら多くのサブタイプが生産された。
特に外観上で大きな変化を見せたのが、1944年(昭和19年)6月頃から部隊配備されたD-25である。
D-25はそれまでのファストバック型キャノピーFastback canopyに代えて視界の広いgood visibility電動開閉式のバブル型キャノピーBubble canopyを備え、燃料タンク容量も増加されるなど胴体後部に大幅な設計変更が加えられた。
バブル型キャノピーBubble canopyはD-25以降の各タイプに装備され、後期に生産されたP-47の大きな特徴となった。
P-47Dサンダーボルト“バブルトップ”Republic P-47D Thunderbolt “Bubbletop”は、バランスの取れた戦闘爆撃機Fighter-bomberとして実力を示し、サンダーボルトThunderboltの評価を決定づけたのである。
ノースアメリカンP-51マスタング
North
American P-51 Mustang
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
運用開始Introduction 1942年(昭和17年)
液冷戦闘機Liquid-cooled Fighter aircraft
最高速度Top speed 759km/h
P-51マスタングNorth American P-51 Mustangは、アメリカ合衆国USAのノースアメリカン社North American Aviationが開発Developmentしアメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesなどで運用OperationされたレシプロReciprocating単発Single-engine単座Single-Seat戦闘機Fighter aircraftである。
P-51マスタング North American P-51 Mustang D氏作製・提供
第二次世界大戦World War IIでは同世代機Same generation aircraftを圧倒Overwhelmする速力speedに加え、充分な運動性Motilityと積載量Load capacityを有しつつ戦闘機Fighter aircraftとしては長い航続距離long-rangeや安定した高高度性能high-altitude performanceにより、爆撃機Bomberの護衛escortや対地攻撃Ground attackで活躍した。
アメリカ海軍US Navyが採用したF8FベアキャットGrumman F8F Bearcat戦闘機Fighter aircraftと並び、最強のstrongestレシプロ戦闘機Reciprocating
engine Fighter・第二次世界大戦World War II中の最優秀戦闘機Best fighter aircraftと評されるevaluated。
愛称Nicknameの「マスタングMustang」とは、スペイン人Spanishによって北アメリカ大陸North American Continentに持ち込まれ野生化した小型の馬A small horse that has become wildのことである。
日本語ではムスタングと表記する場合もあるが、本項ではより発音の近いマスタングに統一する。
第二次世界大戦の半ばMid-World War IIに、それまで主力戦闘機Main Fighter aircraftだったカーチスP-40ウォーホークCurtiss P-40 Warhawkの後継機Successorとして導入Introductionが進んだ。
実戦Actual battleでは航続力long-rangeと高高度性能high-altitude performanceを生かし爆撃機Bomberの護衛戦闘機Escort fighterの主力Main Fighter aircraftとして活躍した。
アメリカ軍US Armed Forcesは日本本土空襲Air raids on JapanにおいてB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressの護衛戦闘機Escort fighterとしていたが、第二次世界大戦末期End of World War IIに組織的な迎撃Interceptionが不可能になったと判断し任務を対地攻撃Ground attackに切り替え、爆撃機Bomberから離れ低高度まで侵入する許可を出した。
マーティンB-10 Martin B-10
マーティンB-10 Martin B-10は、アメリカUSAのマーティン社Martin Companyが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsなどで運用Operationされた爆撃機Bomber。
アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsが採用した初firstの全金属製all-metal単葉monoplane爆撃機bomberである。
1934年(昭和9年)6月に就役entering service。
また、当時のof the time陸軍の追撃機Army's pursuit aircraftよりも性能performanceが優れていた最初の量産爆撃機first mass-produced bomberでもあった。
It was also the first mass-produced
bomber whose performance was superior to that of the Army's pursuit aircraft of
the time.
ダグラスB-18ボロ Douglas B-18 Bolo
ダグラスB-18ボロDouglas B-18 Boloは、ダグラス社Douglas Aircraft
Companyが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsで運用Operationされた爆撃機Bomber。
1936年(昭和11年)に就役entering service。
愛称Nicknameの「ボロBolo」は、山刀(やまがたな)の意meaning。
第二次世界大戦World War IIが始まる頃には、とても実戦に投入Put into actual
battleできる性能performanceではなくなり、日本軍Imperial Japanese Armed Forcesによる真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborをはじめ、太平洋戦争Pacific Warの緒戦The beginning of
the warでは地上で多数が撃破されたMany were destroyed on the ground。
B-17フライング・フォートレス
Boeing B-17 Flying Fortress
アメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forces
運用開始Introduction 1938年(昭和13年)
空冷Air-cooled四発Four-engine大型戦略爆撃機Heavy Strategic
Bomber
最高速度Top speed 426 km/h
乗員Crew 10名
操縦士Pilot
副操縦士co-pilot
航法士navigator
爆撃手bombardier兼機首銃手nose gunner
機関士flight engineer兼上部砲塔銃手top
turret gunner
無線士radio operator
側面銃手waist gunners(2)
回転銃座銃手ball turret gunner
尾部銃手tail gunner
B-17フライング・フォートレスBoeing B-17 Flying
Fortressは、アメリカ合衆国USAのボーイング社Boeing Companyが開発Developmentした大型戦略爆撃機Heavy Strategic Bomber。
愛称Nicknameの「フライング・フォートレスFlying
Fortress」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。
第二次世界大戦World War II開戦opening of war後、アメリカ陸軍US Armyの主力爆撃機Main Bomberとして活躍し、主にイギリスBritish Empireを基地とした対ドイツNazi Germanyへの昼間爆撃Daytime Airstrikeに従事した。
護衛戦闘機Escort fighterの航続距離Cruising rangeが充分でなかった1943年(昭和18年)頃まではドイツNazi Germanyの迎撃戦闘機Interceptor
aircraftフォッケウルフ Fw190 Focke-Wulf Fw 190などにより多数の損害が出ていた。
おもに都市への夜間爆撃Night Airstrikeを担当したイギリス空軍Royal Air Forceのアブロ・ランカスターAvro Lancaster爆撃機Bomber以上に、ドイツNazi Germanyの継戦能力を削ぐ立役者となった。
1941年(昭和16年)12月8日に日本海軍Imperial Japanese Navyによって行われた真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborにおいては、ヒッカム飛行場Hickam FieldにおかれていたB-17フライング・フォートレスB-17 Flying Fortress機が日本軍Imperial Japanese Forcesの攻撃隊Attack corpsにより地上撃破Defeat the groundされた。
1942年(昭和17年)2月19日には蘭印作戦Dutch East Indies campaignにおいて、一式戦闘機「隼」Type 1
Fighter Hayabusaは、B-17Eとバタビア沖海戦Battle
of Sunda Straitにて交戦した。
1942年(昭和17年)5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いAleutian
Islands campaignでは、B-17フライング・フォートレスB-17 Flying
Fortressが、アリューシャン列島Aleutian Islandsのアッツ島Attu Islandやキスカ島Kiskaに上陸した日本軍Imperial Japanese Forcesや、それを援護する日本軍Imperial Japanese Forcesの艦船に対する空襲Airstrikeを数度に渡り行っている。
また、南東方面ではポートモレスビーPort Moresbyを主たる基地として出撃し、ラバウルRabaulやブインBuin等の日本軍Imperial Japanese Forces根拠地に対する爆撃Airstrikeのほか、オーストラリアAustralia国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。
ガダルカナル島攻防戦Battle
of Guadalcanalにおいて、零戦Zero fighterと交戦した。
航続距離Cruising rangeに優れるB-24リベレーターConsolidated B-24 Liberatorが揃ってくると、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、航続距離Cruising rangeに難のあるB-17は姿を消した。
B-17はB-29スーパーフォートレスBoeing B-29 SuperfortressやB-24リベレーターによる日本本土空襲Air Raid of
Japanese mainlandの支援を行った。
コンソリデーテッドB-24リベレーター
Consolidated B-24 Liberator
アメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forces
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
空冷Air-cooled四発Four-engine大型爆撃機Heavy Bomber
最高速度Top speed 488 km/h
乗員Crew 11名 操縦士Pilot 副操縦士co-pilot 航法士navigator
爆撃手bombardier 無線士radio operator
機首砲塔銃手nose turret gunner 側面銃手waist gunners(2)
回転銃座銃手ball turret gunner 尾部銃手tail gunner
B-24リベレーターConsolidated B-24
Liberatorは、アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesの大型爆撃機Heavy bomber。
開発Developmentはコンソリデーテッド・エアクラフト社Consolidated
Aircraft Corporation。
愛称Nicknameの「リベレーターLiberator」は、解放者の意。
アメリカ海軍US NavyにもPB4Y-1リベレーターConsolidated PB4Y-1 Liberatorとして制式採用され、対潜哨戒機Maritime patrol
aircraftとして運用された。
形状の特徴としては、飛行艇Flying boatを主に開発Developmentしていたコンソリデーテッド社らしく、高翼High-wingと上下に高い胴体(幅は比較的薄い)を持っている。
当時、アメリカ陸軍US Armyの主力重爆撃機Main Heavy bomberとなりつつあったB-17フライング・フォートレスBoeing
B-17 Flying Fortress重爆撃機Heavy bomberは、並外れた堅牢性で高い評価を受けてはいたが、航続距離Cruising rangeの短さが難点であった。
これはイギリスBritish Empireを拠点とするドイツNazi Germanyへの爆撃Airstrikeでも余裕は少なく、太平洋Pacific Ocean上での作戦Operationや、以後想定される日本本土Japanese mainlandへの爆撃Airstrikeには大きな制約となるものであった。
B-17と比べて設計年度が新しい事により、最大速度Top speed、航続距離Cruising range、太い胴体断面を生かした爆弾搭載量など、全ての数値で上回っていた。
武装や製造した会社でE型、G型、H型、J型に分かれる。
G型の途中から、機首に回転銃座ball turretが取り付けられた。
B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊US Army
Air Forces向けとしては最多の18,431機(諸説あり)が終戦直前まで生産され、これにアメリカ海軍US Navy向けの1,000機近くが加わる。
B-29スーパーフォートレスBoeing B-29 Superfortressの生産機数は約4,000機、B-17は約13,000機であり、B-24は第二次世界大戦World War II中に生産された米軍機US Military aircraftの中で最多となる。
B-24の欠点としては、銃弾を機体に受けると安定性に難が有る、飛行高度がB-17より低いなどの弱点があった。
B-17であれば生還できた損傷でも機体を喪失した例も多く、これもあって、特に航続距離Cruising rangeが重視される太平洋戦線Pacific Ocean
theaterの場合と異なり、西部戦線Western Frontにおいては総合力生還率で勝るB-17を置き換えるには至らなかった。
悪評も多く、「乗員一掃機Crew sweeper」、「空飛ぶ棺桶Flying Coffin」、「未亡人製造機Widow Maker」などの悪意ある仇名がつけられた。
1942年(昭和17年)11月、太平洋戦線Pacific Ocean
theaterのオーストラリアAustraliaに配備され、それまで使われてきたB-17に代わり、主力重爆撃機Main Heavy bomberとして運用が始まる。
B-29が投入されるまで、太平洋戦線Pacific Ocean
theaterの主力重爆撃機Main Heavy bomberとして活躍した。
1943年(昭和18年)8月1日、アフリカ北部North AfricaのリビアLibyaからルーマニアRomaniaのプロイェシュティPloieștiにある石油産業Oil industryに対して爆撃Airstrikeを行う(タイダルウェーブ作戦Operation Tidal Wave)。
B-24の大きな航続力Cruising rangeはこの任務に適していた。
1944年(昭和19年)9月、ニューギニアNew
Guinea基地の第5軍所属のB-24によるボルネオBorneo・バリクパパンBalikpapan油田Oil fieldへの長距離攻撃をおこなっている。
また、比島作戦Battle of the Philippinesの援護にも参加し、1945年(昭和20年)4月からは、中国Chinaおよび日本本土Japanese mainlandまで作戦域を広げ、B-29とともに活動した。
ボーイングB-29スーパーフォートレス
Boeing B-29 Superfortress
アメリカ陸軍航空軍US Army
Air Forces
運用開始Introduction 1944年(昭和19年) 5月 8日
空冷Air-cooled四発Four-engine大型戦略爆撃機Heavy Strategic
Bomber
最高速度Top speed 576km/h
航続距離Cruising range 6,000km強
偵察機型は高度Altitude 10,000mを、爆弾を積んだ状態でも高度Altitude 9,000m以上を飛行できる高高度性能High altitude performance。
生産数Production numberは3,970機
Crew: 11 (Pilot, Co-pilot, Bombardier,
Flight Engineer, Navigator, Radio Operator, Radar Observer, Right Gunner, Left
Gunner, Central Fire Control, Tail Gunner)
ボーイングB-29スーパーフォートレスBoeing B-29
Superfortressは、アメリカ合衆国USAのボーイング社Boeing Companyが開発Developmentした大型戦略爆撃機Heavy Strategic Bomber。
愛称Nicknameの「スーパーフォートレスSuperfortress」は、「超空の要塞(ちょう・そらのようさい)」の意。
「B29」のBはbomber(爆撃機)の略。
1944年(昭和19年)の終わりごろからFrom the end of
1944マリアナ諸島Mariana Islandsに配備deploymentされ、日本本土Japanese mainlandへの攻撃attackを行った。
初期in the early stagesには軍需施設Munitions facilityへの爆撃Bombingを行っていたが、次第にgradually日本中の都市Cities all over Japanを無差別爆撃Indiscriminate bombingするようになり、日本の大都市の殆どが壊滅したMost of Japanese big cities have been destroyed。
また、空中投下機雷Airdrop minesによる関門海峡Kanmon Straitなどの主要な港湾や海峡Major ports and straitsへの海上封鎖Blockade at seaも行われた。
そして1945年(昭和20年)8月には原子爆弾atomic bombを実戦使用し、日本の敗北を決定付けたDecided
the defeat of Japan。
日本Imperial Japanの戦闘機Fighter aircraftは高高度性能High altitude performanceが低いながらも迎撃Interceptionを行い、それなりの成果を出していたが、硫黄島陥落fall of Iwo Jima後はP-51マスタング North American P-51
Mustangが随伴accompanyしたため迎撃Interceptionは殆ど不可能になってしまった。
ロッキード・ハドソン Lockheed Hudson
ロッキード・ハドソンLockheed
Hudsonは、第二次世界大戦World War II時にアメリカUSAのロッキード社Lockheed Corporationで製造Manufacturingされた軽爆撃機light bomberおよび沿岸偵察機coastal reconnaissance aircraftである。
ロッキード・ハドソンLockheed
Hudsonは戦争中、主に沿岸司令部Coastal Commandで従軍servedしたが、輸送transportや訓練trainingの役割roles、占領下のフランスoccupied Franceへのエージェントの派遣delivering agentsにも従軍した。
The Hudson served throughout the war, mainly
with Coastal Command but also in transport and training roles as well as
delivering agents into occupied France.
また、カナダ空軍Royal Canadian Air Force'sの対潜水艦戦隊anti-submarine
squadronsやオーストラリア空軍Royal Australian Air Forceでも広く使用された。
They were also used extensively with the
Royal Canadian Air Force's anti-submarine squadrons and by the Royal Australian
Air Force.
ロッキード・ベンチュラ Lockheed
Ventura
ロッキード・ベンチュラLockheed
Venturaは、第二次世界大戦World War II中にアメリカ合衆国USAのロッキード社Lockheed Corporationで製造Manufacturingされた双発中型爆撃機twin-engine medium bomberと哨戒爆撃機patrol bomberである。
ロッキード・ベンチュラLockheed
Venturaは、ロッキード・ハドソン爆撃機Lockheed Hudson bombersの代替機replacementとして、開発developedされた。
ロッキード・ベンチュラ Lockheed Ventura
ノースアメリカンB-25ミッチェル
North
American B-25 Mitchell
アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forces
アメリカ海軍US Navy
双発爆撃機Twin-engine Bomber
運用開始Introduction 1941年(昭和16年)
最高速度Top speed 438km/h
乗員Crew 5名
操縦士Pilot
航法士navigator兼爆撃手bombardier
回転銃座銃手ball turret gunner兼機関士flight engineer
無線士radio operator兼側面銃手waist gunner
尾部銃手tail gunner
B-25ミッチェルNorth American B-25 Mitchellは、アメリカ合衆国USAのノースアメリカン社North American Aviationが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空軍US Army Air Forcesやアメリカ海軍US Navyで運用Introductionされた爆撃機Bomber。
ドーリットル空襲 Doolittle Raid
第二次世界大戦World War IIにおいて各戦場で運用Introductionされた。
「ミッチェルMitchell」の愛称Nicknameはアメリカ陸軍US Armyの将校officerウィリアム・ミッチェルWilliam Mitchell准将Brigadier generalにちなむ。
1942年(昭和17年)4月18日に日本本土Japanese mainlandへの爆撃air raid(ドーリットル空襲Doolittle Raid)で使用された。
マーティンB-26マローダー
Martin
B-26 Marauder
B-26マローダーMartin B-26 Marauderは、マーティン社Glenn L. Martin Companyが開発Developmentし、第二次世界大戦World War II中にアメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsで運用Operationされた爆撃機Bomber。
1941年(昭和16年)に就役entering service。
米陸軍航空軍US Army Air Forcesにおける愛称Nicknameの「マローダーMarauder」とは、「略奪者」の意meaningである。
同時期At the same timeに開発DevelopmentされたB-25ミッチェルNorth American B-25
Mitchellより、高速性能High speed performanceなどで勝っていたが、操縦の難しさDifficulty of maneuveringから初期型Early typeでは事故が多発Frequent accidentsし、乗員Crewには「人殺しMurderer」「殺人機Killer Plane」「未亡人製造機Widow
Maker」と呼ばれて嫌われたcalled and hated。
その結果as a result、B-25ミッチェルNorth American B-25
Mitchellに比べて生産数Production numberや運用国の数Number of operating countriesで大きく差がつく結果Results
that make a big differenceとなった。
1942年(昭和17年)6月7日、ミッドウェー海戦Battle of Midwayに参加。
ダグラスA-20ハボック
Douglas A-20 Havoc
ダグラスA-20ハボックDouglas A-20 Havocは、アメリカ合衆国USAのダグラス・エアクラフト社Douglas
Aircraft Companyが開発Developmentした双発攻撃機Twin-engine attack aircraftである。
愛称Nicknameの「ハボックHavoc」は、破壊の意meaningである。
1941年(昭和16年)1月10日に就役entering service。
後継機SuccessorダグラスA-26インベーダーDouglas A-26
Invader開発Development後も使用が続けられ、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsが作戦展開した全戦線で活躍した。
ダグラスA-26インベーダー
Douglas A-26 Invader
A-26インベーダーDouglas A-26
Invaderは、アメリカ合衆国USAのダグラス社Douglas Aircraft Companyが開発Developmentし、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsや空軍US Air Forceで運用Operationされた双発攻撃機twin-engined ground attack aircraft。
1944年(昭和19年)に就役entering service。
愛称Nicknameの「インベーダーInvader」は、侵略者の意meaning。
ダグラスDC-3 Douglas DC-3
ダグラスDC-3 Douglas DC-3は、アメリカ合衆国USAの航空機メーカーaircraft makerであるダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Company(現ボーイング社The Boeing Company)が開発Developmentした双発のtwin-enginedプロペラ旅客機propeller-driven airlinerである。
1936年(昭和11年)運用開始Introduction。
アメリカ軍用輸送機US military transport
aircraftとしての制式名称C-47スカイトレインDouglas C-47
Skytrainでも知られる。
ダグラスC-47スカイトレイン
Douglas C-47 Skytrain
ダグラスC-47スカイトレインDouglas C-47
Skytrainは、ダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Companyが開発Developmentした輸送機transport aircraftである。
1941年(昭和16年)12月23日に就役entering service。
愛称NicknameはスカイトレインSkytrain(空の列車)。
ダグラスDC-3 Douglas DC-3の軍用輸送機military transport aircraft型であり、第二次世界大戦World
War IIで傑出した働きをみせた。
ノルマンディー上陸作戦Normandy
landingsなどの大規模な空挺作戦airborne operationにおいて空挺部隊輸送Paratrooper transportの中核を担った他、物資輸送Goods transportationに多用され、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsの他にもアメリカ海軍US Navy、イギリス空軍Royal Air Forceなどが使用した。
1942年(昭和17年)2月19日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで機銃掃射Strafingを受ける。
コンソリデーテッドPBYカタリナ
Consolidated PBY Catalina
PBYカタリナConsolidated PBY
Catalinaは、アメリカ合衆国USAのコンソリデーテッド・エアクラフト社Consolidated Aircraftが開発Developmentした飛行艇flying boat。
1936年(昭和11年)10月運用開始Introduction。
第二次世界大戦World War II中ではアメリカ海軍US Navyを始めとして連合国各国Allied countriesで対潜哨戒Maritime patrol、沿岸警備Coast Guard、海難救助sea rescueなどに用いられた。
また、アメリカ陸軍航空隊US Army Air Corpsでも捜索救難機Search and rescue aircraftとして水陸両用amphibiousのOA-10AカタリナOA-10A Catalinaを採用した。
軍を退役したのちAfter
retiring from the army、現在まで消防機Firefighting aircraftとして各所で用いられている。
1942年(昭和17年)2月19日、ダーウィン空襲Bombing of Darwinで撃墜される。
OA-10Aカタリナ OA-10A Catalina